第21話

そのままどのくらい沈黙が続いたのは分からなかったが、段々と風が強くなってきて体にこたえてきた。マフラーや手袋も持ってくればよかった。

「……母さんのストールがあるから使いなさい」

母は首元に巻いていた焦げ茶色の幾何学模様がプリントされたストールを渡した。私は受け取ろうかしばらく悩んだけどそのまま受け取った。母の善意は長い間真実を伏せていたことを払拭するわけではないからだ。

「駅の近くに美味しい定食屋さんがあるから、たまには外食しようか」

「え、いいの?」

「母さんもたまには誰かが作ってくれたご飯を食べたい時があるのよ」

母は前をゆっくりと歩き始めた。私は急いでストールを巻き付けると後をついて歩いた。

「……お母さん、さっきはいきなり手を払ってごめんね」

「ん?ごめん、風の音で聞こえなかった」

「ううん、何でもない」

30年前から入院している伯父さんのことをもう少し詳しく聞きたかったが、そのまま黙って歩き始めた。


夕方時の電車内は結構混んでいた。電車内にいる人たちは皆一様に何か小さな箱を覗き込んでいる。以前、梶さんが持っていたものと酷似していた。母が持っているのを見たことがないので、母も知らないものかと思ったが気にせずに窓の外を眺めている。もしかしたら、実は母は持っていて私の知らないところで使っているのかもしれない。父や母は、まだ私の知らないことをたくさん隠しているのかもしれない。母の涼しげな横顔を見ていると、そんな疑心暗鬼な思いがむくむくと湧いてくるようになってしまった。

最寄駅を降りると、駅前に小さなスーパーとコンビニ、少し歩いた先にレインボー商店街があり、昔ながらの店がたくさん立ち並んでいる。以前、母がその商店街にある惣菜屋さんで買ってきてくれたメンチカツが凄く美味しかったのを覚えている。

「家から逆方向なんだけどね、町中華の美味しいお店があるの。そこに行ってみましょう」

歩いて十分もかからない内に母はある店の前で足を止めた。【さざなみ食堂】と看板に書いてある。ただ、店の入り口には準備中というプレートが下がっており、母は落胆したように小さなため息をついた。

「まだ、6時前だし、夕食には早い時間帯だから仕方ないわね。また、食べに行きましょう。月並みだけど、雫のお店に近い大通り沿いにあるファミレスにしようか。ファミレスなら大体空いているだろうから」

「うん、分かった」

ファミレスも、ほとんど食べにいった覚えがない。小学生ぐらいの頃、もう父とはほとんど顔を合わせていなかった時期に母と美波と3人で食べに行った覚えがある。美波はどうしてもメニューに書いてあった大きなイチゴとバナナがふんだんに使われていたパフェを食べたくて、お腹がいっぱいだったのに無理に押し込んで帰った後にトイレで嘔吐していた。その印象が強すぎて、当時私は何を注文していたのか全く覚えていなかった。

カフェに向かう以外にここの通りを歩いているのが不思議だった。まだ、【月夜の森】と出会う前、私は周りをきょろきょろ見回しながら何かに怯えながら歩いていた。自分とは知らない人たちが楽しそうに談笑している姿も、挙動不審の黒づくめの私の噂をしているんじゃないかと怖くて怖くて仕方なかった。

だけど、そんなことは杞憂だった。

周りの人たちは、自分たちが生きていくことで精一杯で、そんなに周りの人がどう生きていようが気にしていない。むしろ、歯牙にもかけない。

だから、私は夜の世界で生きていくにも堂々としていようと思った。

【月夜の森】で出会う人たちを笑顔で向かい入れるために。私は私に自信をもって接客しようと思った。そうすれば、皆安心してくれるし、憩いを求めて来店してくれる。

美味しいコーヒーを入れて、たくさんの人たちの話に耳を傾けて、満たされた気持ちでまた1日頑張ってほしいと思っている。

それが、託された私の使命なんじゃないかと思い始めていた。

6時前のファミレスは人がまばらだった。一人でパソコンに向かい合っているサラリーマン風の男性や、友達とどこかに行ってきた帰りなのか、大きな紙袋をたくさん持った高校生ぐらいの女の子たちがはしゃぎながらパフェを食べている。

