エスパーかよ。

 いつの間にか寝てしまっていた私は床で目を覚ました。

 カーペットの跡が顔にしっかりと残っていることだろう。


 ――どこまで書いたかな。


 すべてが夢でなければある程度の量を書いたとは思うが、どこまで書いただろうか。

 寝起きの頭は靄がかかったようではっきりとは思いだせない。

 そして、私はスリープ状態のパソコンを立ち上げ、自分の書いた文章を見て唖然とした。

 脳内麻薬が出ていたのか、とんでもない超大作になっていたのだ。

 キーボードの上に突っ伏して、同じ文字が延々続いているとかではなく、きちんと意味の通る文章で果てしなくスクロールできる。

 ぎっちり詰め込まれた文字でゲシュタルト崩壊を起こしかねない。


 ――こんなの鵺君に見せたら、「怪談の取材したら怪文書が送られてきた」って怪談にされちゃうな。


 いくら興味を持ってくれた相手であってもこれを読ませるわけにはいかない。量だけでなく内容についてもだ。

 赤裸々に過ぎる。

 苫野先輩をちょっといいなと思っていたくだりや、【百鬼夜行】のライブに行くくだりなどは絶対に必要ない。

 私は今日一日かけて、これを読みやすい長さにするのかと思うと暗澹たる気持ちになった。

 最初から書き直した方が早いのではなかろうか。

 まさか書きあがらないのではなく余計なことを書き過ぎて、削る作業の方が多くなろうとは昨晩には思いもよらなかった。

 面倒くさがりの私が余分なものを書いてしまうとは。


 ――これもすべて愛の力ゆえであるな……なんてことを思っている場合じゃない。


 今日は土曜日で講義も入れていないのがせめてもの救いだった。



 午前十時。

 顔を洗って歯を磨き――化粧はせず――にベッドに腰かけたところで電話がかかってきた。


 ――今村ちゃんだ。


 苫野先輩の大傑作の感想かもしれない。いや、感想ではなくおそらくイカの反応についての報告だろう。

 だが、それならわざわざ電話でなくてもいいのではなかろうか。

 私は少しだけ訝りながら通話ボタンを押す。


「お疲れ様です」

「おつかれー」


 私はいつの間にか使うようになったこの「お疲れ様です」がまだ馴染んでいない。

 いつから使うようになったのか。

 高校の部活の時かもしれないし、大学に入学してからかもしれない。

 まだ自分のナラティブとして獲得できていないような使い勝手の悪さを感じる。

 だが、こんなことを言うと面倒くさいやつだと思われるので、馴染むまで使い込んでいくしかないのだろう。


「先輩、どうしました?」

「ん? なんでも」

「ちょっとまだ夢うつつなんじゃないですかぁ? 鵺君から連絡きたんですもんね、いいなー」

「いや、事務連絡だから。そんな大したことじゃないから」

「そんなこと言って、めちゃくちゃテンション上がってたでしょ、絶対」

「そんなことないよ。ちょっと全身熱くなって寝られそうにないし、鵺君に送る文章を冷静に書けそうにないからあえて不快なものを見て相殺しなきゃいけない程度だよ」


 私がそういうと電話口から高らかな笑い声が響いてきた。


「あたしも事務連絡でいいからメッセージほしいです」

「文化祭イベントやる時には今村ちゃんが運営に連絡したり打ち合わせ組んだりしたらいいじゃない。木霊君も来るだろうし、その時は今村ちゃんも同席で一緒にやろうよ。狐火は来るかわからないけど、来るならまるちゃんも呼んであげよう」

「はい、もちろん。俄然やる気に満ちてるんで」

「どうしてライブの度に直接会って話してるのにこんなにテンション上がるんですかね」

「謎だよね。他のファンの目がなくて、自分だけに意識が向けられてるっていうのがいいのかなぁ」

「それですね。なんだかんだ特典会ってお互い他のファンの目もあるから遠慮するじゃないですか。露骨に依怙贔屓されるとネットで悪口とか書かれるし。でもダイレクトメッセージとか直接会って打ち合わせとかってちょっとだけでも本音で喋ってくれるっていうのが熱いんですよ」

「ネットで悪口書くの狐火のファンだけでしょ」

「それはあの人が割とチェキ積むファンと可愛いファンを贔屓するからですよ。鵺君と木霊君もたぶん誰か一人を優遇したりしたら、その子はネットであることないこと書かれますよ」

「整形してるとか風俗で稼いだ金でチェキ買ってるとかねぇ」

「あたしなんかちょっとでも目立つことしたら『あの青い奴、調子乗ってる』で一発ですからね」

「青い奴いないからね、他に」

「あの青い子ってすぐに木霊君から認知もらえましたけど、目付けられやすくもありますからね」

「大学には髪が赤も青も緑もいるからそこまで目立たないけど、現場は黒と茶が殆どでまるちゃんみたいな金がたまにいるくらいか。青なんか今村ちゃんしか見たことないもんね」

