第18話

ゴリゴリ

私は逆三角形の取っ手を回した。

目の前の母は頬杖をつきながらこちらを眺めている。

とっぷりと日が暮れ、あたりは闇で充ちている時間帯に私は手動式のコーヒーミルでコーヒー豆を挽いていた。

【月夜の森】で働き始めて約一カ月が経っていた。まだまだ宮原さんのように美味しいコーヒーを作ることは出来ないが、家でもコーヒー豆を挽いてコーヒーを淹れられないか母に相談してみた。

母はすぐに大量にストックしているメモ帳にさらさらっと何かを書きこむと私に手渡した。【コーヒーミルとかはどう?】と記されている。

図書館で調べてみるとコーヒーミルには電動式と手動式があるらしい。たくさんの量を手間を掛けずに挽きたい場合は電動式の方が適しているが、自分の手で豆を挽く感覚と挽きたての香りを楽しめるのであれば手動式がいいと記載されていた。宮原さんはお客様一人一人に丁寧に手動で豆を挽いている。豆を挽いている時の宮原さんはとても心地よさそうだ。そして、今は本体内側の調節ねじを回すだけで挽き目調節が出来るコンパクトな持ち運びのできるコーヒーミルが人気らしい。

手動式のコーヒーミルのことを母に伝えると、母はにこりと笑みを浮かべ頷いた。すぐに母は手動式のコーヒーミルを買ってきてくれた。

【月夜の森】にあるコーヒーミルは卓上タイプのもう少し大きめのサイズのものだったが、母が買ってきてくれたのはカーキ色の筒状のコーヒーミルだった。母がお気に入りのカルディでコーヒー豆を買ってきてくれたので、早速母に挽いてあげることにした。最も一般的で豆の風味をバランスよく味わえる中細挽きを目指す。ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、挽いたコーヒー豆を入れる。ドリップポットでお湯を沸かし、注ぎ入れた。お湯を乗せるようなイメージで、と宮原さんに言われたけれど、なかなか難しい。お湯を注いだら蒸らし、三回に分けてお湯を注いだ。コーヒーサーバーのコーヒーを母のカップに入れると、香ばしい香りがリビングに広がった。

「……いい香りね」

思わず漏れた母の声に、私ははっと体を強張らせた。

だけど、母は大丈夫よ、というようにこくりと頷いた。コーヒーの香りを確認し、ゆっくりと一口飲んだ。私や美波は猫舌でしばらく冷まさないと飲めないが、母は熱いものはすぐに口に出来てしまう。

母はすぐにメモに書いた。

【今まで飲んだどのコーヒーよりも雫が淹れてくれたコーヒーが一番おいしい】

達筆の母が急かす気持ちが抑えられなかったのか、ところどころ斜め字になって読みづらくなっていたけれどその母の賛辞の気持ちが嬉しかった。

こみ上げてくる気持ちを目をこすることで誤魔化して、私は「ありがとう」と小さく呟いた。

声に出さずにいられなかった。


「おはようございます」

夜の十時五十分、出勤すると店内はしんと静まり返っていた。

いつもなら、キッチンから宮原さんが顔を出して出迎えてくれるはずだ。

「宮原さん……?」

ゆっくりとキッチンの入り口の布をくぐると、電気が消えていて準備もされていないようだった。宮原さんに何かあったのだろうか?

【月夜の森】に雇ってもらえる時に、自分の住所と固定電話の番号を知らせていたが特に出勤前に掛かってきた形跡はない。

とりあえず、慌てないようにしよう。一人でもお客様を迎えられるようお店の準備をしよう。

私はすーはーと大きく息を吸うと、キッチンに置いてある黒のエプロンを身につけた。店の制服だけど、これを身につけるだけで何だか気が引き締まる。

店の扉の前に「OPEN」の看板を吊り下げて、キッチンでコーヒー豆の補充が必要ないか確認をした。食事メニューはデザート以外にはサンドイッチやナポリタンなどがあるが、夜十一時以降になるとあまり出ない。だけど、メニューにある以上、注文が来るかもしれないので恐々としていた。まだ、自分一人ではきちんと作ったことがない。

(うん、大丈夫。頑張ろう)

