エピローグ 私だけは知っていること。

 サークルから大量離脱者が出ることは珍しいことではないのか、先輩たちがいなくなってからも特に私に何か面倒ごとが降りかかってくることはなかった。

 年を越し、期末試験も終わった。二月からの長い春休みが始まろうとしていた。

 春休みはアルバイトをしながら、来年の今村ちゃん主演公演に向けて怪談演劇の準備をしたり、ライブハウスに通ったりするつもりだ。

 だが、その前に一つやるべきことがあった。

 大谷先輩からの最後の頼みだ。

 それは面倒ではあるものの大したことではない。


「苫野先輩が会いたがってる。ちょっとだけ話をしてあげてほしい」


 そして、それは【森烏賊の会】への合流への勧誘などではない。

 私の知っているイカの情報を最後に教えてほしいというのが一つ。もう一つは卒業後に東北の聖地に移住する苫野先輩が最後に一目私に会っておきたったからだそうだ。



 私は大学最寄駅の向かいにある安くて個室がある居酒屋を指定した。

 料理はまずいし、出てくる酒も薄い。

 サーバーからビールと透明な液体が交互に出てくるのを見て安さに納得したものである。

 私が約束の十八時ちょうどに店に着くと苫野先輩は既に飲み始めていた。


「お待たせしました」

「先に始めてるよ」

「先に始めてるっていってもここのお酒なんか幾ら飲んでも酔わないから一緒でしょ」


 久々に会う苫野先輩は髪と髭を伸ばして、小汚くなっていた。

 一方で着ているジャケットはこれまで見たことないくらい仕立てがよく、眼鏡も細いメタルフレームの上品なものだった。

 それでも清潔感がないという印象は払拭できていない。


「髭似合ってないですよ。鼻の下にビールの泡ついてるし」

「知ってるよ。大谷が伸ばせっていうから仕方なく伸ばしてるんだ。髭伸ばしたことないからなかなか慣れないな」


 そういって泡を拭った。

 私はコートをかけて、おしぼりが運ばれてきた際にハイボールと出汁巻き、冷やしトマト、揚げ出し豆腐、枝豆を注文する。


「イカ宗教、だいぶ本格的じゃないですか」

「あぁ……おかげ様で。文化祭の動画が評判でね。利用しちゃったみたいな形になって悪いんだけど。やっぱり有名人が宣伝してくれるっていうのは大きいね」

 胸の底に沈んだ澱のようなものがふわりと舞い上がるのを感じる。

「不愉快は不愉快ですけど、それは仕方ないです。私たちだってあのイベントやるためにサークルや先輩たちを利用したんで。お互い様ですね」

「そういってもらえると助かるよ」

「でも、あんまり人が苦しんだり、怪我したり死んだりするようなことは避けた方がいいんじゃないかと思いますけどね」



 私の飲み物が運ばれてくるまで、お互いに口を開かなかった。

 ハイボールが届くと乾杯もせずに黙って一口飲む。薄い。ハイボールよりもソーダ水寄りだ。

 その行為に対して先輩も何も言わなかった。

 そして、面倒だなと思いつつも口を開く。


「先輩、就職せずに宗教やるんですね」

「あぁ。卒業はするけどね。卒論はちゃんと出したんだ。大谷は中退するっていうから、僕も一緒に辞めようかって言ったんだけど、学歴も大事だからって卒業させてもらうことになった」

「別に大卒だろうがなんだろうが宗教にはあんまり関係ないでしょ」

「僕もそう思うよ。でもせっかく六年も大学生やったし、記念に卒業証書が欲しいとは思ってたから、甘えさせてもらった」


 久々に会っても何を話したものやら。

 間をアルコール――濃度低め――でどんどん埋めていく。


 ――ここを指定して大正解。無限に時間を埋められる。


 そもそも私は呼び出された側で彼と話したいことなどない。

 向こうが話題を提供するのが筋だ。

 そう思うと意固地になって、自分から話しかけたくなくなる。


「君と一緒にいるとさ、沈黙も苦にならないよね」


 ――てめー、ふざけてんのか! 苦痛で仕方ないから酒で沈黙の時間埋めてるんだわ、こっちは!