 私は再びゆっくりとベッドに横たわると、通話をスピーカーモードにして枕元に置く。

 カーテンはまだ開けておらず部屋は薄暗い。

 実家では遮光カーテンにしていたが、それだといつまでも寝てしまい幾度となく寝坊してしまったので上京してからはやや薄手のカーテンにしている。

 ピンクというガラではないので黒ではある。

 部屋は白と黒に統一してあり、洋服も含めて私の持ち物は白黒ばかりだ。

 天井を見上げて、話を続ける。


「それでなんか電話で話すような用事あったの? 苫野さんの大傑作の感想を是非直接伝えたかったとか?」

「え、違います。あれはまだ読んでないですね。というか、先輩がボロクソに言ってたので面白くないってわかってて読むのもなーって」

「試しに今すぐ冒頭だけでも読んでみなって。話の面白い面白くないとは別の発見もあるから。最初の二、三行でわかるから」

「はぁ。じゃあ、そこまで言うなら」


 そして今村ちゃんはタブレット端末でデータをダウンロードするといって、スマホから離れたようだった。

 彼女は自宅にパソコンがなく、授業やレポートは基本的にタブレットで済ませて、どうしても必要な時だけ大学のPCルームに行くらしい。

 さらにテレビも本棚も自宅にないと聞いて私は愕然とした記憶がある。

 私からしたらパソコンとテレビがなくてどう生活するのか想像がつかない。しかも、本棚もない部屋となると監獄に住んでいるとしか思えない。変な子だ。

 そして、今村ちゃんの声が頭上から聞こえてくる。


「今、iPad持ってきて読みました!」

「どうだった?」

「内容はちょっとよくわからなかったというか頭に入ってこなかったんですけど、イカが苦しんでます!」

「あー、苦しんでるって解釈ね。私はつまらなさすぎて暴れてるって思った」

「なるほどです! そういう見方もできますね」

「でも、多分だけどさ……大谷さんと苫野さんは喜びの舞を舞ってるとか言うと思うね」

「あはははは。言いそう。これ大谷さん達は知ってるんですかね?」

「さぁ? 苫野さんは自分で何か書く度に頭の中でイカが脚バタつかせてるだろうから、知ってるかもしれないけどね。この作品に限ってなのか、苫野先輩が書いたものすべてに反応するのかわからないけど」

「ちょっとだけ気になりますね。今度訊いてみましょう」

「まぁ、どっちでもいいんだけどさ。本当にちょっとだけしか気にならないし」


 私はベッドに入ったのは失敗だったかもしれないと思い始めた。

 おそらく電話が切れたら、再び寝てしまう。

 だが、私には鵺君に送る文章を書き直すという崇高な使命が待っているのだ。寝ている場合ではない。

 まだ体勢を立て直せるうちに立て直さなければと、身体を起こしベッドから降りて座椅子にだらしなく凭れかかる。


「で、結局なんの用?」

「そうそう。あたしが電話したのは苫野先輩の小説読んだらイカが暴れるのとは関係ないです。文化祭イベントのことですよ」

「あぁ、そっちね。はいはい」


 私はテレビを点けると同時に「消音」ボタンを押す。

 しばらく話の聞き役となるのに視界が寂しいと思ったからだ。別に土曜午前の温い情報番組を見るためではない。

 視界が退屈しないのであれば別になんだって構わなかった。


「イカ教団からイベント予算引っ張るための作戦だっけ」

「そうです。今日やるので一緒に来てほしいなと思いまして」


 今日は鵺君に送る文章を認める日なのでできればこのまますっぴんで家に引きこもっていたいのだが、用件が用件なので断りにくい。


「私も一緒に行った方がいいやつなの?」

「まぁ、そう嫌そうな顔しないでくださいよ」

「電話なんだから顔は見えないでしょうが」

「わかりますよ。化粧して外出るの面倒くせーなーの顔してますよ」

「エスパーかよ」

「先輩は顔に出すぎだなって前から思ってました。女優に向いてないです」


 女優になりたいなどと思ったことはない。

 アイドルになりたいとはちょっと思ったことはあるが、自分がそこまでのレベルには僅かに達していないという自覚はある。

 ただ、そこらへんの女子大生の中では中の上くらいだろう。おそらく。


「で、なんで一緒に行った方がいいの?」

「それはですね、イカの会の入信者の勧誘をするからです」

「は? あぁ……あぁ、そういうこと」


 彼女は新人を勧誘して入信させることで、イカ教団に貢献しようというのだ。

 たしかに他のサークル員はいくら宗教ごっこをやるといっても、勧誘活動ができるほどの勇気がある人間はいないだろう。


「そもそもサークル員すら常に募集してるので、企画オンリーだとしても新人の価値が高いサークルっていうのもありますし、新人に幹事長が味占めたところで、イベントでもイカの話したらもっと人来ますよっていう方向に持っていきます」

「そんなにうまくいくかなぁ?」

「うまくいくまでやりますし、多分なんとかなります」


 ――本当かよ? というか、うまくいくまでやるのか。


「というわけで、集合場所と時間、作戦をお伝えします」

「はいはい」

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