第12話 頭のおかしい奴

 唐突にびしょ濡れにされ、散々なじられた挙句、何の説明もしてもらえないまま園田は走り去ってしまった。

 しかし眉間に深いシワを刻み、目を吊り上げ、喉から血が出そうなほどに絶叫し、俺を親の仇であるかのように睨みつけていた彼女を見れば、これが悪い冗談の類でないことぐらいはわかる。

 それに、教室には二十人ほど生徒がいるのに、誰一人として止めに入らなかったのもおかしい。まるで全員が賛同しているかのような、そんな空気感だ。押し潰されそうなほどのアウェー感、俺はまるで処刑台に立つ殺人鬼だった。


「なぁ、輝家。お前……噂は本当なのか?」


 呆然と立ち尽くす俺に、片足に包帯を巻いた工藤が近づいてきた。他の生徒は俺を取り囲むようにして一定の距離を保っている。


「……噂って?」


 とぼけているつもりはない。少し考えてみたが、やっぱり心当たりは思いつかなかった。しかし工藤には俺がはぐらかそうとしているようにでも見えたのか、露骨に不愉快そうな表情を浮かべつつ胸ぐらを掴んできた。


「だから! 多磨野先輩を突き飛ばしたって話だ! 昨日の放課後! ロードワークの途中で一人になったところを狙ったって、本当なのか⁉」

「突き飛ばした……? あ……そうか、そういう……ことか」


 ここでようやく合点がいった。なるほど、俺の想定は甘かったってことだ。変人扱いどころじゃない。こいつらにとってみれば、俺はもはや犯罪者も同然だった。


「おい、どうなんだよ。なんとか言ったらどうなんだ?」

「……確かに、俺は先輩を突き飛ばしたよ。でもあれは──」


 あれは──なんだ? 俺は何と説明するつもりなんだ?


「あれは……先輩を助けるために……」

「助ける? 何言ってんだ? いいか? よく聞けよ? お前が突き飛ばしたせいで多磨野先輩は右手首を捻って重傷だ。しばらくはボールも握れない」

「……は? 重傷? いや、俺は……」

「医者の見立てじゃ、全治三か月ってとこらしい。競技に復帰して、これまで通りの球を投げられるようになるには、もっとかかるはずだ」


 全治三か月。それを聞いて俺は少しだけ安心した。

 怪我をするという未来までは変えられなかったようだが、選手生命が断たれるほどの大怪我にはならなかったんだ。

 だったら俺の頑張りも無駄ではなかった。彼はこれから先の未来も、野球を続けていくことができるんだから。


「……おい、お前……なんで笑ってる?」


 工藤の右手に力がこもり、呼吸が苦しくなるほどに圧迫してくる。人の目がここまで憤怒に染まる瞬間を、俺は未だかつて見たことがない。


「お前……自分が何したかわかってるのか? 三か月野球できないってことは、最後の夏の大会には出られないってことだぞ⁉ プロを目指す先輩にとっては、夏の大会はただの思い出作りじゃない。重要なアピールの場だったんだよ。そこで活躍すりゃプロ球団から指名されたかもしれない。それだけのポテンシャルは絶対にあった。そのチャンスをお前がパーにしたんだ‼」


 工藤は俺の体を持ち上げると、背中から叩き落すように投げ飛ばした。怪我をした足で踏ん張りもきかないだろうに、凄まじい馬鹿力だ。その一撃には紛れもない殺気が込められていた。


「どういうつもりなんだよ。輝家、お前ってそんな奴だったのか? 前からいまいち空気読めない変わった奴だとは思ってたけど、こればっかりは本気で許せない。ちゃんと説明しろよ。なんでこんなことしたんだよ」

「…………ッ」


 背中に流れる鈍い痛みに耐えながら、俺は体を起こす。


 俺が何を語るか、クラス中の生徒が注目している。廊下の外には、他クラスの生徒まで一部集まっている。


 しかし残念ながら、彼らの期待に答えることはできない。それに、俺がこの窮地を脱する方法もない。

 予知夢の話をしても信じてもらえないことは、俺自身が実証している。そして予知夢を説明せずに、俺の行動の意図を説明することなど不可能だ。

 何か適当な理由をでっち上げてもいいが、野球部のエースであり学校のスター的存在でもある先輩を突き飛ばして、怪我をさせたとしても許される大義名分なんて思いつかない。


 どう足掻いても、これは詰みだ。俺の名誉を挽回する手段はもうない。どう言い訳しようが、何を主張しようが、俺は異常者そのものだ。水をかけられたり、投げ飛ばされたりしても文句は言えない。


