第38話 150年前の記憶(導きの書店主side)

 使徒は、強大な魔力を持つ故に、自身の特質から逸れれば心身の均衡を欠いて堕ちる。


 人を作り出し、愛し、育むために神によって作り出された使途は、神の意志から逸れる行いをしても堕ちる―――。


(人間なんて感情があるから、不安定でしかない存在なのに。そんな私らに、途轍も無い力を与えておいて、気に入らなけりゃ容赦なく堕とすなんて、無慈悲なもんだねぇ。だからこそ私と同じ道を繰り返さない様に、助けたいもんだ)


 薄暗い「みちびきの書店」で、古びた書物をパラリとめくった老婆は、書物に落としていた赤い目を、そっと扉に向ける。


「さてさて、あの向こう見ずで純粋なお嬢ちゃんには、逃げたがりの坊っちゃんを捕まえておいて欲しいもんだけど。お似合いだと思うがね。正反対だった私らと違って……」


 老婆が思い浮かべるのは、いつも家人から逃げ回っているリヴィオネッタの姿。そして遠い日に見た優し気な表情の青年の姿。


 幼い頃より見守って来た少年は、好奇心旺盛で悪戯をもたらす緑の翼の「翠天すいてん」に誰よりも近い特質を持って生まれて来た。彼が早晩覚醒するのは確かだろうけれど、彼の身分が特質を発揮することを許さない以上、容易く堕ちるのも確実……と思われた。だから、その気配を察知した「堕ちる」ことを誰よりも知る老婆は、幼い頃から彼を庇護した。彼女には、それが認められる権威があったから。


「どんなに力があっても、私じゃ叶えられないことが多すぎるよ。今も昔も……。あぁ、やだねぇ」


 自嘲気味にフフと笑いながら、ぱらりと捲った本は、老婆が自身の戒めのために書き記した昔語りだ。


 そこには、老婆をこの世に縛る過去の出来事が記されている。そしてこの内容は口伝で、極々一部にのみ伝えられる――――王家とプロトコルス公爵家の跡取りにだけ。


 想いで容易く壊れる使徒の存在を忘れないように。


 ただの強力な魔法使いどうぐでないことを忘れないように。



 老婆は文字に視線を落とし、取り返しのつかない過去を辿る―――――



 * * * * *



 150年前、この国の王太子の乗った船が海難事故に遭った。激しい損傷を受けた船体、遺体ばかりが見付かる中、王子の行方だけはようとして知れず、いつか国の重鎮までもが彼の生存を絶望視していた。


 だが、奇跡的に王子は生き延びていた。


 全ての記憶を無くし、登城も叶わぬ辺境の下級貴族の娘に救われて――。


 自らの身の上どころか、言葉さえ曖昧になる程の記憶の混濁を起こしていた王子は、献身的に看病をする少女に心奪われ、彼女は記憶を無くしているにもかかわらず、全てを包み込む優しさを持った一人の男を愛した。そこには身分による打算は無く、人間同士の心の交流が齎した、愛情があるだけだった。


 だが、しばらくして男を探して身形の良い騎士と、随分苦労したのか心身を弱らせた女が姿を現した。その女こそ、王子の婚約者であった焔使えんしとされる公爵令嬢だった。彼女は、王子が行方不明になってからというもの、強大な魔力を持つ自分が探すのが適任だと寝食を惜しみ、国中を探し回っていた。愛する人を探すため。


 けれど見付け出した男には、すでにその腕に抱き愛おしく視線を向ける少女があった。


 言葉すら話せない、かつての輝かしい美貌さえも見る影もなく衰えた王子であったが、少女の男への視線には慈しみが込められており、2人の心の結び付きが強固であることは、簡単に見て取れた。


 忘れ去られ、心さえ奪われてしまった婚約者から、怯え、敵を見る視線を向けられた女は嫉妬に支配された。荒れ狂う感情に支配された女の強大な魔力は、目の前の2人に容赦なく襲い掛かり、気付けば――――王子を庇った少女の冷たい躯がそこに横たわっていた。


 故意による殺害ではなかったが、人を愛する「神」の意思から外れた「焔使えんし」は堕ちた。


 愛する者、愛していたはずの者2人を同時に喪い、そこでようやく王子は記憶を取り戻した。けれどそれは遅きに失した。


 少女の命は無く、堕ちた焔使は崩れ行くのを待つだけだ。一人取り残された王子は自らが起こした悲劇を理解し、自分を責めた。


 絶望の底に落ち、その場で自ら命を断とうとした王子を、止め、民衆と何より彼女自身が待ち望んでいた王とするため、堕ちて行く最中、女は僅かに残っていた焔使の力を全て注ぎ込み―――――



 少女の生命を復活させた。



 * * * * *



 それ以降、強大な者を喪わないよう、王国では契約を強固に、忘れぬよう、気付けるよう違えたときに現れる呪を施すようになった。



「馬鹿げた仕来たりだけど、それがあの男の考えた精一杯の私への贖罪なんだからねぇ。馬鹿馬鹿しすぎて憎めないったらないね。」


 パタリと閉じた本に節榑ふしくれだった皺だらけの手をそっと乗せて、苦笑混じりの溜息を吐く。


「あそこで、私は朽ち果てるはずだったのに。神はあんな馬鹿げた真似の何が気に入ったのか、私を中途半端にこの世に留めるんだから……。幾つになっても死にたかないのは人である以上仕方がない。だから私をこの世に留めたあの方の望みを叶え続けるしかないんだよねぇ」


 参ったねぇ、と呟く老婆の声は、どこか楽しげだった。

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