第20話

里穂子さんは何度も深くお辞儀をしながら去っていった。私は閉店準備をしながら、僅かながら視界がぐらついているのを感じ、目を強く瞑った。

ここ数年感じたことのなかった睡魔だと気づくと、ふうっと体のこわばりが解けるようだった。

流石に宮原さんも梶さんもいないたった一人で店のことをしていた所為か、体が疲れを感じているのかもしれない。でも、普通の人はこうやって働いて、その疲れを取るためにお風呂に浸かったり眠りについたりして、また次の日に働きに出ることを繰り返すのだ。

私は自分の手のひらをじいっと見つめた。そして、開いたり閉じたりを繰り返した。

ちゃんと体は反応している。じわっとした痺れだって感じている。

たったそれだけのことなのに、言葉にできない充足感に満ち溢れていた。


足元が覚束ないまま家に戻ると、母の顔を見る間もなくゆっくりと二階へ上がり、そのままベッドに倒れこんだ。

いつもなら闇の澱に閉じ込められ、四方を固い壁にふさがれてまるで生きたまま土の中に葬られているような感覚だった。だけど、今回その息苦しさが全くなく、目を覚ました時には重くてだるい感覚もなく頭痛もなかった。時計を見ると夕方の四時近くを指している。こんなにもすっきりとした目覚めはいつぶりだろうか。

私はうーん、とゆっくりと伸びをするとそのまま大きく息を吐いた。

ぼうっと壁を見つめていると、コンコンと戸をノックする音がした。

「雫、起きてる?開けても大丈夫?」

「うん、大丈夫」

戸がゆっくり開くと、母は余所行きのグレーのスーツを着ていた。そして、紙を手渡した。

〈今日はカフェはお休みでしょう?四時半に病院予約しているから出れる?〉

「……うん、すぐに支度するから」


母は車の免許を持っていないので、必然的に電車での移動になる。普段は家とカフェの往復ぐらいしかしないので、電車に乗るのもいまだに緊張してしまう。

最寄駅から二駅先で下りると、そこからは徒歩で十五分のところに総合病院がある。

母が病院で受付をしている際に、私はあたりを見渡した。夕方でもたくさんの人たちが待合室には集まっている。足や手に包帯をぐるぐる巻きにされながら、楽しそうに隣と人とと談笑している人もいれば、一見悪そうなところがなさそうな若い人が沈鬱そうにうなだれていることもある。たくさんの人がいてたくさんの症状があるように、見たものすべてが真実ではないと思う。私も、数年前から父に言われるがままここに通っているが、あまり必要性を感じていないというのが本音だ。

「雫、行くわよ」

母の背を追いかけて、そのままエレベーターに乗った。

三階に着くと、何やら騒がしい声が聞こえてきた。

「だから、こんなところに来なくたって大丈夫だって言ってるじゃない!」

近づいて見てみると、背中あたりまでのふわふわの髪を振り乱して、女の子が大きな声を出していた。隣には付き添いなのか、50過ぎくらいの女性が白衣を着た医師に何度も頭を下げている。

「私は何もおかしくない。おかしいのはこの世の中よ!おかしい奴っていうレッテルを張って処方箋だけ出してお金を貰ってるだけじゃない」

「千里、いい加減にしなさい」

(―――ん?)

聞き覚えのある名前に私は思考をたどった。

「では、また来月に」

「本当に申し訳ありませんでした。千里、行くわよ」

ぶすっとした仏頂面の少女は女性に手を引っ張られて行った。私は無意識にその少女を目で追っていると、勢いよく睨まれた。

「雫、そろそろ時間よ」

母の声に我に返ると、私はそのまま廊下を進んでいった。


コンコン

扉をノックすると、「どうぞ」という声がした。

ゆっくりと扉を開けると、薄い茶色がかったボブカットの女性がにっこりと笑みを浮かべて座っていた。

「こんにちは、雫さん」

「こんにちは、先生」

先生はいつも穏やかな空気をまとっている。臨床心理士は精神的な悩みを抱える人たちの相談相手となり、様々な心理療法で心の問題解決を援助する仕事だと母から聞いたことがある。そのため、ぴりぴりとした近づきがたいオーラを発している人には自分の心の内を話しにくい。だけど、先生はたどたどしく一貫性のない私の言葉をいつも相槌を打ちながらしっかりと聞いてくれる。この人なら、話を聞いてくれるかもしれないという安心感を持っている人だと思う。

「最近はどうですか?睡眠は取れていますか?」

「実は最近―――」

カフェで働き始めたんです、と口にしようとして止めた。この心療内科に通うようにと通達したのは父だ。どこで父が私の話を聞いているか分からない。そう思うと、口を開こうとしてもぶるぶると痙攣し始めて、私は声を発せなくなってしまった。

その時、私の手を先生がそっと握ってくれた。

「雫さん、大丈夫。あなたの声は、誰にも聞かれていません。安心して、話してくれますか?」

金魚のようにぱくぱく口を開きながら、私は真摯な表情の先生を見つめた。

「……先生は、知っているんですか?」

「菜月……あなたのお母さんから大体の事情は聞いています。ここは大丈夫。あなたを脅かすような人はいません」

ふうーと体の緊張が解れて、私は先生に上体を預けて項垂れた。先生はゆっくりと背中を擦ってくれた。

「大丈夫大丈夫。周りの大人たちが、きっと助けてくれる。あなたを解放しようと、皆動いているの」

先生の言葉に私はゆっくりと視線を上げた。

先生は人差し指を唇に当てた。

「詳しいことは、後日お話ししましょう。今日は、雫さんの近況から話してくれますか?」

「―――はい」

私は【月夜の森】というカフェで働き始めたこと。宮原さん、梶さん、五十嵐さん、本庄さんなどのたくさんの人と出会えたことなどたくさん話をした。そして、数年ぶりに睡魔が訪れて意識を失うように眠れたこと。すっきりとした目覚めだったことも話した。先生はカルテに書きながら頷いてくれた。

