消えてゆく記憶

 彼女の通夜は、つつがなく行われた。僕は葬式に行くこと自体が初めてだったけれども、その雰囲気は今までに経験したどんな場所とも違っていた。許される感情は悲しみのみで、会場の中で唯一笑っているのは、写真の中にいる彼女だけ。肩にずっしりと重たい空気がのし掛かっているように感じる。


 あの時に何度も見せてくれた小さな、だけど確かにこの世界に幸せをもたらしてくれた彩音の笑顔が何よりも輝いていた。黒い服を纏って暗い顔をしている人達を、彼女が優しく照らしているようだった。なんだか、黒い服で悲しい顔をしている僕たちが馬鹿らしく思えるほどに綺麗で、温かかった。


 彼女の顔を直接、見ることは叶わなかったけれど、写真の中にいる彼女はおそらく高校の入学式で撮影された物だろう。散りかけの桜を背景に、彼女の隣には正装を身にまとった両親が嬉しそうに笑っている。彼女は、一人っ子だった。


―――安らかに眠ってくれ


 僕はそれを祈りながら、彼女に向かって手を合わせた。その時に涙は出なかったけれども、それでもやっぱり悲しかった。彼女の笑顔を、あの笑ったときに少しだけ見えるえくぼがもう拝めないのだと思うと、どうしても絶望するしかなかった。


 初めて出会ったときからすでにかなりの年月が経過しているけれども、それでも僕の信仰心は形を変えて持続していた。それを形容することは、もはや不可能に近い。 


 きっと、他の人から見ればどす黒くてゆがんだものなんだろうけど、崇拝をするということはそんなものだ。日本人は無神論者が多いけれども、そんな人たちが本気で他国の文化を理解することができないのと同じように、いくら言葉を紡いでも僕の信仰心、その形が半分も他人には伝わることは無いだろう。


 愛も同じようなものだ。言葉では証明できない。二人の間だけで伝わる言葉だ。


「ありがとうね」


「いえ、当然の事です」


 彼女の母親が、僕に頭を下げる。僕はそんな頭を下げられるようなことはしていないから、どこか居心地が悪かった。大人たちが黒い服に身を包んでいる中で、僕だけが紺色の学校制服だというのも、疎外感の原因かもしれない。


 最後まで、体格の変わらない父のスーツを借りることも考えたけれども、最後だからと彼女に自分の制服姿を見てほしい気持ちもあった。高校に入ってから、他校の制服を見る機会なんてなかなかないだろうから。制服で、彼女に会うことは無かった。


 この制服も、僕が彩音にふさわしい人になれるように勉強をした結果で得られたものであることに間違いは無かった。入学してからもう二年が経とうとしているけれども、彩音に制服姿を見せることはできなかった。その後悔も多分にあった。


 お焼香を終えて、用意されていた椅子に座る。冬のせいか、それともこの空気のせいか椅子はとても冷たく、制服のズボン越しに体を冷やす。そうしていると、遺影の中にいる彼女と同じ制服を身にまとった一団が、式場へと到着した。


 おそらく、彩音のクラスメイトだろう。その顔に浮かべた表情はそれぞれ違っていたけれども、みんなが彩音の死を悲しんでいるように見えた。きっと彼女の性格と容姿なら、クラスのみんなに好かれていたのだろう。優しさもそうだけれど、彼女は人に好かれるオーラを持っていた。一緒にいると温かい、きっと恋心がなくても。


 常に明るく、照らすような存在だった。高校生にもなればいろいろと面倒なプライドが邪魔をして、誰にでも好き嫌いが生まれてしまうけれど、彩音の笑顔はそれを無視できるはずだ。それほどまでに、彼女は魅力的だった。


 彼らは担任の先生を先頭として、次々とお焼香を上げていく。


 その列が途中まで来たところで、一人の女の子がついに嗚咽を漏らした。その声が、まるで水面に水滴が落ちて波が広がるように連鎖し、次々と嗚咽があちらこちらから漏れだした。その音は確かに小さいはずなのに、閉め切られた葬儀会場の中ではよく響く。すべてを覆いつくすように、世界中が彼女の死を悲しんでいるように。


 一度は耳を通り抜けたはずの声が、再び壁にぶつかって跳ね返り、耳をすり抜けていくようだった。そんな中でも、僕は自分の体から涙の一滴もこぼれてこないことが不思議だった。確かに、あの時の僕には悲しいと思う感情があった。それは間違いがないし、疑いたくない。恋人の死を悲しむことは、当たり前のことだ。