 もう口に出そうかと思ったが、女子という最後の壁がその言葉を跳ね返した。

 頬がストレスでピクリと跳ねる。


「そうですか……」


 この男は一から十まですべてがズレている。


「何か用があって私呼ばれたんじゃないんですか? 二人で向かい合って黙るためですか?」


 なるべく語気を荒げないようにはしたが、それでも伝わるものは伝わっただろう。

 大谷先輩なら「怒るなよ」なんて言いそうだ。


「イカってなんだと思う?」

「私が知るわけないでしょ」

「君がどう解釈してるのかっていうのが訊きたかった」


 私は心の中でここに到着してからおそよ百回目の溜め息を吐いた。

 だが、おそらくこの人と会うのはこれで最後だ。


「苫野さんは宇宙人だと思ってるんですよね? なんか書くもの全部そんな感じですよね」

「思ってるというか、そういうことにしておこうかなっていうだけだよ。あと宇宙人っていうとやっぱり人型とかタコ型イメージしちゃうから、宇宙からきたレトロウィルスとか微生物とかを思わせるニュアンスに変えたんだ、教団の教えはね」

「でも別に実体があるわけじゃないんですよね」

「CTスキャンも取ったし、髄液検査までしたんだけどウィルスとか細菌は見つかってないね。でも人間には観測できない領域に生きてるとかどう?」

「どう? と言われても……。まぁ、ウィルスだとしたら今イカの存在を感じない人たちもいずれ感染したら見えるようになるかもしれませんね」

「わかる人とわからない人の違いって抗体のあるなし説っていうのも考えてみたんだけど」

「まぁ、矛盾はしませんね。でも、抗体がある人はもうどうやってもイカが憑くことはないってことになりますけど。というか、人間に観測できないとか言い出したら、証明もできないけど否定もできないんでなんとも言いようがないです」

「最大公約数がちょうど納得できる理由が見つかればいいんだけど、なかなか難しいよね。集団催眠説は?」

「まぁ、それが一番頭がおかしいと思われない説明なんで、私は他人にはそう言ってますけど。条件がわからなさすぎますよね」

「最初は磁場とかの関係で場所も重要なのかと思ったけど、祭壇ごと移しても目覚める人は目覚めるからね。そもそも祭壇もバージョンアップして原形留めてないから別物といってもいいよね」

「一つ言えるのは大谷さんと岩崎が旅行から持って帰ってきて、みんなにうつしたけど、うつる人もうつらない人もいるってくらいですね。で、どうやら生きてるみたいだけど、これといった生物的な活動をしている感じはなくて、特定の事象にだけ決まった反応をすると」


 私自身はなんとなくイカが憑く条件のようなものがわかるような気がしないでもなかった。


「そうだね。実際にだんだん目覚める人が少なくなってきてるから、早く条件を特定したいと思ってるんだけどそれもわからないんだ」

「その〝目覚める〟って表現……すごく気持ち悪いですね。私は嫌いだな。もう関係ないから好きにすればいいですけど」

「君は嫌いそうな表現だ」


 そう言って先輩は笑った。


「君個人はどう思う? イカは何者でどういう条件で見える人と見えない人がいるんだろうか?」

「少なくともあのゴミみたいな祭壇の前で女の子抱いても見えるようにはならないと思いますよ。あ、もうあのゴミ祭壇はないのか」

「ごめん……」


 嫌味のつもりで吐き捨てるように言って、それが伝わっただけなのだが、どうにも先輩は素直でいけない。


「別になんだっていいし、ファンタジーのままにしておけばいいとは思ってます。わかったところでどうしたいとも思わないし。でもあえて言うなら……」


 先輩に私の解釈を伝えるのはやはり抵抗があった。

 なぜ私が今日呼ばれたのか?

