第19話

キッチンに向かうとココアパウダーをカップに適量入れて、温めた牛乳を注いでかき混ぜた。

梶さんの方へ向かうと、手招きされている。カップをテーブルに置くと近づいた。

「ちょっとスマホで調べてみたんだけど、横になった方がいいみたいだから二階から予備の布団を下ろしてくるよ。雫さんが傍にいてあげて」

「分かりました」

梶さんは急いで二階へ続く階段に向かった。

女性はうつ伏せになったままで、ぴくりとも動かない。私は女性の隣に座って声を掛けた。

「大丈夫ですか?吐き気や呼吸がしづらいとかはありませんか?温かいココアを作ったんですけど、少し飲めますか?」

「……ココア、飲みたいです」

女性はゆっくりと頭を上げて、こちらを見た。目の下にクマがあり、あまり睡眠をとれていないようだった。ずいぶん前に、鏡で見た自分の姿にとても良く似ていた。

「熱いですから、冷ましてからゆっくりと口にしてください」

女性は力なく、こくんと頷くとカップを受け取った。

こくんこくんと嚥下する音が静かな空間に響いている。体に取り込む音、それを耳にするだけでこの女性が生きようとする力を感じられる。

「……美味しい。ココアなんて、数年ぶりに飲んだ気がする」

「―—―雫さん、布団持ってきたからこっちに移動してもらおう」

梶さんが窓際の空間に布団を敷いた。宮原さんの私物なのか細長い抱き枕を足元に当たる位置に設置している。

「足を心臓より高い位置に置いた方がいいみたい。あと、もしお腹をきつくするようなズボンを履いているようだったら少し緩めてあげた方がいいかも」

「分かりました。お客様、少しこちらで休みましょうか」

「……何から何まで、本当にすみません」

女性はゆっくりと立ち上がると、自分の足でゆっくりと歩みを進めた。手を握った方がいいかと手を差し出したが、先ほどとは違って目に生きようとする強い意志が宿っており、取り越し苦労かと手を引っ込めた。

女性は横たわる際に、腰より少し上にあるスカートのホックを緩めた。

「ここでしばらく横になっていてください」

「ありがとうございます」

女性は横になると緊張の糸が切れたのか、そのまますうっと一息吸うとあっという間に寝息を立てだした。

「ずっと、寝られていなかったみたいですね……」

「雫さん、宮原さんの許可をとっていないけど今夜は誰も入ってこられないよう扉の札を変えてくるよ」

「そうですね、その方がお客様もゆっくり寝られると思いますし。宮原さんも賛同してくれると思います」

梶さんは無言で頷くと、入り口のドアの方へ向かった。

女性の顔を見やると、クマの色は濃く、あまり食事も口に出来ていないのか頬もあからさまにこけていた。

以前の自分のように、眠りたくても眠れていないのかもしれない。

「……睡眠障害が続くと、様々な影響が出てくるんです。日中の眠気はもちろんですけど、だるさや疲れやすさが残っていたり、頭痛や胃腸の違和感も出てきます。なので、食欲も低下してろくに食べられなくなります。あとは、眠れないことの焦りでイライラして周りの人たちを傷つけるような言動を繰り返したり……本当に苦しいことばかりが続くんです」

「―—―雫さんも、そうだった?」

梶さんの言葉にゆっくりと頷いた。

「今は昼間とかに寝られてるの?」

「寝るというか、いつの間にか気を失っている感覚に近いかもしれません。唐突に意識を失うので。全く寝られない日も、もちろんあります」

梶さんは隣にしゃがんだ。

「……これ、あまり人に言ったことがないんだけど、俺の妹は統合失調症っていう病気なんだよね。陽性症状、陰性症状、認知機能障害の三つに分けられるんだけど、妄想や幻覚で急に騒いだり、かと思えば喜怒哀楽の表現が乏しくなって自発的に行おうとする意欲もなくなる。何が切り替えスイッチになるか分からない。もちろん、不眠の症状もあって眠れないことにイライラして苦しんでる。うちは、父は俺たちが小さい頃に愛人作っていなくなって、母もその後精神的におかしくなっちゃって今は一緒に暮らしていないから俺がしっかりとした企業に就職して、妹を支えながらしっかりと生きていかないといけないんだ。だけど、たまに俺一人に降りかかってくる重圧にとてつもなく不安になるし、しんどくなる。助けてくれー!って走りながら叫びたくなる」

