一握の砂

 私たちは駅前のルノアールに入り、窓際の席に座る。

 飲み物で一食分ほどの金額になるが、後輩たちに奢らなくてよくなったので紅茶くらいは問題ない。

 痩せぎすで極めて不健康そうな風貌にもかかわらず、健康志向の岩崎はホットミルクを注文していた。


「カフェイン断ちしてるから、俺」


 ――ミルクとか似合わねー。なにがカフェイン断ちだよ。面倒くせー。男らしくねー。


 彼は飲み会でも最初の一杯のビールは飲むが二杯目以降は徹底してウーロン茶しか飲まない。

 勉強や運動に影響が出るのが嫌だからだそうだ。

 身体もかなり鍛えているようだが、筋肉がついているようには見えない。無は幾ら鍛えても無のままということなのだろうか。

 この一年間での変化を見つけるのははサイゼリヤの間違い探しよりも難易度が高そうだ。

 一方、私は蟒蛇であり、どうせ一律同じ料金を取られるのであれば元は取れるに越したことはないと、ガバガバと飲む。

 アルコールさえ入っていれば種類や味など関係ないので、最初は飲み放題メニューの中から最も高そうなものを選んで飲み、飽きたら次に原価が高そうな違う種類に変えるを繰り返す。

 ただトイレが近く、二杯に一回トイレに行くことになるので、話が盛り上がると自然とペースを落とさざるをえない。元が取れているかは甚だ疑問である。


 

「で、何よ?」


 私は運ばれてきた紅茶を啜りながら改めて話しの続きを促す。

 誰に聞かれるわけでもないのに仲間内の隠れ家に潜むかのような小声で話し始めた。


「大谷先輩は……多分だけど、本物の宗教にしたいんだと思う。なんとなくの予想というか感覚的なものなんだが」

「あんなにごっこ遊びですよ、ロールプレイですよって強調しておいて?」

「あぁ」

「まぁ、逆にちょっと怪しい感じはあったけどね」

「本気の遊びをやるっていうのは本心だと思うんだが、ちょっと認識がみんなと違うというか集団催眠とか錯覚じゃなくて本当に神聖なものだと思ってるんじゃないかってのが俺の見立てだな。だから、遊びは遊びなんだろうけど、いつか本物になるとか続けてればみんなも気づくとかっていう感じなんだと思ってるんだ」

「苫野さんとあんたと三人同時に体験したわけでしょ? 最初のイカパラダイムシフト」

「お、おう。何言ってるのか一瞬わからなかったな。パラダイムシフトって言ったのか」

「ちょっと語感良くなかったから、これは全肯定女子大生みたいな空前の大ブームを巻き起こすのは無理そうだね」

「そっちも全然ブームにはなってないけどな。言ってるのお前と土屋と今村だけだろ。しかも、その二人もお前があまりに言うから移っちゃっただけだしな」

「三人が言ってればあっという間に広まるでしょ。この調子でイカの次のオカ研のブームにするよ」

「勝手にしろよ。話を脱線させるなよ」


 私は人が話してる最中に本筋と関係ないところに引っかかって、そのまま妄想を膨らませたり、会話の途中でも話を脱線させたりする悪癖がある。

 たまに本気で怒る人もいるので多少は気を付けているのだが、こればかりは二十歳まで続けてきたことなのでどうにも治らない。


 ――イカパラダイムシフトは流行らんなぁ。言う前はスカパラダイスオーケストラみたいに「イカパラ」っていいじゃんって思ったけど、意味わからんもんなぁ。


「おい、また余計なこと考えてるだろ?」

「考えてないよ。で、三人同士にイカパラ体験したのになんで大谷さんだけ温度感が違うのよ?」


 岩崎は私の「イカパラ」を完全に無視して話を続ける。


 ――流行語大賞は無理か。


「多分、最初は俺たちと同じくらいの温度感だったと思う。オカルト研究会らしい、誰も危険な目にも遭わないユルいオカルト体験できてラッキーで、せっかくだからこれで何か遊ぼうってくらい」

「まぁ、そうだよね。私が最初に話聞いた時はそんな感じだったし。まぁ、私がうっかり他人にも感染……感染って言い方が適切かは難しいところだけど、まぁ共有にしとくか。共有できるって判明させちゃったのもよくなかったのかもしれないのかな」

「いや、それはいずれわかってたことだと思う。今のところ、全員あの手作り祭壇に祈ってイカの神秘体験してるけど、祭壇自体は素材を変えても効果に変化はないし、あれ自体に意味がないのは遅かれ早かれ誰かが気づいてただろ」