「良かった。前に来たときは表情が暗かったけど、三か月でこんなに変わるなんて。眠らなきゃ、と焦らなくても眠りが訪れるのは良い傾向だと思います。これなら、睡眠薬や抗精神薬などは処方しなくても大丈夫そうですね。外で活動することは精神的にもいいことだと思います。ただ、あまり無理のないよう働いてくださいね」

「はい、ありがとうございます」

「……因みに、自分の内に自分の意識とは違う存在を感じたことはありますか?」

「―――?」

先生の質問の意味が分からなかった。私が黙ったままでいると、先生は慌てたようにカルテを棚にしまった。

「ごめんなさい。質問の意味が分からないわよね。脈絡のない質問はご法度でした。以後、気を付けるわね」

そのまま診察が終わると、私は先生に一礼して部屋を出た。目の前の椅子に母が座って待っていた。

「どうだった?」

「うん、いつも通りだったよ。カフェで働き始めたことを話しちゃったけど、大丈夫だったかな?」

「ここではあの人も聞いていないだろうから大丈夫よ。ちょっとお母さん、先生と話してくるから一階の休憩スペースで待っててくれる?はいこれ」

母から五百円玉を渡され、私はパーカーのポケットに突っ込んだ。


エレベーターが混んでいたので、階段で一階まで下りた。

五時を過ぎると、病院の外来受付も終了しており、待合室も人がまばらだった。

休憩スペースの備え付けの自販機でイチゴオレを買うと、そのまま近くの椅子に座って飲み始めた。そして、ふと、三階で出会ったあの女の子のことを思い出した。

(千里……そっか、梶さんの妹さんと同じ名前だ)

梶さんの妹の名前と同じだったが、当の本人かどうかは定かではないので梶さんに会っても病院で会ったことは黙っておこうと思った。

イチゴオレを飲み終わり、ふとエレベーターの方を見やると見覚えのある女性が乗ろうとしているところだった。

(あの人は……)

少しスリットの入ったピンクのスーツを着こなし、手には花束を持っているようだった。胸までの髪を巻いて、蠱惑的なピンクのルージュをひいている。先日、家に入ってきた仲林有沙と名乗る女性に間違いなかった。

(何で、病院に……?)

エレベーターが閉まると、すぐに扉のところまで移動した。どうやら5階で下りたらしい。病院の地図を確認してみると、5階は脳神経外科のようだ。もしかしたら仲林有沙の家族が入院しているのかもしれない。これ以上、父の関係者の身辺を知るような行動をしてはいけないとは思いつつ、私は知らず知らずのうちに階段で5階に向かって上り始めていた。


入院患者もいるはずなのに、5階はしんと静まり返っていた。

どくんどくんと自分の心臓の音がやけに大きく響いていた。

仲林有沙はどこに向かったのか分からないが、私は自然と奥の方へと足を進めていた。電気はついているはずなのに、向かえば向かうほど黒々とした深淵の中に迷い込んでいくようだった。

(お母さんも心配になるだろうし、引き返した方がいいんじゃないかな……)

脳裏にはそんな言葉が浮かんでいるはずなのに、怖いもの見たさなのか足を止めることができなかった。

奥へ進むと、さらに右に曲がる。人知れずひっそりと佇んだ祠のようにそれはあった。異様な雰囲気を漂わせ、大きな扉が目の前に現れた。扉の前まで行き、耳を当ててみてもピッピという機械の規則的な音しか聞こえてこなかった。人気は感じられなかったので、ここには彼女は来ていないのかもしれない。

「戻ろう……」

ふと上を見ると、扉の奥にいる人の名前が白いプレートに書かれていた。

「―――え?」

「関係者以外はここには入らないでもらえますか?」

慌てて声の方向を見ると、長身の白衣の男性が立っていた。全く足音がしなかったので今の今まで気づけなかった。

「あ、すみません。今すぐに帰ります」

「脳神経外科に、入院している知り合いの方がいらっしゃらない場合は入られては困ります。外来の方ですか?」

「あ、はい。先ほど心療内科での診察が終わったばかりで……」

「では、1階の受付でお支払いを済ませてからお帰りください」

有無を言わせぬ強い口調に、私は萎縮をして何も言えなくなってしまった。

「―――雫!」

長身の男性の後ろから、母が姿を現した。

「こんなところで何をしているの!」

「宇野さん、病院ではお静かに」

母は男性を見上げると顔色を変えた。

「加賀見先生。すみません、娘がご迷惑をおかけしました」

母は深々と一礼すると、私の手を引いて足早にエレベーターホールまで向かった。

エレベーターに乗っている間も、母は私の手を掴みながら一言も発することはなかった。

病院の外に出ると、私は母の手を思わず振り払った。

「お母さん、何を隠してるの?何で何も言ってくれないの?」

「雫」

外はすでに薄暗くなっていて、母の表情があまり判別がつかなかった。

「ねぇ、あの部屋にいた人は誰なの?宇野依月って、誰?」

ひゅっと母が息をのんだ。母は力が抜けたように、病院の外のベンチに座った。

「……まだ、詳しいことは話せないけど、宇野依月は私の兄よ」

「お母さんの、お兄さん?私の伯父さんってこと?」

「そう、もう30年近く目覚めないで、あそこに入院しているの。とっくに目覚めてもいいはずなのに、兄は心を閉ざして目覚めることを拒んでしまっている」

私の伯父さん……その事実に私は足に力が入らず立ちすくんでいた。


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