第37話 記す名、呼ぶ名に想いは宿らず(オレリアン伯爵side)


 先触れも無い突然のプロトコルス公爵自らの訪問に、首を傾げる間もなかった。


 館の主人を待ち、客室に留まる時間も惜しいとばかりに、訪問者らは権威を盾にオレリアン伯爵邸の奥へと侵入して来たのだ。彼らは真っすぐにオレリアン伯爵が居る執務室へとやって来た。


 廊下から聞こえて来る執事の狼狽える声に異変を察知し、椅子から腰を浮かせたオレリアン伯爵は、ノックと共に開かれた扉に目を見張った。無礼者に対する怒りではなく、有り得ない光景に理解が及ばないことによる驚きのためだ。


 そこには、プロトコルス公爵を先頭に、仰々しい身形の男2人とそれを護る何人もの騎士の姿が見えていた。公爵の背後に立つのは国王からの使者、そして教皇からの使者。


「貴殿は何も考えず、この書類にサインさえすれば良い」


 公爵から高圧的に告げられ、言葉同様強引に突き付けられた書類には、既に国王の御璽と神殿最高位の教皇を表わす印影が在った。


「ご……ご説明を。ミレリオンに重大な瑕疵が御座いましたでしょうか」


 ペンを握る手同様、震える声で伯爵が確認したのは、それがセラヒム・プロトコルスとミレリオン・オレリアンの婚約を解消する書類だったからだ。


「大いなる意思が働いたとだけ説明しておこう。貴公の娘には何ら瑕疵はない。今まで通り、騒ぎ立てをしないのが貴公のためだと理解しておくと良い」


「そんな理不尽な」と口元に上った言葉は音とならずに、悔し気に引き結ばれた唇の中へと消えた。目の前に並んだ王国最高位の存在達に睨まれては、彼の権力欲は潰えるどころか、細やかな今の地位さえ危ぶまれることになる。


 だから彼は理不尽さに怒る手の震えを何とか押し殺しながら、差し出された書類へ慎重にサインをした。


 理不尽な要求を示す誓約書に、伯爵が何の抵抗も示さず記名するのは当然とばかりに、何の配慮も感慨も無く書類は引き取られた。それから寸暇の猶予も惜しむ様に、プロトコルス公爵らは来た時同様、何の断りもなく慌ただしく館を後にしたのだった。





 使徒を生み出す家系の貴族が絡んだ婚約証書は、使徒を束ねる神に守られた制約魔法による呪が掛けられ、それを解除するには正式な書類による手続きが必要となる。解除しないまま婚約を違えようとすれば、その対象者の肌は火に炙られた様に黒い痣が浮き出て、死ぬまで罪を周囲に示すこととなる。これは、150年前に王家と婚約者の令嬢が悲劇的な別れを遂げることになった「とある事件」から為されるようになった契約だ。王家と神殿による、2度と同じ過ちを繰り返さぬようにとの戒めが込められている。


 過ちに身を堕とした使徒が未だこの世に存在するうちは、この呪による制約が無くなることは無いだろう。


 王家から焔使えんしへの、悲劇を忘れず、過ちを繰り返さないと云う贖罪が表わされているのだから――。



「旦那様……、今の方々は一体何の……」


 不安げに顔を曇らせて戸口から顔を覗かせたのは伯爵夫人だ。これまで茶会だと出掛けた日は、遅くまで帰らないことが殆どだった彼女が、何故か今日は早々と帰宅していた。


「何故だ!? 何故ここへ来て突然婚約解消などと一方的にっ」


 だが伯爵は彼女の存在などさして気にも留めない様子で、誰も居ないかのように不満を吐き散らす。伯爵にとって大切なのは、自身の利益に繋がる使徒の風貌に近い子供であって、妻に興味はない。だからこそ、彼女は常日頃から不道徳な相手を買って憂さを晴らしていたのだが……。


 それはさておき、オレリアン伯爵にとってセラヒムとミレリオンの婚約は、亡き妻が勝手に結んだ気に入らない経緯でのものであった。同時に権力志向の高い彼にとっては、公爵家と縁を結べる利用価値の高い婚約でもあった。ビアンカが横取りを目論んでいる様ではあったが、そうなったところで自らの娘が婚約者となることに変わりはないから、何の問題も感じてはいなかった。だが、解消されてしまっては、この先どう転ぶことになるか分からない。持てる駒はまだまだあるが、最有望株2人に比べれば格段に劣ってしまう。


 荒れる伯爵とは対照的に、夫人は娘のビアンカがセラヒムとの新たな婚約を結べる可能性が出て来たことにひっそりと笑みを浮かべるが、その思惑は2つある。


(旦那様の望み通り私の娘が公爵家との繋がりとなれば私の立場は安泰……。それに、ビアンカがセラヒム様と婚姻すれば、公爵家の持つ爵位の一つを譲り受け、この家から出て行くことになるわ。そうすれば、あの恐ろしい幻で私を追い立てたビアンカといつも顔を合わせずとも済むようになる)


ミレリオンあれが駄目になったのなら、ビアンカにはプロトコルスの小僧を堕とすよう、よくよく言って聞かせねばならんな」

「その通りですわ! ビアンカは間違いなく旦那様のお役に立ちます!」


 己の欲のために2人が上げた声は、天使と評される娘の名を呼びつつも、彼女の身を思い遣る気持ちなど欠片も宿っていないものだった。

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