第6話 新しい夜

 目を閉じていた。

 いつもそうしているように、エレノアは目を開ける。


 ずいぶんと長い時間寝ていたような気がした。

 上体を起こすと、自分が草の上に寝ていたことを知る。


 隣にはハンスが寝転がっていた。


 頭は一気に冴える。


「ハンス、ハンス」

 肩をつかんで揺り動かす。


「う、う~ん」

 むにゃむにゃと口の中で何か言うと、ごろんと向こう側に寝返りをうった。


「生きている……」


 はっと気づいて自分の手を見た。

 エレノアは目を開けていた。


 赤い瞳は夜に開かれていた。


「眩しく……ない」


 ここが地下でないことはハンスの存在や、となりを流れる川の音でわかる。


 エレノアはハンスにもらった頭巾を取り、フードを上げる。


 そこには明るい夜があった。

 全てを飲み込み、塗りつぶしてしまうような白ではなく、暖かく包み込むような夜だった。


 川向うにそびえる教会の白い鐘楼や、遠くに見えるオークの木々まで、繊細な形を目で捉えることができた。


「こんなにキレイだったんだ」

 エレノアは気づかぬうちに涙をこぼしていた。


 地下の街では岩と人工的な物しか見たことがない。

 世界は、いや夜はこんなにも多彩な色と形で満ちていた。


 今まで感覚でしか味わうことのできなかった世界を目で見ることができる。

 エレノアがずっと望んできた光景がそこにあった。


「スキアー。どうやったの? これすごいよ」

 はしゃぎながらエレノアは立ち上がる。


 たまらず、でたらめなステップを踏んで、川辺に踊る。


「ねえ、スキアー」

 答えのない影を見下ろした。


 何の変哲もない、薄く小さな影が足元にあった。


「え? スキアー?」

 エレノアは膝をついて影に聞く。


 身体を動かすと、その通りに影の形は変わる。

 しかし、勝手に影が動くことはなかった。


「そんな、スキアー!」


 エレノアは闇の世界で交わしたやりとりを思い出す。

 スキアーは君たち二人に生きてほしいと言っていた。


 自分の身体を触る。


 ハンスを見る。


 エレノアとハンスに命はある。

 しかし、スキアーの存在を感じることはできなかった。


「そんな、嘘だよ!」


 ハンスを失うと知ったときに感じた胸の痛みと同等、いやそれ以上のものがあった。


 エレノアは勝手に騒ぎ出しそうな自分の口を両手で塞ぐ。

 ゆっくりと呼吸を整え、深く深く鼻で息をする。


 口から手を離して集中を高める。


 自分の身体が影に落ちていくような感覚がした。

 奥へ奥へと手を伸ばすと、指先にやわらかい手応えを得る。


 自分の影とは違う、黒い闇。


「そこにいるんだね」

 声をかけても答えることはない。


 しかし、小さくても存在を感じ取ることができた。


 おそらくスキアーは自身を二つに分けたのだろう。


 分けた半身をハンスの影に潜ませた。

 だからハンスは生きている。


 エレノアはその苦痛を思った。

 自ら上半身と下半身を分けるようなものだろう。


 いくら生命力があると言っても、耐えられるのか。


 こんなに小さな存在になってしまったのも、そのせいかもしれない。


 代わりにエレノアは明るい夜を手にしていた。

 スキアーの力が弱くなったからこそ、夜に赤い目を開くことができた。


「こんなの……喜べないよ」

 エレノアが心から欲していたものは、スキアーの犠牲の上に成り立っていた。


「スキアー……君と二人で、この夜を見たかったのに……」


 意識せず涙がこぼれた。

 先程とは違った涙だった。


「う、う~ん。うわ! 眩しい!」

 ごろごろと転がっていたハンスが飛び起きる。


「え? どういう? あ、エレノアさん!」

 立ち上がるとエレノアの方へと駆け出す。


 彼は栗色の髪をなびかせ、青い目を大きくさせていた。

 どうやらすぐに、髪や目の色が変わるということはないようだった。


 それでもいつかはエレノアと同じように銀色の髪、赤い目になるかもしれない。


「あ……もしかして、泣いてました……か?」

「いや、いいんだよ」


 目をこするとエレノアは笑顔を浮かべた。

 ハンスはそれ以上何も言えなくなる。


「君には、この夜がどう見えるんだい?」


 いくらか落ち着くとエレノアはハンスに聞いた。


「明るいです。夜じゃないみたいな。でも昼とは違って……あ!」


 ハンスは見上げていた。

 そこには満天の星が瞬いている。


「エレノアさんは、こんな夜を見ていたんですか」

「いや、たぶん違うと思う。でも今、君が見ている夜空は私と同じだろうね。かつて私が見ていたものより、美しい」


 二人はしばらく夜空を仰いでいた。


「その……先程の涙ですが、スキアーさんですか」

「君はさといね」


「私の影に何か存在を感じるので、そうかなと」

「まさか! 君は優秀でもあるんだね」


「傷が消えてなくなってますし」

 ハンスは自分の腹をさする。


「そうか……そうだね」


 ハンスはひざまずくと、エレノアを見上げる。


「あなたたち二人は私の命の恩人だ。私にできることがあるなら、なんでも言ってください」

「待ちなさい。そこまで、かしこまる必要は――」


「いえ、いくら感謝をしても足りません。何なりとお申し付けください」

「それなら、まずはその仰々しい態度を改めてくれないか」


「ですが――」

「何でも言うことを聞くんだろ?」


「……わかりました」

 渋々といった感じでハンスは立ち上がった。


「そうだ、まずは錬金術とやらを知りたいな」

「そんなことでいいなら、もちろん」


「それと……」

 エレノアは一旦、口を閉じると目を落とす。


「スキアーのことも知りたいし、できることならもう一度話したい」

「それは、私も同じです」


 二人は自分の下にある薄い影を見ていた。


「そうそう、旅にも出たかったんだ。色んなところを見て、色んなことを知りたい」

「お供させて頂きます」


「だから、そういう言葉遣いは――」

「すいません、こればかりは……お時間をください」


「仕方ないなあ」


 スキアーは消えたわけじゃない。

 彼の、ハンスの知識も頼りになる。


 いつか三人で笑いあう日が来るかもしれない。


「これからは見聞を広めつつ、知識を深めましょう。フィロソフィアです」

「なんだい、それ?」


「フィロソフィアとは知を愛するという言葉です」

「いいね、それ」


 二人は歩き出した。


「これからもよろしく」

 エレノアは微笑みかけた。


「はい。こちらこそ」

 ハンスは元気よく答える。


 明るい夜の下、二つの影が丘を登っていった。



 了

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夜を分け合うフィロソフィア 月井 忠 @TKTDS

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