「完全にスルーしてたけど、なんでなんだろうね」

「イカを宿せる宿せないの条件については今後の調査だな。今はとりあえず大谷さんがあの話をして、祭壇に手を合わせると頭が濡れたような感覚とイカのイメージが共有される人間がいるってことしかわかってない」

「ま、よく考えなくても不思議は不思議だよね」

「国内外含めて、大谷さんが似たような事例がないか調べるそうだよ。で、大谷さんがなんでイカに対してのめり込みそうかって話だな」


 岩崎の喫茶店に入ろうという提案は非常に良かったと思う。

 面倒くさいのに化粧して外に出てきているので、ちょっとのんびりしてやろうという気持ち自体はどこかにあったのだ。思わず無駄話をしてしまう。

 ようやく本題の一つに入りそうなので、私は口を噤む。


「どうもイカのおかげで命が助かったらしい」

「お告げでもあったの?」

「あるわけないのはお前も知ってるだろ。喋らないよ、こいつは」

「じゃあ、なによ?」

「なんでも何か考え事をしながら歩いてて車に轢かれそうになったらしいんだが、その時にイカが暴れたことで車の接近に気づいて間一髪助かったらしい」

「それで、イカに命を救われたって?」

「まぁ、そういうことだな」

「うーん……」

「どういう意味の『うーん』だ?」

「うーん……まぁ、ありそうな気はするよね。試してみようとは思わないけど。イカがそれこそウィルスとか寄生生物みたいなものだったとしたら宿主に死なれると困るわけじゃない?」

「そうだな」

「だから、危険を宿主に知らせるとかはひょっとしたらあるのかもしれない。別に大谷さんを助けたいとかではなく生存本能に従った行動っていう。もしくはイカに意思とか意図なんてものは全くなくてたまたまそういう行動をとったのを神のお告げって都合よく解釈してるっていうのもあると思う。ただ、自分が大谷さんの立場だったら……やっぱり意思を持った存在に救われた、と思うかもしれない」

「なるほどな。俺も話を聞いた時にそう思ってそれから色々試したんだ」

「試すって?」

「自分の行動や思考にイカが反応するかどうか、それにパターンがあるか試してみた」

「ないでしょ? あったら私気づいてると思うけど」


 そして岩崎は衝撃的な発言をする。


「いや……多分なんだが、イカの行動には何かしら理由やパターンがある。俺も最初はそんなものないって思って、ダメ元で試してたんだよ。正直かなり気づきにくい」

「何回も車の前に飛び出してみたわけ?」

「そんなことしないよ。本当に大谷さんが言うように命の危機感じるようなレベルのこと繰り返したら死ぬだろ!」

「それ以外でもわかるもん?」

「色々試したら反応するものもあるんだよ。そうだな……」


 岩崎はスマホを少し操作して、私に差し出してくる。


「これ、読んでみろ」

「東海の小島の磯の白砂に

 われ泣きぬれて

 蟹とたはむる

 頬につたふ

 なみだのぼはず

 一握の砂を示しし人を忘れず」

 私の中のイカがぐるりと身体を捩る。

「別に声は出さなくてよかったんだけどな」

「先に言えよ」


 私は岩崎の肩を少しだけ強めにはたいた。


「で、何これ?」

「お前のイカ回転した?」

「したよ」

「一握の砂読むと回るんだよ。お前の朗読聴いて、俺のイカも回った」

「なんで石川啄木?」

「イカに聞いてくれ」

「答えないじゃん」

「これって岩崎も聞こえてるから同時に反応したのかな」


 今度は黙読する。


「イカ回った?」

「いや、回ってない」


 イカは石川啄木の詩を読んだり聴いたりすると反応するらしい。


 ――なんで? 蟹のくだり?


「これ、イカはこの詩が好きなの? 嫌いなの?」

「お前はどう思う?」

「わかるわけないじゃん」

「俺もわからない」

「ま、そうよね。人によっては喜んでるって思うかもしれないし、嫌がってるって感じる人もいるかもしれない」

「何かしらを感じてはいるんだろうがな」

「私はさ、全員の中のイカが一匹一匹全部違う個体なのか、同一個体をみんなが見てるのかっていうのをちょっと気にしてたんだけど、大谷さんが事故に遭いかけたときにイカが暴れたとかっていうけど私のイカは暴れたことないし、さっきの音読と黙読の実験ではっきりしたけどそれぞれ別個体みたいだね」

