-5- フレアとマリエッタ

 私はレコードをそっと戸棚に仕舞い、ピアノ用の黒い椅子に腰をへたりと下ろしました。


 フレア・アルメリア。世界で一番有名な女性型アンドロイド。


 今でこそ彼女のレコードが流行ることはなくなりましたが、それでも彼女のレコードは私たちアンドロイドにとって憧れの存在であり続けています。


 彼女がいなければ今のアンドロイド文化もなかったと言われても、決して大げさではないでしょう。それほどに偉大なアーティスト。それがフレア・アルメリアという人物です。何せ、世界で初めて心を持ったアンドロイドですから。


 当時のアンドロイドは心を持ってしまったがゆえに、迫り来る様々な情報を処理しきれずに壊れてしまうのが普通でした。時代は違いますが、ラオレ様が研究していたと仰っていたピアノスがその顕著な例と言えます。


 フレア・アルメリアのレコードは売れ続けるどころかますます人気を高めていき、彼女の曲を聴いて心を持つようになったと語るアンドロイドが現れるほどでした。「このレコードであなたも心を手に入れよう!」そんなキャッチフレーズで店頭に売り出されていたのを思い出します。そしてきっとあの少年――ミルド様も、フレアのレコードを聴いて心を手にしたのでしょう。


 彼女はアンドロイドに心を与える存在として、アンドロイド研究界からも注目されました。ライブや収録を行うたびに研究所に連れて行かれ、精密検査を繰り返し受けていました。


 驚異的な彼女のカリスマ的な魅力、そして本来心のない機械相手に心をもたらす性質。この性質をコントロールすることができれば、フレアを手に入れさえすれば。


 世界を掌握することも夢じゃない。

 そう考えた研究所の上層部は、彼女に様々な圧力をかけ始めました。


 彼女を独占し、世界中のアンドロイドを支配下に置くために。


 そしてその圧力を、私も受けました。当時私はフレア・アルメリアのそばで彼女を世話する役目でした。マネージャーとは少し違いますが、専属の秘書のような役割でした。


 私はその時、お嬢様に約束したんです。


 どんな圧力にも屈さずに、フレアを……お嬢様をお守りすると。

 何があっても、例え自分のアンドロイドとしての命を代償にしたとしても、お嬢様をお守りしたい。そう思わせるほど、当時の圧力は大変なものでした。


 だから、私はフレアが嫌いなんです。お嬢様もそう。昔のあの壮絶な時代のことを、思い出したくないのです。


「あら、マリー。ピアノの練習かしら?」


 お嬢様が練習室に入ってきました。洗濯かごを手にしています。きっと今朝外に干したシーツなどをしまってくださったのでしょう。ということは、これから雨が降るのでしょうか。


「おはようございます、お嬢様。ミネ様は」

「まだポッドで寝てるわ」

「そうですか」

「でもすぐ良くなると思う。昨日もポッドから出て話ができたのよ」

「あらまあ」


 お嬢様は洗濯かごを扉のそばに置き、木製の椅子を運んできて私の隣に座りました。カシワバ様からミネ様の話は聴いておりました。アンドロイドの仲間が増えるのは素直に嬉しいことです。短い間ですが、彼女が研究所に戻ってからも仲良くできるといいな。まだ挨拶もできていないですが。


「ところで、あなた」

「はい」

「何か悩んでいるのね」

「えっ」

「遠い目をしていたわよ。何か思い出してた?」


 図星です。私は包み隠さず頷きました。


「もしかして、あの頃のこと?」

「い、いえ、その」

「カワカミさんともその話をしていたそうね」

「……申し訳ありません」


 お嬢様はフレアの話についてかなりナイーブです。それもそうでしょう。ご自身の過去の苦しみを引き出されるというのは、きっとつらいことでしょうから。


「ねえ、マリー」

「はい」

「ミネもカワカミさんも、私のことを知っているみたいだわ」

「……え?」

「それもそのはずよねえ。私も油断してたわ。だってあの二人、研究所から来たんですもの」


 お嬢様は諦めたように失笑しました。私は驚いて何も言えずにいます。


「でもあの子は――ラオレは私のことを知らなかった。きっと情報は操作されているのね。研究所の中でも、情報の開示については慎重に進めているようだわ」

「な、なるほど?」

「ねえ、マリエッタ。彼は知らないままでいい。だから引き続きなにも言わないことよ。私のことを私として認識できるのは、今のところ彼だけよ」

「それは、もちろんです。カシワバ様にも釘を刺しました」

「ありがとう。それでこそ私のメイドだわ」


 お嬢様は私の肩に腕を回し、優しく抱きしめました。私はお嬢様の背中に手を回します。


 すると、ふわりとお嬢様の香りが鼻腔をくすぐります。ああ、懐かしいな。この匂い。ずっと昔、まだ私が心を持たない普通のアンドロイドだった頃、私にいつも寄り添ってくれていた人の香り。忘れたくないけど、もう思い出せない。そんな大好きな匂い。


「お嬢様は、たまにとてもずるいです」

「それが私でしょう」

「……自覚があるんですね」

「自覚があるからこそ、よ。たまに自分の性質に改めて気付かされて、どうしようもない気持ちになってしまうのよ」


 お嬢様は私の体をキツく抱きしめます。


 そうですか。やっとわかりました。


 お嬢様もまだ戦っているのです。自身の中に潜む、フレア・アルメリアという存在の偉大さと性質、そしてその可能性と。それ故に、自身の存在が揺らいでしまうこともあるのかもしれません。


 私には、ただ見守ることしかできません。せめて、私だけはお嬢様の味方であり続けましょう。お嬢様が私を必要としてくれる限り。


 私はお嬢様の耳元に訴えかけるように、こう伝えました。


「これからも、私はあなたをお守りします」


 お嬢様は静かに頷きました。窓の外では、しとしとと小雨が降り続いています。雨の降る音だけが響く静かな空間で、私たちはしばらく寄り添いながら、その静かな音に耳を傾けていました――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る