2章 決意

冷たい世界

「おかえり。大丈夫?」


 なんとか家にたどり着くと、出迎えた母は、とにかく普段通りを意識して装っているようだった。母からすれば彩音が亡くなろうと知った話ではないだろうけど、僕が電話口で慌てたことに対して心配しているようだった。


 おそらく、友達からもひっきりなしに連絡が来ているだろう。そのせいで、尻ポケットに入れた携帯が熱い。しかし、そんなことを考えている余裕はなかった。


「通夜の詳細はしっかりと聞いてくれた?」


「ええ、もちろん。でも……」


 母はなんだか言いにくそうにしているというか、まるで僕のことを変なものでも見るような目で見ていた。こんな視線を向けられたのは、これまでの人生で初めてのことだった。母は僕に対して怯えの感情を抱いているように見えた。ずっと、警戒してこちらの動きを伺っているような。


「どうしたの? なんだか変だよ」


 僕が問いかけると、母は唇を震わせながら返事をした。


「なんだか、すごく冷静だから」


 そう言われてみると、確かにそうだった。


 だけど、小学校時代の同級生が亡くなったと聞かされてそんなにすぐ取り乱せるものだろうか。その子と親しくしていたならば、現実を受け入れることに時間がかかるだろうし、親しくなければ小学校時代のクラスメイトなんて名前を忘れていてもおかしくはない。母は、僕と彩音の関係なんて、知らないはずだ。


「そうかな。僕もまだ、現実をわかっていないのかもしれない」


 母の言葉に何と返していいのかもわからないけれど、何も返さないよりはいいかと思ってそのままの考えを伝えた。母はそれに納得したのか、うんうんと頷いてリビングから出ていった。奥から、夕飯の準備をする音が聞こえてくる。


 僕は何もする気が起きないし、人が亡くなったと聞いてばりばり勉強や仕事ができるというのも人間としてなんだか不自然な気がして、明日までに提出する課題は学校指定のカバンにしまったままで、ずっとテレビで流れるニュースを眺めていた。


 だけど、その一割も頭に入ってこなかった。どうでもいいものばかりだった。


「最近は物騒な世の中よね。ねえ」


「なに?」


 母が米を洗いながら、リビングのソファーに腰を掛ける僕に声をかけてきた。普段は床にカバンを放り出していると口うるさく言ってくるけれども、今日に関しては御咎めが無い。母なりに気を使ってくれているのだろうか。


「ねえ、その彩音ちゃんっていう子はどうして自殺したのかしら」


「自殺? いや、わからないな」


 母は彩音が自殺したと思っている。いや、さすがに通夜の連絡で死因を話すわけはないか。なら、女子高生の死因を自殺と結びつけるのは自然な話だった。なにせ、高校生くらいの年代では死因の半分以上が自殺なのだ。珍しくもない。


「光誠は、自殺なんてしないわよね?」


 その言葉に母がこれまで生きてきた人生の重みというか、言葉にできないそんなものが詰まっている気がして、僕は少したじろいだ。普段は、スーパーでレジ打ちのパートと高校生の一人息子を育てる母親という、威厳を感じることは少ない人種だけれども、その言葉は母がこれまで培ってきたものから自然と出てきたものだった。


「もちろん、自殺なんてしないよ」


『ロビンソン漂流記』を記したダニエル・デフォーは、こんな言葉を残した。


『自殺は、このうえなき臆病の結果である』


 もちろん、今も自殺に関していろいろと考えている人には冷たいように感じるかもしれない。だけど、僕もそれには同感である。僕は、臆病者なんかじゃない。その言葉からすれば、僕よりもよっぽど強かった彼女が自殺をするなんて考えられないはずなんだけど、それは近い人間にしかわからない。


 だけど、次に飛び込んできたニュースは僕の意識を母から奪った。ニュースキャスターは慣れた手つきで、原稿を読み上げていた。


「次のニュースです。東京都の高校に通う鷹山彩音さんが、山中で遺体となって見つかりました。鷹山さんは、数日前から行方不明になっており……」


 そこまで聞いたところで、僕の意識は途切れた。


「大丈夫? ひどく魘されていたけれど」


 そのままソファーで意識を失っていた僕は、母に体を揺さぶられて目を覚ました。


 制服のまま眠ってしまったせいでシャツは乱れ、嫌な汗がべったりと体についていた。なんだか、目頭が痛い。涙が流れるのか、いやそれは無かった。体からは汗しか流れなかった。シャツが薄く透けて、体に張り付いている。


「大丈夫。だけど、なんだか体が熱い」


 ふつふつと体が熱い。内側から体が温められている、いや外が冷たい。低温火傷と同じ仕組みだ、自分の外側が冷たすぎて内側が熱く感じられる。世界が、ひどく冷たい。凍えてしまいそうだ。指先から、どんどん凍っていくような感覚がした。


 母は、僕の額に手を伸ばす。そこに触れた瞬間に、母は手を引いた。


「すごい熱、すぐに部屋へと戻って寝なさい」


 そう言われて、ようやく僕は自分が発熱しているのだと自覚した。これが、彩音を失った僕がとるべき正常な反応か、それとも違うのかはわからなかった。


 だが、どうしようもない事実として立ち上がることすらもままならない状態だ。なんとかぐるぐると動く視界で確かに支えとなるものを掴んで、部屋へと戻った。制服を着替える余裕などなく、冷たいベッドに体を預ける。


 ひんやりとした布団が、体を薄く包んだ。


「彩音。僕はどうすればいい?」


 枕元に飾っていた、写真たて。その中には彩音の笑顔が映っている。その写真たてを抱きしめながら、僕は眠りに着こうとした。しかし、先ほどまで眠っていたために目がさえてしまい、体が重く何をする気も起きない。


 僕はどうするべきだろうか。こうして、目を閉じることが正解なのか、それともこの写真たてを叩き割れば。その硝子の破片で喉を突き刺せば彩音の下へと飛んでいけるだろうか。もう一度、彩音と一緒にいられるだろうか。いや、それは不可能だ。


 彼女は天国にいる。天国で笑っているはずだ。幸せでいて欲しい、彼女がただ笑ってくれることを望んでいた僕の根底は変わっていない。しかし、僕はいまその隣に並び立つにふさわしい人間であるだろうか。


 いや、そうではない。きっと僕にはやるべきことが残されている。この世に存在する理由として、それを完遂する必要がある。ならば、その仕事を果たして、罪を浄化することによって再び僕は彩音に並ぶことができるだろうか。


 そのために、僕はやり残した仕事を果たさなければならない。その最初の仕事というのはきっと、彩音の葬儀に出席することだ。せめて、花を手向けることくらいはしなければ、きっと天国で彼女に怒られてしまうだろう。


 本当ならば、婚約をするときに渡すべきだったはずの花束。それをこんな形で渡すことになるとは思わなかったけれども、それは仕方のないことだ。愛のために、できることを果たそう。この世に、彩音への永遠の愛を証明するために。

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