第14話

結局その日は一睡も出来ずに夜を迎えた。

いつもは目が覚めたところで闇に充ちている部屋が、今日は布団の隙間からゆっくりと闇色に染まっていく様を目にすることが出来た。

そこで、夜というものは急に闇に染まっていくものではないと察することが出来た。

舞台の緞帳のように少しずつ少しずつ様相を変えていく。そして見ている者を少しずつ現実へと還していく。

そんな昼から夜への移り変わりをしっかりと目に映したことで、私はこの世界で自分が確かに息をして生きていることをあらためて実感することが出来た。

ずっと、自分がこの世界できちんと息をしているのか分からなかった。

いつのまにか世界の日は暮れて、私は地に足がつかないまま世界の動きに置いて行かれているのだと思っていた。

だけど、今夜から何かが変わる気がしている。

ふわふわとしていた足元をちゃんと地につけて、夜の世界でも必死に息をしている人たちのために私も何か出来ることがあるんじゃないだろうか。

【月夜の森】を訪れてくれるまだ見ぬ人たちに思いを馳せながら、私はぎゅっと手に力を込めた。


黒いカジュアルな服ばかりしか持っていなかったため、母は私が頼む前に白いワイシャツをアイロンでピシッと仕上げてくれていた。

腕を通す時に何だか背筋がしゃんと伸びるかのようだった。

黒いズボンを履いて、夜の十時半頃には玄関の扉を開けた。

まだお店が開いていないようなら店の前で待っていればいい。でも、遅い時間帯にうろうろとしていると近所の人たちに不審に思われてしまうだろうか。

これから新しい夜の時間帯に生きていく上で、お店の評判を損なうことは避けたい。

歩きながら空を見上げると今夜は薄曇りで空気もじっとりと湿っていた。薄曇りの間から朧月夜がかすかな光を灯している。

月の光はお店までの道標を記してくれるスポットライトのようだった。そう思うだけで心の底にある不安感を払拭してくれる。

【月夜の森】が見えてくると、店先の電灯はすでに点いていた。店内もレースのカーテンで閉め切られていたが、ほのかな明かりが漏れている。宮原さんはすでに出勤しているのかもしれない。

「……こんばんは」

ゆっくりとドアを開けるとちりちりん、とドアベルが鳴ったが宮原さんが出てくる気配はなかった。

だけど、キッチンの方から話し声が聞こえてくる。

私は顔を覗かせようと近づくと、勢いよく誰かが飛び出してきた。

長いポニーテールをなびかせて、茶色がかった目とぶつかった。目にはうっすらと涙が浮かんでいるようだった。

十代後半くらいの女の子は私と確かに目が合ったがそのまま何も言わずに店の外に飛び出して行ってしまった。

「聖良ちゃん、待って―――」

息を切らし、飛び出してきた宮原さんは入口のところに立っているのが私だと分かると罰が悪そうに口を閉ざした。

「ごめんなさい。お話し中に……」

「いえ、雫さんは悪くないですよ。まさか、こっちの方に来るなんて思わなかったから……」

はあ、と一息ついて宮原さんは壁に背中を預けてうなだれた。

「追いかけて、お話ししなくて大丈夫ですか?私で良ければ、コーヒーくらいだったら入れられますし、少しお店を離れても―――」

「いえ、コーヒーはそう単純じゃないんです。コーヒーミルを用意して豆を挽くんですが、お客様の飲みたいコーヒーの飲み方や使用する器具に合わせて粒度を意識しながら挽かなければいけないんです。まだお任せできる段階ではない」

宮原さんは俯きながらもきっぱりとそう告げた。

私は自分自身の軽率な言葉に恥ずかしくなり、そのまま口を閉ざした。

「……すみません。雫さんがいつもとは違う白いシャツを着てきてくださったということは、このお店で正式に働けるようになったということですよね。私はきちんとお礼を述べなければならない立場なのに、失礼なことを口にしてしまってすみません」

「いえ!私こそ、コーヒーは母が淹れてくれたインスタントのものしか飲んだことなかったので、きちんとコーヒーを淹れることはどういうことは分かっていないのに余計なことを言ってしまって……」

「でも、ここで働くということはこれから徐々に雫さんにコーヒーの淹れ方を教えていける。それは私にとっても喜ばしいことです」

私が宮原さんを見上げると、彼は目を細めて嬉しそうに口角を上げていた。

「これからよろしくお願いします。宇野雫さん」

宮原さんは深々と頭を下げた。私も続けて頭を下げた。

「よろしくお願いします。宮原、店長……」

「店長、なんてこそばゆいですね。いつもお客様からは宮原さんと呼ばれるので」

私は気持ちが高鳴るのを感じながらも、先ほどの女の子の涙がずっと気にかかっていた。

自然と女の子が飛び出していった店の扉を振りかえったら、宮原さんは「娘、なんです」と口にした。

「正確には、三年前に急に娘となったといいますか―――」

宮原さんは静かにぽつりと話した。

「私は四十近いのですが、正直、まともに女性をお付き合いしたことがありません。父の残した本を読み漁り、コーヒーが好きだった母のために美味しいコーヒーを淹れるために勉強をし、プライベート時間を脅かされないような企業に勤めて、週末はたまに映画や舞台を観に行ったりお菓子や料理を作ったり、そんな自分のためだけのために煩わされない時間を過ごしていけることが至福だと思っていました。それだけで、私の人生は十分でした」

「まわりの同期や大学の同級生たちが段々と結婚していっても、私はただその結婚という選択肢を選んだ人たちをおめでとうと賛辞を送りました。それが最善の対応だと思っていましたし。ただ、それを送られた側の人たちは一様にこう言いました。『宮原も、早く素敵なお嫁さんを見つけなよ』と」

宮原さんはふうと、一息ついた。

「今の人生がとても楽しくて満足しているのに、何故変化を求めるのかと思いました。結婚し、奥さんとなる女性を迎えて変化をしていくことが幸せと決めつけられている風潮に私は理解が出来ませんでした。それは今でも変わらない気持ちです」

「だけどその時に」と、区切ると「彼女が現れたんです」と続けた。



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