正太郎はこれまでに、何度かおぞましいものは見てきた。

死霊、怪奇、怨念の集合体、名もつけようがないグロテスクな不定形体。

命のないものに目をつけられたり、恐ろしい目に遭わされたことはある。

けれど、その類と関わるための対策や戦う術は、ようやく見出してきた。

要は慣れていたのだ。

だからこそ、正太郎は恐怖した。

”生きた人間のおそろしさ”というものを、――ましてや大人から加害されるという恐怖の類を――まだ、知らなかったのだ。


「離してッ、やだ、離してぇぇえええ!」

「ぎひひひひっお肌つやつやだぁねえ~すべすべだねえ。若いっていいねえ!

 あったかくて香ばし~い子供の匂いだぁ!こりゃあ味も期待できるねえ!!」

「やだあああ!助けて、誰かッ!離して、よぉお!!」

『正太郎に触るなッ、下衆めが!』


恐怖でパニックになる正太郎に、シンが一喝。

正太郎の手を掴んで離さない、男の不気味な赤黒い腕に、霊体の手が引き剥がしにかかる。

シンの真っ白い透明な手が男に触れた瞬間、ジュウウウッと肉が急速に焼ける音と焦げ臭さが広がる。


「ぎゃああああッ熱ぢぃぃぃぃ!?」

「(ッ……今のうちに!)」


激痛と熱に怯え、男が手を引っ込める。

そのタイミングを損なう事なく、正太郎は急いで窓を閉めた。

男はよろよろ後ずさるも、ぎっと窓ガラス越しに正太郎を睨みつける。

目は濁った血のように赤黒く輝いて、今にも貫き殺さん勢いの殺気を纏わせる。

ガラスを叩き壊す勢いで、男は窓を殴る。


「テンメェェェエ、このクソガキガァァァァアア!

 俺の綺麗なお肌に何根性焼きコイてんだコラァァアア!

 引きずり出してぇぇえ、テメエのケツを灰皿にしてやるからなァァァアア!!」

「ッ……!(シンのことは視えてないのか!?)」

「正太郎、奥へ!」


シンに手を引かれ、正太郎は罵声を背に、リビングを出る。

なおも激しく窓を叩く音が響いている。

ガラスが砕けないのは、家主である公太郎が何かしらの結界の類を張っているためだろう。

だが、その結界に少しずつだが、ひび割れるような音が響き始めている。

男が発する気迫は、正太郎に「ここに留まってはいけない」という危機感に陥らせる。

荒い息を落ち着かせようにも、未だに恐怖で心臓がバクバクと叫ぶ。

廊下を駆ける間も、外壁となる結界がバリン、パリンと悲鳴を上げて、今にも砕け散ってしまいそうだ。


「なにあのベロ!臭っさいし!おじさんの知り合いだと思う!?」

『もしそうなら、彼奴こうたろうの交友関係に一言申してやらねばな!

 正太郎!あの男、おそらくはこのままだと、結界を破って侵入しかねん!

