平穏な午後。ひっそりと静まり返り、生活音以外は聞こえない。

正太郎はすることもなく、リビングで本を読むことにした。本当は怖い童話の真実、などという本だ。

シンは最初こそ、正太郎の後ろから一緒に本を読んでいたものの、「虚誕妄説な話ばかりだな」とつまらなそうに言って、正太郎の膝を枕に寝てしまった。

童話の真実なんて、誰かの言いがかりでしかないのだから、想像ばかりの要素が強いのは致し方ないのだが。新しい解釈というものは、見ているだけで楽しい。

それだけで新しい話を考えられるのは、やはり才能じゃないかしらん、と正太郎は思う。


「(あの子の魂はどうなったんだろう。ちゃんと生きてるかな)」


振り返れば、先日の、ョッピングモールでの戦いから、幾日か経っていた。

モールの事務員さんにはこってり絞られ、屋外遊技場の荒れ果て具合には気味悪がられたものだ。

しばらくして再び立ち寄ったところ、激しい戦いなぞ初めから無かったように綺麗に元通りになっていた。

公太郎とその周りの采配のおかげだろうが、お蔭で実感がわかない。騒動の原因になった少年の魂は、無事に戻っただろうか。

知る術はない。ただ願うばかりだ。これといって周りで何か大きな変化が起こる気配もなく、父の存在はより遠くに感じる。


「ねえ、シン」

『なんだ』

「死んだら人ってどこに行くんだろう」

『さてな。己とて知らんことは多くない。が、体のない魂は自由だ。

 何にでもなれるし、どこにでも行ける。その逆も然り。

 永遠に時間や場所、ヒトやモノに執着し続けるもの、外的な要因で変質する者も多い』

「変質?」

『最たるものが、妖怪変化や悪魔の類だな。

 連中の元々はヒト、生き物、或いは石や水や、ありとあらゆる場所に散らばる、魂の残渣だ。

 それが長い時間をかけ、周りのエネルギーを吸収し続け、蓄積し、時に外の要素を取り入れて、実体を持つこともある』

「ンン……あんまりピンとこないな」

『お前に分かりやすく言うなら、あれだ、粘土細工だな。粘土は付け足せば大きなものになるし、逆にちぎって小さくもできる。色を付けることで、よりその実体には視覚の情報が増えるだろう』

「ああ、ぼんやり分かってきたかも」


図画工作は好きだ。母に似たのか、手先は得意な方だ。

頭の中に、粘土で出来た自分やシン、周りの人物たちを思い描く。

膝の上にシンを乗せているせいか、だんだん体がぽかぽかと暑くなってきた。シンは幽霊のはずなのに、触るとふんにゃりと生クリームみたいな感触がして、少し暖かい。

風通しをよくするために、窓を開ける。三月の薫風が頬を撫でた。

ソファーに戻って腰かけると、またシンが膝の上にごろんと転がる。


『正太郎が視えているものは、その色のみの部分だな。色だけの連中は、粘土の部分を求めて、お前に接触するわけだ』

「ふむふむ」

『連中は、自身の本来の形、どんな姿に成れるかを知らない。鏡を見たことがない人間と同じだからだ。

 つまり正太郎はさしずめ鏡ともいえる。お前が連中を視ることにより、連中は現実から視られていることに気づく。

 そしてお前の視界を通してお前の頭の中を覗き見て、自身がどんな姿をしているかを知る。

そうして輪郭を知るからこそ、向こうは現実に接触しようとするわけだな』

「うへえ……なんか不気味だなあ。頭の中を覗かれるなんて」

『まあ、己の言っていることが全て正しいとも限らん。

世界の理は常に可変で、常識も認識もすぐにひっくり返る。頭の中は常に神秘だからな』


神秘かあ、と言いながら、シンの顔を見下ろした。

シン本人も十分神秘的な存在ではある。鼾をかいて熟睡し、パスタを欲しがり、エルヴィス・プレスリーやボビー・コールドウェル、ジミ・ヘンドリックスを好んで聞きたがる幽霊なんて、やや俗がすぎる気もするが。