「あぁ、そういうことか。確かに言われてみればって感じだが、そうなんだろうな」

 私がなんの説明もせずに黙読した意図は今になって彼に伝わったらしい。

「別々の個体かどうかってなんか意味あるのか?」

「どうせ相手には見えないんだし、どっちでも一緒じゃないか?」

「別個体だったら、名前付けたい人は付けられるじゃん。別に同一個体だったとしても自分の頭の中のものだからって名前付けてる人もういるかもしれないけど」

「名前か。考えたこともなかった」

「私は付けるつもりないけどね、今のところ」

「名前付けると何か変わるかもしれないし、俺は少し考えてみるよ。今のところ後もう一つイカが反応するもの見つけてる」


 岩崎が勿体つけてくる。

 おそらく絶対に当てられない自信があるのだろう。で、あればクイズとして成立しない。


「さっさと言いなよ」

「当てようって気はないのかよ」

「ない」


 私はきっぱりと言って、冷めきった紅茶を流し込んだ。

 イカは反応しない。

 最初に飲んだ時には意識もしなかったが、特に紅茶に対してイカは好きとか嫌いとかはないらしい。

 イカの幽霊みたいなもので別に飲み食いはしないだろうし、自分と感覚を共有しているのかすらわからないのだが、今後は飲み食いする時にも少し気にかけてみよう。


「面倒くさがりだなぁ。正解は微分」

「ビブン? なに、ビブンって?」


 私は正解を聞いてなお、何を言っているのかわからず、からかわれているのかと苛立ちを覚えた。

 はっきりと「ビブン」という単語は聞き取れてはいる。


「は? いや、だから微分だって」

「だから、ビブンって何か説明してって言ってるの!」語気を荒げる。

「微分積分だよ。高校でやっただろ?」

「微分積分……数学の?」

「数学の微分積分の微分だよ」

「じゃあ、最初から微分積分って言ってくれる? 微分とだけ言われてもわからないじゃない。あと私はやってないから。数IAが限界だし、大学受験で数学は使ってないの。覚えといて」

「なんで勉強してないことをそんな上から目線で言えるのかは甚だ疑問だが覚えとく。とにかく、微分の問題を解くとイカが墨を吐く」

「いよいよ、わけがわからない。っていうか、岩崎もなんで微分なんかやろうと思ったの?」

「本棚がいっぱいになったから、もう読まない本を処分しようと思ったんだよ。それで予備校の参考書とかもう捨てようと思ってな。それで最後にパラパラっと捲って懐かしんでたらイカが墨吐いたんだよ。ちょっと気になって項目ごとにちょっとだけ考えてみるとどうやら微分の時は墨を吐くらしいってことがわかったんだな」

「へー。私はまず微分を欠片ほども理解してないから再現しようがないや。まったく意味わからなくても教科書読むだけで反応するかは試してみようかな。問題解かなきゃダメならお手上げだ」

「さっきの話を聞いてそれは知ってる。啄木の実験ができただけで十分だよ」


 私は特に知りたいとも思っていなかったがイカについて詳しくなってしまった。

 ただ、実在するイカについての知識は皆無であり、餌すらいまだに知らない。

 非実在のイカについてなんて無駄の極致の知識だ。


「で、このことって誰が知ってるの?」

「俺とお前だけ」

「大谷さんには言ってないんだ?」

「この法則を使って、自分にとって都合がいいようにイカの動きをこじつけて、サークル員を信用させるなんてことがあったらよくないと思ってな。やりようは幾らでもあるだろ。目立たなかったり複雑な条件を見つければ、自分だけがイカを操れるって錯覚させることも難しくない」

「あんまり大谷先輩のこと信用してないの?」

「いや、先輩のことは好きだし尊敬してる。ただ、あの人は真面目すぎて、なんでもちょっとやりすぎるところがあるからな。少し様子を見てから伝えようと思ってる。メンバーみんながいるときとかにな」

「で、なんで私には先に言ったの?」

「口止めすればお前は誰にも言わないだろうし、もうちょっとイカに興味持ってもらいたかったからだよ」

「なによ、それ」

「でも、色々試してみようとは思ったろ?」

「ちょっとだけね」


 そして気が付けば外が暗くなっていた。

 岩崎がここの代金は払ってくれるというのでお言葉に甘えることにし、店の前で私たちは解散した。



「あんたさ、アイドルとか好き?」


 帰り道、イカに話しかける。

 イカはくるりと回る。


「どっちよ、それは」


 私はふとイカがアイドルのことを考えている時に回転することが多いような気がしてきた。

 帰ったら少し意識しながらyoutubeで【百鬼夜行】の動画を観たり、SNSのチェックをしてみよう。

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