第13話
家へ帰るといつものようにひんやりとした静謐な空気が漂っていた。
玄関に漂っていたむせかえるような残り香もすっかり消失している。
いつもと変わらない、見慣れた空間のはずが、私自身の体がそれ以上中に進むのを潜在的に拒んでいた。
(何かが、違う……?)
寒さ対策のために羽織ったパーカー越しに、ぴりぴりとした神経をさすほどの悪寒を感じ取っていた。
私はぎゅっと腕をつかみながらゆっくりと三和土を上がると、そのまま目の前のリビングまで進んでいった。
「ただいま……」
リビングに母の姿はなかった。奥の和室にも人気を感じない。
二階で寝ているのだろうか。
現在の時刻は日をまたいで一時をさしていた。
日中に母はどこかに出かけていたようだし、疲れが溜まっていたのだろう。
上で寝ているようなら、ゆっくりと朝まで寝かせてあげたい。
早く母に宮原さんからの提案を話したい思いが溢れそうだが、急いてはいけない。
ずっと外にも出れず、まともに生活が出来ない自分のために、母は自身の人生や生活を削って守っていてくれていた。
父からの命にも忠実に守り、様々な感情を押し殺して母も生きてきたのだろう。
私が【月夜の森】で働くことによって、母も父の凝り固まった考えや感情から解放されないだろうか。
最初は少しずつだろうけど、人並みに働いて、感情を殺して夜の世界に留まるだけが私の生きる道ではないと示していきたいと思う。
ゆっくりと階段を上がると、私の部屋のドアが少し開いていた。
隙間から中を覗くと、母が私のベットに上半身を投げ出して突っ伏していた。
「―—―お母さん!?」
勢いよくドアを開くと私は母の体に飛びついた。
私がいない間にまた父がこの家に戻ってきたのだろうか。
「……あ、雫。ごめんなさい、寝ちゃってたみたい」
「お母さん、大丈夫?何かあった―――」
母はがっと私の口を手の平で覆った。そして、鋭い目つきで私を見つめている。
何もかもあきらめて幼少時の私を見下ろしていた母の目つきにそっくりだった。
(どうして―――?)
外の世界を知りなさいと背中を押してくれたはずのなのに、どうして深淵の闇を思わすような黒い瞳で私を見つめるのだろうか。
母はゆっくりと手を外すと、私の机に移動し、何かを書き始めた。
そして、その小さな紙は手渡した。
『言葉に気を付けて。この部屋、この家はあの人に聞かれている』
「―—―!」
私は声を発さないように口を覆った。
そして、あたりをゆっくりと見渡した。自分の過ごしてきた見慣れた部屋のはずなのに何もかも違うように見えていたのは気のせいではなかった。
母はこくりと頷いた。
私は急いで机に向かうと夢中で紙に書きなぐった。
『あのみせではたらきたい』
母はまたこくりと頷いた。そして母も机に近づいた。
『雫の思うままに生きなさい。お母さんは応援する』
「雫、そろそろお風呂に入って寝る仕度をしなさい」
「―—―うん」
母からの紙をぎゅっと握りしめ、私は初出勤に向けて体を休めることにした。
お風呂に入り、空が段々と白んできても、睡魔はなかなか襲ってこなかった。
夜に眠ることは日常でなくなってしまったが、朝になってもなかなか寝付けないことはこれまでに何度かあった。
眠れなかったとしても、日常は変わらず家でぼんやりとした倦怠感と過ごすだけだったので何の支障もなかった。
だけど、今日から私の日常は変わる。
夜の11時から宮原さんとヨルの待つあの空間で働くことが出来るのだ。
初出勤日は何をするのだろう。
いや、私は店員としてあの店のために何をしていけばいいのだろう。
梶さんという男性も言っていた。常連さんもいるから色々と話を聞いてもらえばいいと。
店員という立場なのに、そんなフランクにお客さんに接していいものなのだろうか。
【月夜の森】以外のカフェに行ったことなど数えたことぐらいしかない。
美波の就職が決まった時に誘ってもらって行ったぐらいかもしれない。
その時に食べたミルクレープが凄く美味しかったことを覚えている。
ミルクレープ―――
あの何層にもなる細く平べったい生地はどうやって作るのだろう。
宮原さんは知っているだろうか?
もっとデザートの種類を増やしたいと話していたし、私も色々と貢献したい。
言葉にできない嬉しさがこみ上げてきて、私は毛布に潜り込んで足をバタバタと動かした。
誰かのために、何かのために、自分はこれをしたい。
無気力に日々を過ごしてきた自分がそんなことを考えるなんて思いもしなかった。
ただ、父の管理の手は確実に強くなってきている。
母の不在と私の外の世界への意欲が疑いの種になっているんだろう。
姿形は分からないが、家の中のどこかに私と母の行動を把握するための盗聴器のようなものが設置されているのも要注意だ。
母をこれ以上苦しめないためにも、私のあらたな世界への一歩を踏み出すためにも、これまで以上に慎重に父の作り出す世界へ傾倒する従順な娘として演じなければならない。
ぐっと私は毛布を掴み手に力を込めた。
全部、守ってみせる。
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