シンは舌打ちひとつ零し、方向転換する。

気配を探り、より人の気配が薄い場所――公園を目指し走る。

よほど男は怒り狂っているのか、不自然な方向転換にまるで疑問も持たず、愚直に追従する。

それが救いかはさておき、二人は眼下に二車線道路をのぞむ、公園に駆けこんでいた。

幸いに人の気配はなく、ぽつねんとブランコやアスレチック、サッカーゴールネットがあるだけの寂しい公園だ。

シンは公園に駆け込み、アスレチックの小さなトンネルの中に正太郎を押し込む。


「ちょっと、シン?」

「お前からだいぶ魂の力を奪ってしまった。その体ではまともに立てまい」

「なにするつもりさ……!?」

「己が時間を稼ぐ。早く気力を回復して、安全な場所に逃げろ。子供は回復も早い」

「そんな無茶な……!」

「いいな。今度はお前が己の我儘を聞く番だ」


ぐ、っとシンの真っ白な手が正太郎の手をかいぐり撫でる。

生きている人と大差ない、寧ろそれ以上に暖かな手に、本当は死んでなんかいないんじゃ、と錯覚させられそうになる。

やにわ、周囲に鉄錆を煮詰めたような悪臭が蔓延る。


――来た。

赤潮にも似た、赤黒い藻にも似た靄の群れ。

公園の周りだけ世界から隔絶されてしまうかのように、鉄錆色が取り巻いていく。

その靄からはぼとり、ぼとりと幾重もの塊が零れ落ちて、ぶちゅりと嫌な音と共に地面を跳ねる。

塊は徐々に形をなしていく。

ダンゴムシやムカデ、芋虫、ゴキブリや蠅、トビゲラ、ハサミムシ、シデムシ、蟻。

どす黒く、凝り固まった血のような色を引きずって、数多の虫、虫、虫の群れが、土を黒波のように覆う。

虫の波が二つに分かれ、その列の間を闊歩するが如く、男は現れた。


「どぉ~こだぁ~い?俺ちゃんのこの!綺麗なお肌に!

 きったないでっかいやけど跡作ってくれちゃったクソガキァよぉ~~!?」


全力の鬼事おいかけっこで幾分か頭は冷えたらしい。

しかし、汚濁しきった赤い目は怒りを湛えたまま、ぎぬろぉっと公園の中を見回す。

そうしてシンを視界に捉えると、「あ?」と小さく声を漏らす。


「坊さん?坊さんやなぁ。

 髪ぼうぼうにしやがって、僧侶ってのはつるっつるに禿げてるもんだろうがよお。

 生白っくて生きてるって気がせんわ。肉食わねえから血が出来とらんのやないの。

 おまけに焦げ臭ぇ。臭っせえ、臭っせえったらねえわ。

 お坊さん、てめぇはなんだぁ?俺ちゃんに説教でもする気かィ」

生憎 ・、一身上の都合で還俗げんぞくした身でな。

 説法をする立場でもないし、経のひとつも唱えるつもりはない。

 それに貴様は見た所、厩舎生まれのようだからな。ナントカの耳に念仏というだろう……ああ、その間抜けなツラ構えを見て思い出した。

 だな」


にやり、とシンは笑いかけて、耳をぴらぴらと引っ張り煽る。

男のこめかみに、はっきり青筋が浮かぶ。

虫の群れがいきり立つようにシンとの距離を詰め、ベエッと男は長い舌を突き出す。

赤黒く鋭い舌はぶよぶよに膨張と変化を繰り返すや、刀身も拵も黒く塗りつぶされたような、歪な日本刀に変わる。

男が刀を持つや、虫の群れは男の影の代わりになるかの如く集合し、じいっと息を顰める。


「あの糞餓鬼もろともさらし   ・にして、手前は殺す前に耳ィ削いでぇ、馬の頭に縫いつけたるから覚悟しぃやあ、ボケがァァア……!」

「八つ当たりされる馬が哀れだな」

「名ぁ名乗れぇ。馬の頭にその名前刻んだるわ」

「下賤な男に名乗る名などないが……よかろう。冥土の土産に聞かせてやる」


シンの手には、いつのまにか、刀身のない柄が握られている。

筋骨隆々な腕が柄をひと振るいすると、柄からボウ、と幻影の如く、真っ白な刀が鉄錆の靄を払うように現れる。

まるで男の刀と正反対。ぼう、と青い清浄な色味が、シンの領域なわばりを示すかのよう。


「――我が名はシン。

 死に置き去りにされたという意味では、貴様とは同類やもしれん。

 我が刃は身であり、我が魂は望まれるなら神にも仇なすこと厭わず、我が誓いを今ここで新たに示さん。

 ここで相棒一人守れぬようでは、死んでも死に切れん!貴様は今、此処で斬る!」

「フゥン。能書き垂れるだけの覚悟と度胸はあるんやろな」


くるんと掌で刀を一振り回し、男も嗤う。

獲物を前にし、狂暴な肉食獣に憑かれたようなしわがれ声をあげて、刀を切っ先を向ける。

正太郎はアスレチックのトンネルから、その様子を伺い見る。

……嗅ぎ覚えのある死臭や、山の土の臭いがした。


「仰々しい名乗りに免じて、俺ちゃんも名乗ってやるよ。

 吸血鬼、名を吉備津山きびつやまムツや。

 いうても本名やないけど、結構気に入っとるんよ、この名前。

 ――さあ、死合おうやァ!」


直後、津山の腕の一つが吹き飛ぶ。

目にもとまらぬとは、まさにその一瞬を体現していた。

ムツはぽかん、と口を半開きにしたまま、吹き飛ばされた腕の行方を追う。

その一瞬の隙にシンは間合いを詰め、その首筋に刃を当てる。


「どうした。死合うのではなかったのか」

「ッこん、ジジイ!」


乱暴な横薙ぎの一撃がシンに向けられる。

だがすかさず刃を返し、その一撃を受け止め、軽く払う。

空いた脇腹に刃を差し込んでそのまま捻り、更にもう一本腕を切り払う。

その一連の動きはさながら、流れる水に身を任せるが如く、無駄に力をこめない、そして音もなく静かな所作だ。

淀みなく刀を振うたび、ムツの肌をすぱり、すぱりと刃が斬りつけ、鮮やかに黒い血が舞う。

小さく悲鳴を上げてのけぞるムツに、シンは眉一つ動かさず睨めつけた。


「どうした、お若いの。斬った腕のぶんだけ軽くなったろうに。

 遊んでやるからには、もう少し本気を出したらどうだ?」

「こ……んの、……破戒坊主ッ!その髪の毛からかっさばいて、ツルツルテンにしてやんよお!!」



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