「雫、何食べたい?普段、和食よりな食事が多いから洋食でも食べたら?」

「うーん……どうしようかなぁ」

和食、洋食、中華、女の子たちが食べていたパフェのようなデザートまでたくさんの種類の料理がメニューに載っていた。母の作る和食は大好きだけど、グラタンやドリアのような洋食も魅力的だし、おすすめの町中華を食べ逃してしまったからラーメンのようなものも食べたい気がする。

「うーやっぱり悩んじゃうなぁー」

「今日はお店がお休みだし、ゆっくり選んでいいのよ」

「うん、じゃあ、この鶏肉のトマト煮にしようかな」

「ドリンクバーもつける?」

「ドリンクバーって?」

「好きな飲み物を好きに飲めるシステムよ」

母が指さす方向に、コップがたくさん置かれ、いくつもの大きなタンクからジュースが自動で注がれる機械が置かれていた。

「へぇ、凄いね。あんなの初めて見たかも」

「いちいち注文された飲み物を持ってくるとお店の人の手間じゃない?だから自分の好きなものは自分で取ってくるっていうシステムなのよ。画期的よね」

私はコクコクと頷いた。そして、いつの間にか足をぱたぱたさせていた。

「早くドリンクバーを使ってみたいのね。そんな足をバタバタさせないの、子供じゃないんだから」

「うう、ごめんなさい……」

食べ物の注文を済ませると、母と一緒にドリンクバーへ向かった。オレンジジュースやリンゴジュース、紅茶やウーロン茶やコーヒー、炭酸系のジュースもあった。

私は色々と飲んでみたくて、一度に紅茶、リンゴジュースを入れて席に戻った。

「雫、2つ持ってきたの?飲み終わってから違うの入れればいいじゃない」

「ちょっと、飲み比べがしてみたくて」

私は席に着くと、そのまままずリンゴジュースをこくっと一口飲んだ。その後、紅茶もこくっと飲んだ。あまり甘くなかった。

「甘くしたいんだったらドリンクバーの横にミルクとガムシロップがあるからそれを持ってきなさい。温かいのだったら砂糖ね。自分で味の調整が出来るから」

母に言われるがままに私は再度ドリンクバーの元に向かった。どのくらい入れればいいのか分からなかったので、ガムシロップとミルクを3つずつ持って行った。

母は私がたくさん抱えているのを見ると目を丸くしたが、そのまま何も言わずにドリンクバーに向かった。母が選んでいる時に、頼んでいた料理をお店の人が持ってきてくれた。トマトソースの良い香りがする。母はたらこスパゲッティを頼んだようだった。

「あら、二人とも料理が来たのね。食べましょうか」

「うん」

手を合わせると、私はナイフとフォークを取った。少しずつナイフで切り分けて、口に入れるととても美味しかった。

「そうだ、お母さん、私昨日お店でシチューを作ったの!」

「え?雫が?」

母は心底驚いた顔をしていた。

「うん、お母さんが料理しているところは見ていたから。でも今まで実践はあまりしてこなかったから、あとは見様見真似ってところだったけど。だけど、お客様にすっごい喜んでもらえたの。もっと、料理のレパートリーを増やして、提供出来たらなぁって思う」

母は眩しそうに目を細めた。

「……凄いわね。正直、カフェで働きたいって言った時にちゃんと出来るか心配していたのよ。美味しいコーヒーも入れてくれたし、ご飯も自分で作れるようになるなんて思わなかった」

母の目は潤んでいた。それを隠すように少し俯き加減になっていたが、こそばゆい感覚が込み上げてきた。

「お母さん、今度は家でご飯を―――」

「へぇ、雫が料理を?凄いじゃないか。僕もぜひ食べたいな」

体の中を一気に悪寒が走り、私は勢いよく声の方向を向いた。黒のトレンチコートにグレーのマフラーをした父が、にっこりと笑みを浮かべてそこに立っていた。隣には黒縁眼鏡をした冷たい印象で無感情の男性が立っていた。

ゆっくりと母の方を向くと、先ほどのまでの穏やかな表情から一変し、敵意をむき出しにした表情を父に向けている。

「……何であなたがここにいるの?」

「ん?加賀見から連絡を受けてね。脳神経外科のフロアまで来たっていうからさ。菜月が過去のことをいろいろと雫から説明を請われるかと思って心配になったんだよ。だけど、二人で楽しそうにファミレスで食事をしているから、安心したんだよね。それなら僕もたまには家族団らんとしゃれこもうかと思ったわけだよ」

