第15話 修羅場

 口から血を吐きそうなほど呼吸が荒い。体は火照り、心音は騒音となって理性を掻き乱してくる。濁流のように流れる汗は、パジャマをぐっしょり濡らす。

 だがそんな湿った衣類の不快感など比較にもならない恐怖が、美住の心を支配していた。


 悪夢と予知夢の違いは明晰さで瞭然である。あれほど現実的で、記憶にへばりつくような夢など普通は有り得ない。これは夢であって夢ではない。何もしなければ数分後には現実になるはずの未来だ。


「はあっ……はあっ……はあっ……!」


 溢れる汗は収まる気配がない。水面から上がった直後のように、鼻先を伝って雫となり滴る。


 風邪の症状はそこまで重くなかった。だからこの体の重さは、ほとんどが予知夢の影響である。

 輝家が車に撥ね飛ばされる夢を見た時も相当な精神的負担があったが、今回はそれを上回る苦痛だ。

 美住にとって、輝家はもう他人ではない。積み重ねた時間は短くとも、共有した感情は大きい。失った時の痛みは、数倍どころではなく膨れ上がっている。


「急がないと……未来を変えないと……!」


 輝家は運命を変える強運の持ち主だ。実際、交通事故に遭って死ぬという予知夢も持ち前の運で回避してみせた。

 しかし美住は知っている。彼の運も絶対ではない。何もかもが都合よく運ぶわけではない。最悪の未来を回避できない可能性も大いに考えられる。


 美住は上着も羽織ることなく、靴も履かず、パジャマのまま外へ飛び出した。コンビニまではおよそ500メートル。全力で走っても3分近くかかる。

 スマホで連絡を取ることはできない。輝家からメールが来るのが怖くて、スマホは昨日の晩に押し入れの奥深くへと封印してしまったからだ。それを引っ張り出すくらいなら、走ってコンビニへ向かった方が早いと判断した。


「なんで……なんでこんな……!」


 今までも、多くの不幸な未来を見てきた。そしてその全てが現実となった。何をどうあがいても変えることはできず、手に入るのは不名誉な称号のみ。それでも彼女は諦めず、運命に挑み続けてきた。

 そしてついに、未来を変え得る方法を発見した。運命の修正力に抗えるほどの幸運の持ち主。輝家幸助と一緒に行動すれば、予知夢が現実になることを阻止できる。そう思った。

 だが実際には、そう上手くはいかなかった。輝家の力は本物だったが、今度は彼までもが周りから白い目で見られるようになってしまった。

 予知夢なんて気持ち悪い力に関われば、誰も彼もが不幸になる。彼女の心はとっくに擦り切れていた。もうこれ以上、誰かのために頑張ることなんてできない。未来がわかったところで、誰も助けることなんてできないのだから、全てを諦めて運命に身を任せるしかない。


 そう思っていたのに、彼女はまたも未来を変えるべく奔走している。どれだけ絶望しようと、どれだけ諦観に縛られようと、この未来だけは認めるわけにはいかない。


「────幸助‼」


 コンビニの自動ドアが開くのも待てずに手でこじ開けながら、美住は店内に首だけ突っ込んで彼の名前を叫んだ。

 店の中にいるのは、夢の中と同じく三人。輝家幸助、コンビニの店員、そして黒フードの男。男の手はまだポケットに沈められたままで、凶器は取り出されていない。


「美住……⁉ お前……」


 説明をしている暇はない。まだ刺されてはいないとはいえ、いつ刺されてもおかしくない距離に立っているのには変わりないのだから。

 美住はフラフラの体を押し、黒フードの男に向けて全速力で駆けよっていく。このままタックルでもすれば、男女の筋力差があるとはいえ、多少のダメージは与えられるはず。その隙を突けば、輝家を逃がすこともできる。


「く、来るな‼ 大人しくしろ‼」


 いきなり現れた少女に動揺したのか、男は予知夢で見たよりも早い段階でナイフを取りだし、接近する美住を牽制するように突き出した。

 それでも美住は止まらない。このまま自分が刺されれば、流石に未来も変わってくれるかもしれない。そうでなくとも、もう自分にできることなんてこれぐらいしかない。


 一人の人間の人生を台無しにしてしまった報いとしては妥当じゃなかろうか。そんな自暴自棄な考えが、美住にはあった。


 しかし未来はそう簡単には変わらない。どれだけ覚悟を決めていようとも、運命はそれを嘲笑うかのように修正してくる。


「────⁉」


 刺されてでも男の動きを止めるべく走っていた美住だったが、不調な体を酷使したことが災いして、足がもつれてしまう。そのまま踏ん張ることもできずに、彼女は床に叩きつけられた。