 そこを疑ってしまえば、なんだか僕が人間の心を忘れてしまったみたいで、それこそ上半身にある理性よりも、下半身にある本能が勝ってしまったことを証明するようで嫌だった。彼女を愛していた、愛していたものが死んだら泣かなければいけない。


 僕は愛のため、彩音との愛を証明するために行動したのだ。そして、今も彼女との愛を再び成就させるため、そのために行動している。愛のためだけに生きている。


―――そんな僕を見て、彼女は何を言うだろう。何を思うだろう。


 できることならば、僕の行動が正しいと肯定して欲しかった。その笑顔を見せてくれるだけで僕は自分に自信を持つことができた。自分はその褒美を受け取るにふさわしい、史上最高の幸福を得るに値する人物だと信じていることができた。


 しかし、棺桶の中にいる彼女は微笑むことすらもできない。


 それが、悲しかった。この世界が幸せになる機会を、失ってしまった。


「光誠、ちょっと待ってくれ」


 葬式が終わって、会場から出たところを呼び止められた。


 そこにいたのは、高校生になって見違えるほどに大きくなった良太と翼さんだった。二人は揃って彼女と同じ制服に身を包み、歳を重ねたせいか精悍な顔つきになっている。翼さんの顔にはしっかりと涙の跡があったけれども、良太の顔にはそれがなかった。そのことが、なんだか僕を安心させた。


 うまく涙を流すことができないのは自分だけではないと思えたからだった。


「久しぶりだな」


 最初に声を発したのは、良太だった。その声を聴くのも久しぶりで、僕は誰が話したのかわからなくなるほどだったけれども、彼の表情を見ればそれは明らかだった。 


 久しぶりと言えば、それこそ半年ほどは会っていなかっただろうか。


「ああ、久しぶり」


 まさか、三人ともこんな形で再会するとは夢にも思わなかった。そもそも、三人ではなくて四人で再会するはずだったのに、そこにはあきらかに、ぽっかりと写真からその人だけが切り取られたように虚空が生まれている。


 そこに手を伸ばしても、何も触れられないのはわかっているけれども、そこを、その場所を何も無いように他の参列者が通り抜けていくのは嫌だった。


 彩音が確かに存在したはずなのに、もうこの世にはいない。今日の葬儀をもって、彼女は世間や学校において亡くなったと確かに認識されて、新たな記憶が刻まれることなくどんどんと人の記憶から薄れてゆく。そして、消えてゆくのだ。


 人は二度死ぬという。一度は、その体が滅んだとき。


 つまり、生命活動を停止した状態になったところである。脳が死に、思考を奪われる。心臓が止まり、血が全身へと回ることはなくなる。心が止まり、現世において愛を育むことは叶わなくなる。愛が生まれる可能性は、そこで死滅する。


 そして、もう一度は生きている人間にその存在を忘れられた時。このまま、僕たちの三人と彩音の両親以外には、どんどんとその時間を経るたびに彼女に関する記憶が薄れていき、やがてはその名前のみが残ることだろう。そこで愛は死滅する。


 だけど、少なくとも僕だけは、僕らだけは死ぬまで彩音の事を忘れないでいることを約束できる。声を、笑顔を、肌を、味を、匂いを忘れないでいると誓う。そうすれば、少なくとも僕が死ぬときと彼女が死ぬときは同じであるはずだ。


「今から、少し話さないか?」


 良太の問いかけに、僕は迷うことなく頷いた。断る理由もなく、僕は話せる相手を求めていたのかもしれない。いや、しっかりと僕の彩音に対して抱いていた感情の、その十万分の一でも理解できるのは良太しかいなかった。


 学校にはすでに連絡が言っており、成績とか出席もうまくやってくれるらしい。まあ、当たり前だろう。そういう面倒なことは全て、母がやってくれた。普段はそういう手続きとか連絡も僕がやるように言われているけれど、こんな時にまでやらせるような厳しさは無かったわけだ。わざわざ感謝をする気にはならなかったけれども。


 そんなことを考えられる、後のことを考えて行動できる僕が嫌だった。


 そんな僕を笑うような木枯らしが、音を立てて吹き去っていった。

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