 外に出て助けを求めるぞ!』

「戦っちゃ駄目!?」

『駄目だ!前回のことを忘れたか!向こうの力がどれ程のものか判断できん以上、交戦は許さん!』

「うっ……(モールでのこと、まだ怒ってんのか……)」

『今はぬしの命のことを考えろ!奴も昼間から衆目を集めるような真似はせんはずだ!』


意を決し、正太郎は裏口からシンと共に飛び出した。

振り返って右目を通してみれば、家を覆う玉虫色の結界に、幾重もの亀裂が走っている。

急いで扉を閉め、芝に囲まれた道を駆ける。

右目を通した青空には、不気味な赤黒い飛行機雲めいた、細長い煙がうねっている。


「なにあれッ……!?」

『屍臭だ。おそらくは奴のな。かなりの命を喰らっているとみた!』

「あの男の……?そもそも何なの、アイツ?」

『分からぬ。だが、似たようなものを知っている』


変わらずシンは正太郎の手を取り、走る。

霊なのに走るのか、なんて軽口を叩く暇などない。

彼に手を引かれているせいか、普段走る時よりも、各段にスピードが出ている。

とても口を開く余裕すらない。

歯を食いしばり、街頭が行儀よく並ぶ小さな橋を渡り、人の多い通りを目指す。


「似たような、って!?」

「吸血鬼だ」

「吸血鬼……って、血を吸う、あの!?」


正太郎は空を見上げ、声を張り上げた。

凄まじい速度で足を動かしているはずなのに、体力が尽きる気配がない。

並木通りの街路樹があっという間に過ぎ去っていく。

吸血鬼、といえば、さしもの正太郎とてどのような存在か、想像はつくものだ。

思わずもう一度空を見上げる。


「昼間だけど!?」

『だから、似たようなものだと言ったろう。確証はないが、人間に仇なす、人ならざる何かであることは確かだ!』

「でもなんだって吸血鬼モドキが家に……わあっ!?」

『掴まってろ!今は逃げることが最優先だ!ここはもう安全とは言えん!』


シンの白い手が、正太郎の眼帯を剥ぎ取った。

瞬間、シンの透けた体がやにわに濃い質量を持ち、存在感を放つ。

強い風が二人を包む。力強い腕が正太郎をぎゅうっと強く抱いた。

やおらシンは正太郎を担ぎ上げ、丸く急な坂を、飛び降りるように駆け降りていく。

盛り土を垂直に滑り降り、ショートカットで近くの商店街を目指す。


「す、すごい!シンが僕を抱っこしてる!どうやってんの!?」

『お前の目は門だ。故にお前を介して己も多少なり物質世界に干渉出来ていたと解釈したのだが――

 なら、お前の目に深く繋がれば、こうしてお前を担いで走るくらいは出来るのではないか、と思ってな。賭けてみるものだ』

「でもこれ、周りにシンが見えちゃうってことじゃ……シン、後ろ!」


シンの肩越しに正太郎が叫ぶ。

二人にぴったりと追従する形で、500mほど後方を黒い影が追ってくる。

赤黒い靄を纏って、おおよそ人とは思えぬ速さで二人に迫りくる。

あの男だ。ぞおっと怖気が蘇り、正太郎の手がシンの体に強くしがみつく。

だんだん近づくにつれ、お経めいた低い唸り声が影と共に迫りくる。


「ブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺す

 ブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺す

 ブッ殺す血ィ啜るだけじゃ飽き足らんわ丁寧に縦に開いて内臓ブッ殺す

 ブッ殺す一つずつ引き抜いてココナツジュースみてえに啜ってブッ殺す

 ブッ殺す食レポしてやるけえ覚悟しい餓鬼タレ余った肉はケバブッ殺す

 ブッ殺すにして1ミリ単位で削ぎながらチーズ乗せてブッ殺すブッ殺す

 ブッ殺す美味しくパンと一緒に戴いてやるから覚悟しろ糞餓鬼ブッ殺す

 ブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺す

 ブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺すブッ殺す」


「うわああああ怖い!目がヤバいよあの人!」

『捕まったらさいご、串刺しのみではすまされんな。あの気迫は!』

「焼き鳥みたいになるってこと!?やだーッ!!」


男はどんどん迫りくる。

地をひと蹴りするごとに軽く地面もアスファルトも抉れ、小さな穴を転々と残していく。

バネでも仕込んだみたいに飛び上がり、木に飛び移る。

ミシミシと音を立てて枝が撓り、弾く力を使って一気に宙を跳び、二人との距離を縮める。

走れど走れど、正太郎の重みを抱えている分、シンの足取りは遅れてしまう。

男の足は勢いを増して二人に手を伸ばし、掴まんとしていた。

二人が走る歩道から、最寄りの商店街であるえびす通りまでは、全力で走っても7分はかかる。

それよりも男に捕まるほうが早いのでは、そう思うと心臓が破裂しそうだ。


「チッ、この手はあまり使いたくないが……正太郎、点火器を!」

「ッうん!」


まごつく手でライターを取り出し、かちりと火を点ける。

途端に青白い火柱が一瞬あがり、激しく熱い炎が二人を包む。

さしもの男も、炎に驚いて一瞬足が躊躇う。

シンは巻きあがる炎の渦を、大きく息を吸うように飲み込んでいく。

青い火の粉を撒き散らす巨体は、更に一回り大きく、そして濃密な質量を伴い、現実世界に顕れる。

同時に、正太郎の全身を脱力感が襲う。

体の中にある、全身の筋肉を動かすための力や熱が一気に消え失せたみたいだ。


「(炎を……違う、僕の中の何かを食った!)」

「振り落とされるなよ!」

「わ、わッ……!?」


また加速。強い風が殴りつけるように後方へ去っていく。

時刻は夕暮れに差し掛かりつつあった。

凄まじいスピードで、えびす通りが迫ってくる。

賑わう人の声や美味しそうなコロッケの揚がる香り、「ゆうやけこやけ」の音楽が鳴っている。

正太郎は息を飲み、わななく手でシンの襟を強く引いた。


「待って!アイツを商店街に出しちゃ駄目だ!きっと他の人たちが巻き添えになる!殺されちゃう!」

「……!」


シンはちらりと背後を見る。

迫りくる男の目は激憤に駆られ、道行く木々や道路標識を次々壊して突き進んでいる。

もはや狂戦士もかくやである。確かに、このまま商店街にもつれこめば、周りを巻き込んで死傷者が出る様は火を見るよりも明らかだ。

周りを巻き込む覚悟で助けを乞うか、一か八かで戦いにもつれこむか。


「――ええい、まるで”とろっこ”問題よの!」


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