気合を入れるために頬を叩くと、カランとドアベルが鳴る音がし、一気に背筋が伸びる。

「いらっしゃいま―――あれ」

「あ、本当だ。黒のエプロン着けてる」

黒のブルゾンを着た男性がゆっくりと扉を開けて入ってきた。妙な既視感があったが、私は咄嗟に名前が出てこなくてしばし注視してしまった。

「……えーと」

「え?俺のこと忘れた?あー前は少し茶色がかった髪してたから分からないか」

ブルゾンを脱ぐと、男性はそのままキッチンへと向かった。

私はゆっくりと男性の後を追うと、キッチンを覗いた。

「へぇ、コーヒー豆の種類も増えたし、食事のメニューも増やしたんだ。コーヒーは大体あんたが作れるって聞いたけど、凄いじゃん。帰りに食パンやトマト缶とかピーマンや玉ねぎとかも買ってきたからさ、料理は俺が用意できるよ」

私が何も言わずに訝しげに見つめていた所為か、男性は困ったように頭を掻いた。

「梶だよ。ちょっと卒論や就職活動やバイトで忙しかったから顔を出せなかったけど、先月会ったじゃん」

「―—―あ!」

「思い出した?じゃあ、早速店の準備を始めようか」

「ちょ、ちょちょちょちょっと待ってください!肝心なことを聞いていません。宮原さんはどうしたんですか?」

「うーん、じゃあそれは準備しながら少しずつ説明するよ」

梶さんはてきぱきと料理の準備を始めた。私は宮原さんから直接不在の理由を知らされていないのに、梶さんは聞かされている事実に落ち込みながらも、とりあえず出来ることを始めようとホールに向かった。

最近は、仕事を始める前に店内清掃から始めることにしている。

お客様を迎えるのにあたり、やはり清潔感を保つべきだと思うからだ。宮原さんも最近は一緒に清掃をすることがとても楽しいと話してくれた。

テーブルや椅子を磨き、床は箒でゴミを集めて仕上げにモップで擦っていると視線を感じて顔を上げた。

宮原さんの黒のエプロンをつけて、梶さんが腕組みをしてこちらを見ていた。

「手早く掃除も出来てるし、感心感心。バイト先だとこうは綺麗にしていないかもなぁ」

「あの、そろそろ話してくれませんか?」

「あーそうだった。宮原さん、職場で体調崩しちゃって早退したらしいんだよ。んで、店の二階で寝ていたんだけど熱も上がってきちゃって動けなくて、俺に店をお願いできないかって連絡が来たんだ。あんたが正式なここの店員になっていることもそこで知ったよ」

「え、宮原さん大丈夫なんですか?私、見てきますね」

モップを置いて二階へ続く階段へ向かおうとした時、「二階にはいないよ」と声が掛かった。

「それじゃあ、どこにいるんですか?病院とかですか?」

「宮原さんの実家に連絡したらさ、聖良ちゃんがいたから事情を話した。宮原さん、あまり実家には関わりたくないとは思ったんだけど、ちゃんと心配してくれる家族がいるんだからさ、甘える時は甘えた方がいいと思ったんだよね」

梶さんは家族、と口にする時に、どこか寂しそうに目を細めた。

「聖良ちゃんとお父さんがお店に来てさ、そのまま実家に宮原さんを実家に連れて行って静養させるって。病院にも連れていくって話してたよ」

私はほっと胸をなでおろした。

「あんたにきちんと連絡できなかったこと、申し訳ないって謝ってた。だけど、具合悪い中名簿を探すのも難しかっただろうしさ、許してやってよ」

「……もちろん、怒ってなんかいません。だけど、良かった」

宮原さんが体調を崩したのは心配だったけれど、聖良ちゃんやお父さんお母さんがいる場所で過ごせていることに安堵していた。

「あと、梶さん、一ついいですか。私は【あんた】じゃありません。雫です」

「あーごめん。雫、さん。何か違和感があるんだよなー」

「今日は同じ【月夜の森】で働く店員同士なんですから、ちゃんと名前を呼んでください」

「はい、分かりました」

その時、ふわっとトマトとにんにくの香りが漂ってきた。

私はすんっと鼻を鳴らすと、梶さんはにやっと笑みを浮かべた。

「ナポリタン、作ったんだけど仕事前の賄いご飯、食べる?」

「ナポリタン……!」

「宮原さんが作るレシピと違うかもしれないけど、試作品としてどうかなって。雫さんの感想を聞かせてよ」

「はい、分かりました!」

【月夜の森】に来る前に母の夕食を食べてきたけれど、夕方にコーヒーを飲みすぎた所為かあまり食べられなかった。お腹が空いていたのでナポリタンの存在はとても有難かった。

