The 8th day◇The Ash Wednesday

◆1

 散々な目に遭った姉妹のため、父はもう一日だけランバート・ホテルに滞在することを許してくれた。

 その代わり、朝一番にチェックアウトをするという。


 アデルは荷物をトランクに詰めながら考える。

 このホテルに滞在した一週間、アデルの〈当たり前〉が何も通用しなかった。

 ここに来なかったらジーンに出会うこともなく、アデルが傲慢だと気づかされるのはもっとずっと先のことだったに違いない。


「支度はできた?」


 トランクを閉めたアデルに、姉が問いかける。

 姉は婚約者を喪ったが、デリックと結婚しなくてよかったと今は思っているだろう。

 死者だから悪くは言えないけれど、生きていたら、よくも姉を傷つけてくれたものだと文句のひとつも言ってやりたかった。


 ただ、姉は踏ん切りがついたのか、晴れやかにも見える。それはクレメンスのおかげかもしれない。


 昨日の晩に、姉は彼のピアノの素晴らしさを、いつになく目を輝かせながら語っていた。あれほどの人が姉だけのために演奏を捧げてくれたのだから。

 彼が大成したのは、容姿や技術ばかりではなく、心意気も素晴らしいからだという気がした。


「うん、終わったわ」


 答える声に覇気がない。自分でもそれがわかった。

 姉は口を開きかけて、閉じた。今のアデルには余計なことを言わない方がいいと思ったのかもしれない。


 娘たちの部屋を父がノックする。


「列車の時間がある。早くしなさい」

「はい、お父様」


 姉がアデルに目で合図し、椅子から立ち上がる。


 アデルには立派すぎるスイートルーム。

 この部屋で起こったことが遠い昔のように感じられた。


 名残惜しいながらにも姉と部屋を出る。それからエレベーターに乗り込んでフロントへ向かった。

 ジーンではないフットマンにトランクを預け、アデルはそのままロビー・ラウンジにいるジーンを捜した。


 ジーンもそろそろだと察してくれたのか、給仕頭に何か話しかけ、アデルの方へ来てくれた。

 彼の顔を見ただけで涙が滲むアデルに対し、ジーンは平然としている。本当にアデルと別れても寂しくないらしい。


「駅までは行けないから、表までだけどな。一応見送る」

「うん」


 泣いてしまいそうなので、もっと顔を見たいのに背を向けてしまった。ジーンはそんなアデルをどう思っただろうか。


 ジーンがついてくると父は一瞬眉を跳ね上げたが、姉から何か聞いているのか、失礼なことは言わなかった。

 特に挨拶をするでもなく、父はさっさと外へ出ていく。タクシーに荷物を積み込んでもらい、自分も乗り込むのだ。幸い、今は雨も上がっている。


「お客様に大変なご迷惑をおかけ致しましたこと、心よりお詫び申し上げます」


 総支配人がそう言って頭を下げてくれた。


「それでもこのホテルは私にとって素晴らしい場所でしたわ。ありがとうございます」


 運命の人と出会えた場所だ。アデルにとっては何よりも印象深い。

 アデルの言葉を聞いて、総支配人もほっとしたようだった。従業員たちと深めに頭を下げて見送ってくれた。


 アデルと姉と、それを見送るジーンがドアを抜けた。ドアマンは不思議そうにしていたが、何も言わない。


「お世話になりました。またお会いできる日を楽しみにしていますね」


 姉はジーンにそんなことを言う。ジーンは苦笑していた。


「ええ、あなたもお元気で」


 最後まで、ジーンは姉には礼儀正しかった。

 姉は先に、父が待つタクシーに乗る。そうしたら、代わりに父が降りてきて、催促するようにアデルに視線を送った。

 それがよく見えるからか、ジーンは気まずそうだ。


 アデルはというと、やはりジーンとこれっきりというのは寂しすぎる。考えただけでも泣けてきた。

 もう駄目だ。涙が止まらない。


「このままジーンに会えないなんて嫌……っ」


 諦めがよくて、無感動なジーンから目を放すのが嫌だ。すぐにアデルを忘れるかもしれない。

 それから、自分のことさえ投げやりになって消えてしまうかもしれない。色んなことが不安になる。


「ここを辞めるわけじゃない。僕が行方を眩ますみたいに言うな」


 父の手前か、ジーンの口調がほんの少し柔らかい。

 それでも、泣き出したアデルにジーンは呆れた顔をするばかりだ。本当に子供っぽいとでも思っているのだろうか。


 一縷の望みを抱いてもいいのなら、ジーンは自分を取り巻く複雑な状況のために他人と距離を置くようにしていたのだとする。だから、アデルにもわざと嫌われようとしていたのかもしれない。

いきなり見ず知らずの他人を信じ、自分をさらけ出すことが苦手なのもわかる。


 けれど今は、少なくとも見ず知らずの他人ではなくなったはずだ。命の危機には庇ってくれたのだから、口で言うほどアデルのことが気に入らないとは限らない。


 シアーズやクレメンスは、一見ひねくれたジーンの本質を見抜いて親しみを込めて接している。アデルは、あの二人にそういう扱いをしてもらえる人物を好きになった自分を誇ってもいいはずだ。


 父はシアーズのことがあるせいか、マシューに対するほど明け透けな態度をジーンには取れないらしい。聞き分けのないアデルを諭すように言葉を投げかけてくる。


「落ち着きなさい、アデル。これからしばらくは四旬節レントだ。わがままを言うものじゃない」


 禁欲のレントが終われば復活祭イースターがやってくる。

 レントの間は自分の願望を押し込めて慎ましく過ごさなくてはならないというなら、今回のレントはアデルにとってかつてないほど長く感じられるだろう。

 その代わり、乗り越えた時には喜びが待っていてほしい。


 ジーンの制服のポケットに、アデルは住所と電話番号を書いたメモをねじ込む。それをすぐさま取り出して捨てないでいてくれるだけで進歩だろうか。

 そして――。


 ジーンはこれで最後だからと油断していたのかもしれない。アデルが背の高いジーンの首に腕をかけて引っ張ると、ジーンの首が下がった。

 アデルは精一杯背伸びをして、ジーンの唇にキスをした。アデルが泣いているせいで塩味がする。


 演出とは違う、本気の泣き顔は綺麗だと褒めてもらえるものではないかもしれない。アデルは唇を放すと、呆けているジーンにこれ以上ないほどの至近距離で告げた。


「うちにも犬がいるから。とびっきり可愛いジャックラッセルテリアの」


 背後のドアマンが、ニヤニヤと笑いを噛み殺している。

 ジーンにとってアデルのこの行動は想定外だったのか、まだ固まっていた。怒られる前にアデルはタクシーに逃げ込む。


「レントが終わったら、ロンドンまで会いに来て! 絶対に!」


 捨て台詞を残し、アデルを乗せたタクシーは走り去る。


 春の嵐はイングランドにはつきものだが、ジーンにとっての嵐は今回の事件であったのか、それともアデル・ダスティンだったのか。




 排気ガスを噴いて遠ざかるタクシーに向け、ジーンは体を震わせながら悪態をつく。


「――なんだこの今生の別れみたいなのは! たかが一五七マイルだろうがっ!」



     【The end】

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死の贈り物 ~ランバート・ホテルにて~ 五十鈴りく @isuzu6

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