「この……この女!」


 転がった美住にのしかかり、男はナイフを振り上げる。


 転んだ美住などもう無力なのだから無視しておけばいいのに、やはりこの男に冷静さなど欠片も残っていない。

 一度敵だと認識したなら、もう刺さないと気が済まなくなっている。自分の目的が何で、何のためにこのコンビニに入ったのかも、よくわかっていないのだろう。


「うああああああぁぁぁぁっ‼」


 男の汚い絶叫が響き、鋭利なナイフが振り下ろされる。


 その切っ先が美住の胸を捉える直前、男の体はぐらりと横に倒れ、ナイフの軌道も逸れて脇の下をかすめて床に突き刺さった。


「美住! 大丈夫か⁉」


 男を蹴り飛ばした輝家が、倒れる美住を抱き起しながら、ナイフを蹴って手の届かないところまで滑らせる。


「私はいいから……早く逃げて」

「……未来を見たのか? でも大丈夫だ。もう武器は取り上げた」

「これじゃ駄目……こんなことじゃ未来は変わらない‼ いいから早く逃げて‼ このままじゃ君は────」


 美住が忠告を言い終えるよりも先に、男は立ち上がっていた。その手には、今度はカッターナイフが握られている。


「まだ持ってたのか……!」

「は、早く……」


 美住の体力はもう限界を超えており、肩を貸してもらわないとまともに動けそうにもない。そして輝家は、美住をここに放置して逃げるわけにはいかない。彼は覚悟を決めた顔で、刃物を持った男と相対している。


「殺してやる! 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる‼」


 デタラメに叫びながら刃物を振り回し、接近してくる男。距離を取りたくても、美住が動けない以上、輝家は下がることができない。

 このままでは、夢で見た未来が現実になる。あの惨劇が、ここで巻き起こされることになる。

 そんなこと、絶対に嫌だ。耐えられない。だけど体が動いてくれない。もはや指先一本動かすのも困難だ。


「────大丈夫。そこで大人しくしてろ」


 輝家は持っていた漫画雑誌を盾のように構える。そして闇雲に振り回されるカッターナイフの軌道に乗せるようにして、斬撃を受け止めた。


「……っ!」


 しかしそう簡単に攻撃を無力化できるわけではない。無茶苦茶な軌道を描く攻撃を正確に防ぐのは困難で、受けきれなかった斬撃が右腕をかすめ、血が飛び散る。

 その血を見た瞬間、美住の脳裏によぎったのはさっき見たばかりの夢だ。あれが今まさに、目の前で現実になろうとしている。


 美住は言うことを聞かない体に鞭を打ち、必死に手を伸ばして近くにあった物を掴んでは次々放り投げた。

 それはペットボトルやゼリーなどで、加えて美住の力が極めて弱まっていることもあり、投擲武器としての威力は皆無だ。しかし男の注意を逸らし、数秒ほど攻撃を中断させることはできた。


「いい加減に……しろ‼」


 そのタイミングで反撃に転じた輝家渾身の蹴りが、男の鳩尾に突き刺さる。


「────うぐっ」


 男は痛みに悶えてカッターナイフを手放し、腹部を抑えてうずくまった。その隙を待っていたかのように、店員が男に覆いかぶさる。

 しばらくはもがいていた男だったが、やがて観念したのか大人しくなった。これ以上隠し持っている武器もないようで、暴れ出す様子はない。


「……はぁ……はぁ……何とかなった……何なんだよ急に……」


 輝家は大きく肩で息をしながら、大粒の汗を拭った。人生最大の修羅場を今朝経験したばかりの彼だが、それがほんの数時間で更新されてしまった。


「幸助……怪我……早く治療しないと……!」

「大丈夫、そんなに深くないから。それより、お前は……また予知夢を見たのか。それで俺を助けに来てくれたんだな」

「……よかった。また未来が変わるなんて……君の幸運は本当にオカルトだよ……」

「いや、今のは運のおかげじゃない。お前のおかげだ。お前が来てくれなかったら俺は戦う勇気を振り絞れなかった」

「……勇気?」

「絶対失いたくない人が近くにいたんだ。ビビってる場合じゃないだろ」


 そのセリフを聞いた途端、ふっと全身から力が抜けていくような感覚に陥る。ついでに疲労や不安からも解放され、安心した美住は眠るように意識を失ったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る