宮原さんが雑貨屋さんで一枚一枚吟味して購入したというパスタ皿で出してくれた。月にちなんだものだったり、ヨルを思わせる皿など同じ皿はない。ナポリタンに隠れて黒いしっぽが見えたので、梶さんは黒猫の皿に盛ってくれたようだった。

「はいどうぞ」

「ありがとうございます。いただきます」

私は手の平を合わせてからフォークとスプーンを手にした。

にんにくの香ばしい香りがまず鼻孔をくすぐった。途端にお腹がぐーと鳴ってしまった。隣に座っていた梶さんが笑いをかみ殺すように肩を震わせていた。

「お腹は正直ってことだな」

梶さんの言葉は聞かなかったことにして、私はそのままフォークに麵を絡ませて口に運んだ。母が作ってくれるナポリタンとはまた味が違っていたが、とても美味しかった。

「このナポリタン、ケチャップで味付けしたんじゃないんですか?」

「ケチャップも入ってるよ。でも、トマト缶がベースになってる。にんにくの他にコンソメとかソースなんかも使って。美味しいだろ?」

「……すっごく美味しいです」

「そりゃあ良かった。何度もここに来れるわけじゃないからさ。レシピを書いて渡しておくよ。宮原さんに渡しといて」

「料理、得意なんですね」

「んーまぁ、バイトでも厨房に立ってるし。あとは小さい頃から妹と二人で過ごすことが多かったから。大体俺が飯を作ってた」

「そうなんですね……」

私はそのままナポリタンをぱくぱく食べていると、梶さんはこちらをじっと見つめていた。

「……何ですか?」

「いや、妹がいるんですねーとか、ご両親はいないんですかーとか大抵は訊かれるから。訊かないんだなぁって」

「以前、家のことで色々言われてあまりいい気はしなかったので。訊かない方がいいと思ったんです」

梶さんはバツが悪そうな顔をした。

「それって、俺のことだよな?」

「どうでしょう?」

「あの時は悪かったよ。でも、まさか本当にこの店で働いているとは思ってなかったから。親御さん、許してくれたんだ」

「背中を押してくれました。だから、私は私のやれることを精一杯ここでやろうと思ってます。宮原さんも応援してくれていますし」

「ふーん……」

私はあっという間に平らげた。手の平を合わせて「ごちそうさまでした」と言った。

「お粗末さまでした」

梶さんが皿を下げようとしたので、「大丈夫です」と止めた。

「自分が食べたので、自分のお皿は自分できちんと洗います」

その時、ふと脳裏に浮かんだ。

「梶さん、食後のコーヒーは召し上がりませんか?今日、家でコーヒーミルで母にコーヒーを淹れたんですがとても喜んでくれたので」

「へぇ、コーヒーミル買ったんだ。じゃあ貰おうかな」

「分かりました」

皿を洗い終わり、コーヒー豆を選別している時、カランと微かにドアベルが鳴った。

急いでキッチンを出ると、そこには二十代前半くらいの女性が扉にもたれながら立っていた。

「いらっしゃいませ」

「……あの、すみません。ここはカフェ、ですか?」

「そうです。夜の十一時から朝の五時まで営業しています。あ、こちらにどうぞ―――」

女性はふらりとゆっくりと床に座り込んでしまった。

「お客様、大丈夫ですか?」

「すみません、大丈夫です。ちょっと、眩暈がしてしまって……」

「雫さん、ちょっとそっちの片腕支えてあげて。椅子まで移動させるよ」

「あ、はい!」

梶さんと呼吸を合わせて、ゆっくりと女性の歩みに寄り添って進んでいった。

女性はゆっくりと椅子に座ると、そのまま机に突っ伏してしまった。

「とりあえず、何か温かいものを……」

「もしかしたら、貧血かもしれない。顔面蒼白、唇もかさかさだし、肌も荒れてる。コーヒーは控えた方がいいかもしれない。食事で補えるとしたら、肉や魚介、大豆や乳製品、ビタミンやミネラルを多く含んでいる海藻や野菜を食べるのがいいんだけど……」

「あ、梶さん、ココアなんてどうでしょう。母が貧血気味で飲んでいたんです。牛乳もありますし。ちょっと用意してみますね」

「分かった、この人は俺が見てるから」

梶さんと女性を一瞥すると、私はキッチンへと向かった。




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