父はマフラーを外すと、そのまま私の隣に座った。

「鶏肉のトマト煮、美味しいよね。でも、生憎だけどこれから会食があってね。あまり食べられないからコーヒーだけにしておこうかな。柊―――」

しゅう、と呼ばれた父の傍に控えていた黒縁眼鏡の男性は何も言わず、父の前にコーヒーを置いた。

普段は香ばしい香りに胸が高鳴るはずが、今日に限っては動悸が高まり眩暈がする。

「心療内科の方も、いつもと変わらないようだね。だけど、気のせいかな?以前より顔色がいいし、表情が明るい」

父の言葉に一瞬、人差し指がぴくんと小さく痙攣したが、目の前の母の表情は一切変わらなかった。父に悟られてはいけない。いつも通りの不安定な私を見せていればいい。

「雫。宇野依月について何が知りたい?」

急な質問に、私は思わず父の顔を凝視した。父は不気味なほどの笑みを浮かべてこちらを見返した。まるで、私が強く反応することを達観していたようだった。

「―――やめて!」

「菜月の兄、っていうことは聞いた?それ以外は?」

母の絞るような悲鳴に、父は一瞥することなく淡々と続けた。

もちろん、病室の奥で今も生きている伯父がどうして30年も目覚めないのか気になる。気になるけれど―――

「今は、知りたくない。私の伯父さんがいたことはびっくりしているけど、母さんを傷つけるようなことはしたくないから知らなくていい」

「雫……」

私の言葉に拍子抜けをしたのか、父は落胆したようにため息をついた。

「きちんと自分の意思を持つようになったか、いい傾向だね。だけど、それは普通に生きていける人だけが望まれる姿勢であって、雫にはその傾向は望ましくないんだよね。3年前、雫の監督を菜月に一任したけれど、どんどん顕現からは離れていっているみたいだ」

「けん、げん……?」

父の言葉の意味が分からず、舌の上で転がしてみるも青ざめた表情の母にそれ以上考えることを止めた。これ以上は踏み込んではいけないと、脳内でアラームが響いている。

「……正直、あまり時間は残されていないんだ。僕の中の彼が、いつ目覚めるか分からないからね」

父の言っている意味が分からなかった。私も母も何も言わず、ただ父の言葉を聞いていた。店内は段々と夕食をとりに家族連れが多く来店してきた。

「―――首座、そろそろ」

「ああ、もうそんな時間か。名残惜しいけれど、そろそろここで失礼するよ」

父はグレーのマフラーを巻きなおすと、ゆっくりと立ち上がった。

「今度はじっくりと話せる時間帯に食事でもしよう。ここは不浄の気が多くて不愉快だ。もっと清浄な気があふれている落ち着いた料亭でも用意しておくよ」

父はそのまま踵を返すとドアへと向かっていった。その後を先ほどの男性が後をついて行った。

二人の気配が消えると、すうっと大きく息を吸った。だけど、うまく息が吸えなくて私は大きく咳き込んでしまった。

「雫、大丈夫?」

「うん、大丈夫。あーあ、料理、すっかり冷めちゃったね。せっかくお母さんとのご飯を楽しむ時間だったのに」

私はナイフとフォークを掴んで再度鶏肉を切り始めた。何故か鶏肉はうまく切り分けることが出来なかった。何度も何度も切りつけた。いつの間にか手は小刻みに震えていて、力がうまく入っていなかった。

「雫、大丈夫。ここには私と雫しかいないから。あの人はもう行ってしまったから」

「うん、うん」

私は切り分けるのを止めて、フォークで勢いよく刺してそのまま大口を開けて嚙みついた。目の前の母は目を大きくしていた。

「行儀悪い食べ方でごめんね。でも、美味しい。冷めてても、美味しいよ」

「……そうね」

母はスプーンとフォークを使ってたらこパスタをゆっくりと食べ始めた。

「冷めてても、美味しいわね」

「ね、そうでしょ」

ふふふ、と二人で見つめあいながら笑った。ざわざわと周りの喧騒が戻ってきた。

「お母さん、私ね、あまり焦らないようにする。これから何が起ころうとしているのか分からないけど。父が私に何をさせたいのか分からないけど、お母さんが私を守ってくれているから、その想いに応えたい」

母は私の言葉に一瞬泣きそうに顔を歪めたが、何度も頷いた。

きちんとご飯を食べて、また明日から【月夜の森】で頑張ろう。自分の中でそう決意して、私はいつもより入念に咀嚼した。



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