梶さんはそのまま腿に顔を突っ伏した。後頭部を見つめながら、私はいつの間にかよしよしと撫でていた。

「……雫さん、俺ヨルじゃないよ。まぁ、年下だとは思うけど。あれ、雫さんって今いくつ?」

私は眉間に皺を寄せながら「女性に年齢を訊くのは野暮だと思います」と言うと、梶さんは顔の前で手を振りながら慌てて弁解した。

「いや、そうだよね、ごめん」

「二十六です」

「―—―え!俺の四つも上?」

「よく童顔、とは言われますけど」

「……いや、勝手に一つくらい上かなぁって思ってましたごめんなさい」

「今更敬語使わなくても大丈夫ですよ」

「んーまぁそう言ってもらえると今まで通り自然体で接することが出来るからありがたいけど……てか、雫さんの方が俺に敬語使ってんじゃん」

「私は昔から誰に対してもこの喋り方になってしまうんです。宮原さんだって敬語ですよ」

「まーそうだけど……」

その時、ブーブーと梶さんの胸辺りから音がした。急に表情を変えると、梶さんは胸ポケットから四角い箱(前にスマホといっていたもの)を取り出して耳に当てた。

「……はい、はい、分かりました。すぐに戻ります」

会話を終えると、梶さんははーと長い息を吐いた。

「雫さん、ごめん。千里(せんり)、あ、妹なんだけど、ちょっと目を覚ましたら俺がいないことに驚いて騒いでいるみたいだから一度家に戻る」

「妹さんは、誰かが見ていてくださっているんですか?」

「母方の叔母さんが俺がいない時は見てくれているんだけど、多分手に負えないんだと思う。落ち着いたらまた戻ってくるから、店をお願いしてていいかな?」

「分かりました。ぜひ行ってあげてください」

そう声を掛けると、梶さんは一瞬泣きそうな表情になったがそのまま踵を返してお店を出ていった。


女性はすーすーと規則正しい寝息を立てながら眠っているようだった。

時折、眉間に力を入れて歯を食いしばるなど苦しそうにしている。眠ることを拒否しているかのようだった。

私は女性を横目で確認しながらも、ブックカフェの書架を見回り始めた。

宮原さんも梶さんもいない、私一人で対応しなくてはならない。

梶さんの言うように女性が貧血であるならば、貧血を少しでも改善する料理が記されているレシピ本のようなものはないだろうか。

宮原さんのお父さんと五十嵐さんの集めた本の中にはそのような本がなかな見つからなかった。

池波正太郎の江戸の料理を食べる本や文豪たちが愛した料理店、北大路魯山人の料理エッセイなどはあったが、今すぐに使えるようなレシピは載っていない。

鉄分を効率よく摂取するならプルーンやひじきやアサリなどがあることは何となく母から聞いたことがあった。だけど、なかなか食事が取れない状態が続いているのであれば具だくさんのスープとかいいのかもしれない。

私はキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。

先ほど、梶さんが玉ねぎと人参を買っておいてくれていたので、その食材も使おう。あとはキャベツ、ブロッコリー、ベーコン、サツマイモもある。まともに料理をしてこなかった自分を悔いながらも、調味料のストック箱に市販のシチューの素があるのを見つけて気分が上がった。牛乳は先ほどココアに使ったので、代わりに豆乳にしてみよう。

まな板と包丁を取り出し、柄を掴んでみるもののどうやって野菜を刻めばいいのかよく分からなくて途方に暮れた。

だけど、小さめに刻んだ方が嚥下しやすいと思うのでそうしてみよう。

私はシチューの箱の裏に書いてある説明をよく読みながら、試行錯誤しながら料理を始めた。


母の調理を何となく思い出しながら野菜たっぷりの豆乳スープを作っていると、「すみません」という声が掛かり勢いよく振り返った。

横たわっていたはずの女性がキッチンの入り口に所在なさげに立っていた。

「あ、すみません、その今お客様にお出しするスープを作っていて―――」

「いい匂いがして、目が覚めました」

女性はゆっくりとこちらに近づくと、鍋の中身をのぞき込んだ。

「美味しそう……」

「あと十分くらい煮込んだら出来上がるので、ぜひ食べてください。あ、でも、私、この店の店員ではあるんですけど、普段からコーヒーしか淹れていなくて料理もほとんどしたことがないんです。お客様のお気に召す味に仕上がっていないかもしれません……」