 多分、先輩はイカのことなんて何もわからない。だから、わかる私の話を聞いて、まだ信者たちが気づいていない新しい発見や解釈があったら、自分が発見したり気づいたことのように話すつもりなのだろう。

 私は彼らと関わるつもりはないから、私から聞いたことが露呈する可能性は低い。

 姑息なやり方だと思う。だが、哀れだとも思う。


「あえて言うなら……呪いですよ。神様からのプレゼントみたいなものだと思ったこともありましたよ。好きな人と同じ幻想を共有できるって素敵だなって。でもね、こんなものを繋がりだとか絆だとかって思ってたらそうじゃなかったんですよ。期待したりすると後悔するんですよ。人間、変な幻想に寄りかかったりしたらロクなことにならないと思いますよ。ちょっとした思い出くらいのものとしてふと同じイカが宿ってる人は今どうしてるかな? って考えるきっかけにしとくくらいがちょうどいいんです。どんなこじつけもできちゃうし感情や自分勝手な妄想を受け止めちゃうものだから……適切な距離を取らなきゃダメなんです。……説教くさいですかね?」

「いや……言わんすることはわかる……気がする」

「イカはただいるだけ。それでいいんですよ。そこに理由を求めるから人間同士の関係がおかしくなっていくんです」


 私はこんなことを言いながらもオカルトトークをするのがとても久しぶりで懐かしく、入学した頃にこの先輩とこういう話をしたことを思い出して、少しだけ泣きそうになってしまったが、氷が解けてウィスキーの気配が残る水と化した何かを流し込み、気を紛らわせた。おかわりを注文する。


「ま、恣意的に解釈できるものなので先に決めつけちゃうと色々便利でしょうね。特に宗教なんかやる側からしたら」

「そうだね」


 今度の「そうだね」はわずかに憂いを帯びていたが私は気づかないフリをする。


「もう一ついいかな?」

「どうぞ」


 ――もうこれが最後でしょうから。


 本当にこれで最後だろう。


「君や土屋さんはどうして入信してくれなかったんだろうか?」

「はぁ……本当にわからないんですか?」


 先輩は俯く。


「そうですよね、わからないから、訊いてるんですもんね」


 先輩は質問したことを後悔している。

 濡れた犬のような顔をしているからわかる。


「信仰、ですよ。私……私たちはね、アイドルっていう偶像を崇拝してたから、心の隙間にイカが入ってこれなかったんです。他に信仰する対象がなかった人が入信してるんでしょうね」

「そうか、そうだったのか。僕らのサークルには二つの信仰対象があったんだな。気づかなかったよ」


 ――二つ?


「二つ、ですかね。何も信じてなさそうな人もいそうですけどね。無っていうのはノーカンですか? 先輩は心の底からイカのこと信じてないのに利用してるだけじゃないですか? ただ今の立場にすがってるだけじゃないですか?」


 先輩の手が震えだす。


「先輩の中にはいないでしょ、イカ」


 今度ははっきりと――わかってるんだぞ――と伝える。

 先輩は薄いだけでなく温くなってしまったビールに少しだけ口をつけて、唇を濡らすとゆっくりと話し始めた。


「僕はね……自分に才能がないことなんて気づいてたんだ。でも、【森烏賊の会】で文章を書くとみんながちゃんと読んで褒めてくれるんだ。ちゃんと僕の話も聞いてくれる。素晴らしいことだよ。だから……どうしても今の立場を捨てられなくなったんだ」

「まぁ、そんなところでしょうね」


 先輩は眼鏡を外しておしぼりを目に当てた。


 ――泣くなよ。教祖だろ。


 だが、この哀れな男にこれ以上追い討ちをかけられるほどには残酷になれなかった。

 まるちゃんならやるかもしれない。


「もう会うこともないと思うので餞別代わりに……」


 私はひそかに気づいていたイカが反応する条件を幾つか教え、コートと鞄を手に取り立ち上がった。


「ずっと隠し続けるのか、大谷さんや岩崎には告白するのは知らないですけど、どうぞこの先気をつけて」

「僕にはイカが見えてないって……よくわかったね」

「わかりますよ。私……先輩のこと好きだったんだから」


 いつかこの言葉を思い出にして、彼がイカに縋らずに生きていけるようになる日が来ることを祈りながら、私は背を向けた。


 了


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 本作はこれにて完結となります。

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 また後日、カクヨム上で不定期連載しているエッセイ『カクヨムディストピアジャーナル』でちょっとした解説記事なども書こうかなと思っております。

 ここまでお読みいただきありがとうございました。

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あなたはイカを信じますか? 和田正雪 @shosetsu

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