会話が途切れて、再び静けさが訪れる。

ふと、父母もエルヴィス・プレスリーが好きだったな、と思いだす。

英語だから何を歌っているかは分からないが、正太郎もエルヴィスの声は好きだ。


「もうCDが終わったな。次はサザンがいい」

「待ってて、CD取ってくる」


シンが頭をどけて、正太郎はCDを探すためにソファーから立ち上がる。

けれど直後、ぴんぽおん、とインターホンが鳴る。

飛鳥が戻ってきたのだろうか。それとも公太郎だろうか。

否、二人なら家の鍵を持っているはずだ。インターホンなんか鳴らす理由はない。

ならば、この店に用がある客だろうか。表には玄関に向かおうとして、飛鳥の言葉を思い出す。


――誰が来ても、それこそお客様や兄さんが来ても、自分から扉は開けてはいけませんよ。


「すいませえん」


ぴんぽおん、とインターホンが再び鳴る。若い男の声だ。

思わず口を噤む。ぴんぽおん、ぴんぽおん、と何度も断続的に音が鳴り響く。

シンが身を起こし、眉間に皺を刻んで、玄関のある方向を睨みつけている。


「シン、出ていいのかな、これ」

『否。顔を出さなかったのは正解だったぞ、正太郎。外から妙な気配がする』


ガチャガチャ、と蝶番が暴れる。やけに明瞭に響いている気がした。

ぴんぽおん、がちゃがちゃ、ぴんぽおん、がちゃがちゃ、ぴんぽんぴんぽんぴんぽんガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ。

蝶番をガタガタ鳴らし、インターホンが絶えず喧しく鳴り響く。こんなにも只の電子音が耳障りだなんて、思う日が来るとは思ってもみなかった。

音は止まず、次第に扉をノックする音まで響き始めた。


「すいませえん、いるんでしょお、開けてくださいよお。こっちはお客なんですよお、ねえってば、いるんでしょおお?」

『反応するな、正太郎。迂闊に中に招いてはいかん類だぞ、これは』

「う、うん」


コンコンコンという軽快な音は、次第に「ドンドンドン」と激しい殴打に変わる。

妙だ。どう考えても腕が二つあるのに、どうして複数の音を鳴らせるのだろう。

今まで奇妙な悪霊の類とは遭遇してきたはずなのに、彼等と対峙する時とはまた違う、妙な冷や汗が背中に浮かぶ。


「おい開けろ!客が来てるんだぞッ!

手前の臭いは覚えてるんだからなアックソがァアア!

八つ裂きにしてやるって決めてんだよォオ!

 開けろ開けろ開けろ開けろォオオ!早く開けないと生皮バリバリに剥ぎ取ってこんがり焼いて食っちまうぞおおおお!」


色んな種類の音が不協和音の多重奏となり、激しく空気を震わせる。

無意識に呼吸が乱れるほど、その音の群れは子供にとって恐怖の重圧となる。

嵐が荒れ狂うような声だ。

或いは乱暴に、錆びた金属をヤスリで研ぐような不愉快な音にも似ている。


し、ん。


やおら、音が一斉に止まった。諦めたのだろうか。

しかし扉越しに、未だ気配は感じられる。それがより一層不気味であった。


「あハァ。開いてるじゃん」


男の声が嗤った途端、扉の前から気配が消えた。

刹那、思い出す。空気の入れ替えのために、リビングの窓を開けてきたことを。

……まだ窓を閉めていない!さぁっと血の気が失せる。


「ヤバイ、侵入はいってくる……!」


今なら間に合うか!?正太郎はリビングの窓の方へと駆け出す。

玄関からリビングまでの外周はそれなりの距離だ。家の中にいる正太郎が駆けつけるほうが少し早い。

全速力で玄関からリビングまで駆け戻る。

窓は未だ開けっぱなしのままだ。今なら手が届く!

急いで窓の枠に手をついたその時だ。冷たく、赤黒い汚れがびっしりと付いた手が、正太郎の手を強く握りしめた。


「こぉぉおおんにち、はぁぁああぁぁあ」


ずるずるずる、と、窓枠の下から、浮かび上がるように男が顔を出す。

ぎらついた血のように赤い瞳。べたつく髪の毛先にこびりついた汚れは、乾いた血だ。

正太郎は思い出す。先日すれ違った、ジョギング中の男だ!

干からびたような手からも、全身からも悪臭を漂わせて、鮫のような歯をびっしり並べた口が、にぃいんまりと嗤いかけてくる。

尖った歯の隙間からは、注射針のように長く鋭い舌が、ぬろんっと飛び出して、正太郎の顔を勢いよく舐めた。


「う…………うわぁぁぁあああーーーーーーーーーーーッ!?」


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