 ……そういえば、こんな噂を聞いたことがある。三年の多磨野先輩は、一年の園田花枝と付き合っている。

 園田がなぜあれほど鬼気迫る怒り方をしていたのか気になっていたのだが、そういうことか。彼氏が頭のおかしい奴に怪我をさせられて、人生の岐路になり得る大勝負に挑むことさえできないとなれば、理性のたがが外れるほど憤慨するのも頷ける。


 にしても……なんでこのタイミングでそんなことを思い出すんだろう。俺はもっと必死になってやらなきゃならないことが他にあるだろうに。

 いや、そんなものありはしないか。俺に出来ることはもうない。これほどの悪評ともなれば、たった七十五日では消えることもなさそうだ。それっぽっちの時間では怪我も治らないらしいからな。


 誰が何と言おうと、俺は先輩を助けたんだ。未来を変えたんだ。一生野球できないはずだったのが、たった三ヶ月の怪我で済んだんだ。

 俺の選択は間違ってなかったはずだ。俺は正しかったはずだ。美住のことを信じてもいいはずだ。


「────お前、昨日あいつと一緒にいたらしいな」


 俯いたままの俺に呆れながら、工藤はボソリと言う。俺が何も語らないのなら、それ以外のところから欲しい答えを探してくるしかない。

 そこで工藤が思い当たったのは、校内での知名度に関しては多磨野先輩にも劣らないあの少女のことだ。


「ひょっとして、美住になにか言われたんじゃないのか? 多磨野先輩を怪我させろとか。あの頭のおかしい病気女のことだし、何をしてもおかしくない。お前、あいつに弱味でも握られて────」


 気づけば、俺は右拳を振り抜いていた。理由は自分にもわからない。それぐらい反射的な行動だった。

 全く予想だにしていなかったのだろう。工藤は俺の拳をもろに顔面で受け、近くの机を巻き込みながら5メートルほど吹き飛んでいった。

 ガタガタと大きな音を立てて机が倒れ、その騒音が周りを囲む生徒たちの不安を煽る。短い悲鳴が聞こえたり、逃げるように離れて行ったり、反応は様々だが、俺を見る目がさっきよりも厳しくなっていることは共通していた。


 あの目を俺は知っている。つい数日前まで、自分が美住に向けていた目だ。だから偉そうなことは言えない。けれど、我慢することもできなかった。


「一銭の得もないんだよ……お前ら助けたってなぁ! なのにあいつは、自分を犠牲にして頑張ってんだ! 意味なかったかもしれないけど、頑張ってたんだよ! それを……そんな風に言うな‼」


 意味が分からない。工藤含め、俺の叫びを聞いた連中の表情は例外なくそんな感じだった。


 そりゃそうだ。わかるはずもない。わかってもらうつもりで言ったわけでもない。ただ我慢できなかっただけ、言わずにはいられなかっただけだ。


「お前……何なんだよ。意味わかんねぇ……」


 直前まで怒りの頂点にいたはずの工藤も、俺の奇行を目の前にしてドン引きだ。もう反撃に出る気も起こらないのか、殴られた頬を擦って呆然としている。


 教室の空気はまさしく地獄だ。葬儀場だってここまでは冷えない。まるで時間が止まってしまったかのように、全員が硬直している。


 本当に痛々しい。自分の言動が、思考が、発想が、全てが見ていられない。俺は一体何をしているんだ。もう針のむしろどころじゃない。昨日までの学校とは全くの別世界に来てしまったみたいだ。


 今さらながら、俺は美住の言葉を思い出す。あいつは確かこう言ってた。


『これは人助けじゃない。それだけは勘違いしちゃ駄目だよ』


 あの言葉の意味を、俺はようやく理解した気がする。


 未来を変えても、誰かに感謝されるわけじゃない。結果としては何も起こらなかったのだから、救ったわけでもない。ただ、自分が周りの人間には理解されない奇行に及んだという事実だけが残る。

 こんなものを人助けと呼ぶわけがない。そんな恩着せがましいことを考えていたせいで、俺は失敗したんだ。


 もはや何もかも取り返しがつかない。全て終わりだ。


 俺は黙って教室を出た。いつの間にかとんでもない数の野次馬が教室の外に集まっていたが、俺が近づくだけで集団が割れて道ができた。

 それが今の俺の扱い。というより、今後の俺の扱いだ。触れてはいけない頭のおかしい奴。そんな不名誉な称号を、俺は手に入れてしまった。


 俺は中学時代、一度も早退したことはなかったし、遅刻や欠席もなかった。卒業式の日に皆勤賞を貰ったんだ。


 ただ、今日は早退した。ホームルーム前に帰ったので、書類上は欠席という扱いになるのかもしれない。何にせよ、俺はこの空気の中で学校生活を送れるようなメンタルを持ってはいなかった。

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