「お腹が減っているはずなのに、普段から食欲が無くて母のご飯もほとんど食べる気になれないんです。だけど、今はお腹が正直で、鳴りっぱなしなんです」

えへへ、と女性は照れ臭そうに笑った。

女性の笑顔に私も自然と口元に笑みが浮かんだ。

「夜中に急に来たのに、ご迷惑ばかりかけてすみません。本庄、本庄里穂子といいます」

「宇野雫です」

「雫さん、可愛らしい名前。あ、あと、もう一方いらっしゃいませんでしたか?男性の声がしたんですが」

「えっと……もう一人は急用が出来たので今は少し外に出ています」

「そうでしたか。私の所為でいなくなってしまったのかと思っていました」

「そんなことないですよ」

女性はその後は俯きがちになり無言が続いた。私も敢えて色々と尋ねることはないと思い、静かにコトコト煮込まれている鍋を見続けていた。

「私、今、大学生なんですけど、ほとんど行けてないんです。父は大学の教授で母は進学校の高校教師で、小学生の頃からずっと勉強漬けで育ってきました。兄と弟がいるんですが、二人共とても優秀で、兄は弁護士をしています。弟も都内の進学校に通っています。私は中高一貫の女子高に通っていたんですが、勉強についていけなくなって転校を余儀なくされました。そこから両親から落第者というレッテルを貼られるようになった気がします。父は笑顔で接してはくれますが、あまり一緒に出掛けてくれなくなりました。母も料理や洗濯などしてくれますが、あまり目線を合わせてくれなくなりました。兄や弟には厳しくも優しく手を掛けているのに、私には『あなたはそれでいいんじゃない』という一辺倒な返答しかしてくれなくなりました。私は、大学はせめて両親の喜んでくれるところに受かるよう必死に勉強をしました。そして、教育学部のある大学に受かりました。父と母と同じ教職に就けば、兄や弟と同じ段階にまで追いつけるんじゃないかと、そんなひそかな希望を抱いていました」

里穂子さんはそこまで一気に話すと、声を震わせながら俯いた。

「……だけど、駄目だったんです。もう、父や母の興味は私からは逸れていました。報告しても『そうなんだ、おめでとう』の言葉だけで、あとは兄や弟のお膳立てで忙しいようで見向きもされませんでした。それから、何をやっても何を学んでも頭に入ってこないし、夜は全く眠れなくなりました。眠るのが、とても怖くなりました。私がもし寝ている間に父と母がリビングで私を家から追い出そうと相談していたり、いかに出来の悪い娘なんだということを話し合っているんじゃないかって、そんな悪い想像ばかりが浮かんできてしまうんです。大学に通いだしてもいつ、両親が私を残していきなり兄と弟だけを連れて家を出ていってしまうんじゃないかって考えるだけで震えが止まらなくなるんです……!」

わあっと顔を両手で覆って里穂子さんはその場で泣き出してしまった。

私自身、勉強における重圧はあまり感じたことが無かった。というのも、父に言われるがままに高校受験を終えて、大学には通わず、指示された会社に勤めていたからだ。だけど、今の私はあまり過去の記憶が無くて、高校のことも会社のこともよく覚えていない。

ただ、覚えているのは、たくさんの人たちに拝まれて頭を下げられていたことだ。

今となってはそれが何の意味があったのか思い出すことが出来ない。

母はあまり感情を出すことはしないが、ちゃんと私の意見を尊重してくれている。

自分が、誰にも必要とされていないとか孤独感に苛まれていた感覚はやはり以前の自分にはあったので、里穂子さんが全身全霊で苦しみを抱えていると感じられた。

私は里穂子さんの肩に手を置いた。

「本庄里穂子さん、あなたは体の調子を崩してしまうくらいに気持ちが落ちている時に、この【月夜の森】の灯りを見つけてここに来てくれた。私も、ずっと眠れなくて苦しんでいる時にこのお店を見つけて救ってもらったんです。大丈夫、私はずっとこのお店にいます。あまり料理は得意じゃないけれど、コーヒーは淹れることが出来るのでぜひいつでもいらしてください。そして、心の内を話してください」

里穂子さんはゆっくりと顔を上げた。泣きはらしたのか目の周りが真っ赤になっている。

「いいんですか?こんな、楽しくもない私の話をしても……誰も、受け止めてくれないと思っていました」

もちろん、というように私は強く頷いた。

その後、私と里穂子さんは一緒に豆乳の野菜スープを飲んだ。ルーが少なかったのか、ちょっとしゃばしゃばしていたが、里穂子さんはとても喜んでくれた。

そして、閉店間近まで二人で色々な話をした。

空が明るんできても、梶さんは結局戻っては来なかった。


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