第11話 勘違い

 ────目が覚めたら俺は保健室のベッドの上で寝転がっていた。


 最初に感じたのは驚きだ。自分が病院にいないことに対しての驚きである。なにせ走っている車の前に飛び込んだのだ。普通ならタダで済むわけもない。

 これはひょっとしたら死んだかもしれないなんて思っていたのに、見たところ膝や肘を擦りむいたぐらいで、骨の一本も折れてはいない。


 軽傷で済んだのならそれは喜ばしいことなのだろうが、あれだけ迫真のダイブをかましておきながら、ただの擦り傷だけというのは、ちょっと気恥ずかしさのようなものがある。

 感覚としては、『ここは俺に任せて先に行け!』とか『もう一度だけ母さんの手料理が食べたかったな……』とか、そういう気障なことを言っておきながら平然と生還してしまったみたいな、そんな気分だ。


 しかもそれだけでは終わらない。聞くところによると、俺はどうやら全く持って無駄なことをしてしまったらしい。

 というのも、あの車はT字路に入る前にちゃんと停車したらしいのだ。つまりあのまま放置していても多磨野先輩とぶつかることはなく、事故は起こらなかったということになる。

 にも関わらず俺は一人で勝手に突っ込み、自分の体を地面に叩きつけ、轢かれたのだと思い込んで気絶したというわけだ。


 この説明を、俺は保健室の先生から聞いた。気絶した俺を美住がここまで運んでくれたようで、先生は美住の口から状況の説明を受けたとのことだ。

 俺の醜態を間近で見ていたはずの美住は、さぞ呆れていたことだろう。我ながらこの間抜けっぷりには笑いが込み上げてくる。こんなことならしばらく入院するぐらいの重傷を負っておきたかった。


 美住は俺をここに連れてきた後、経緯だけ説明して足早に帰ってしまったとのことだった。

 きっと、俺と顔を合わせるのが気まずかったんだろうな。あいつが俺の袖を掴んでいたのは、こうなることがわかっていたからか。


「はぁ……多磨野先輩にも見られただろうしなぁ……」


 美住に見られただけならいい。彼女なら事情も知っているし、ちょっと馬鹿にされたり笑われたりする程度で済む。しかし多磨野先輩にも見られているとなれば話は別だ。


 何の前触れもなく現れ、走って来る車の前に体を投げ出し、挙句の果てに地面を転がって気絶だ。もう笑うなという方が無理な話だろ。俺だったら大爆笑してるぞ。


 多磨野先輩が俺に気を遣って、誰にも言わずにおいてくれる可能性に賭けるしかないかな……あの人のことはよく知らないけど、校内随一の影響力を持っていることだけは確かだからな。

 友達は多いし、噂の拡散力も高そうだ。後輩の醜態を面白エピソードとして披露されたら、あっという間に俺は終わりだ。


 しかし誰にも言わないでくれというのも図々しい話か。先輩からしてみれば、ジョギング中に顔も知らない後輩からいきなり突き飛ばされたんだ。

 愚痴ぐらい言う権利はあるし、そうでなくとも合流が遅れた理由を他の野球部員に話さなくてはならないはず。


 いずれにせよ、明日には俺の名前は全校に広まっていることになるな。今まで無難に学校生活を送って来た俺だったが、ここに来てまさかこんなことになるとは。


 これで俺も変人の仲間入りというわけだ。うーん……一体どうすれば挽回できるかな……。何か言い訳を考えておかないと……。


「美住と組んだ時点で、遅かれ早かれいつかはこうなってたか。仕方ないよな。皆には理解できないことをしてるわけだし、変人扱いされるのは」


 そもそも、俺はなんで飛び込んだりなんてしたんだろう。俺はあんな無茶な行動を反射的に取れるほど、熱血的な男じゃなかったと思うんだけどなぁ。


 多磨野先輩を助けたいという気持ちは間違いなくあった。でも、それは義務感みたいなもので、言ってしまえば積極的な感情ではなかった。

 先輩のことは良く知らない。会話をしたこともない。目を合わせたことも一度たりともないし、野球をしている姿を見たことさえない。

 人を助けたいと考える善性くらいはあるが、知らない人を助けるために命を懸けられるだけの無鉄砲さを持ち合わせているわけではないんだ。だからあの時の俺の行動は、自分で振り返ってみても異常である。


 この役目を誰かに代わってもらうことができるなら迷わずそうしただろうし、やらなくていいと言われたらやらなかった。俺の動機は、怪我をする未来を知ってしまったのに何もしないのは後味が悪いから────これに尽きる。


 そう、たったそれだけの理由なんだ。他人の人生だとか、命だとか、そんなものに関わるのが何より苦手な俺にとっては、未来の改変なんて不得意中の不得意分野。魚を空に飛ばせようとするようなものだと言ってもいい。


 それでも俺が踏み出せた理由は……何なんだろう。そのせいで空回って、大恥をかいたわけだが、別に後悔はしていない。俺の中の大切な何かを守れた感覚はある。


 だから……あんまり考えないようにしよう。なるようになる! なんたって俺は運命に抗えるほどの幸運を持つ男!


 ────と、そんな感じで、長い長い自己反省会を保健室で執り行い、すっかり人の気配もなくなった夜道を一人でとぼとぼと歩いて帰った。


 帰った後で美住にメールを送ってみたが、返信は無し。先輩がその後どうなったのか確認しようと思ったのに、これでは何もわからない。


 何も連絡がないということは、無事に終わったということなんだろうが、あの車がT字路手前で止まったというのが少し気になる。

 俺が飛び出して行ったのは全く無駄な行為だった。しかし俺が何もしなければ未来は変わらなかったはずだ。だとすれば、未来はいつの時点で変わったのだろう。


 考えられるのは、俺があの場所に到着した時点で……という可能性だな。あの場所を見つけ出すのは一種の運要素ではあった。

 俺はここらの地理に詳しいが、美住の証言だけで100%絶対に場所を特定できるとまでは言えない。たまたま思い当たる場所があっただけであって、それはある意味運が良かったと捉えることもできる。


 ……ふむ、あんまり細かいことを考えても無駄だな。俺にはよくわからない。大前提として、予知夢だの幸運だの、そんな理解不能な超常現象を理解しようとすることには無理がある。

 考察してみるにしても、美住の意見も聞かなくては効率が悪い。俺一人だけで色々悩んでも意味はない。


 そんなことより俺が考えるべきなのは明日の学校だ。朝、教室に着いて扉を開けた時に、どんな挨拶をすべきなのか。

 クラスの皆は俺の醜態を知っているだろうか。知っていたとしてそれは何人? 全員か、あるいは野球部のメンバーだけか。工藤は口が軽そうだし、あいつが知っていれば全員知っているのと一緒みたいなものだろうけど、怪我で早退しているはずなのでまだ知らない可能性はある。


 だとしてもそれは時間の問題。俺の奇行はすぐに広まる。学校での居場所を守れるかどうかは初動が大事だ。


「……どうするのが正解なんだ。美住に聞いてみるか? いや、そういえば返事来ないんだった。ってかあいつに聞いてどうすんだ……」


 ────結局これといった答えは出ないまま、無情にも夜は更け、日は昇る。


 一晩ってこんなに早かったっけ。あれ、登校時間ってこんなに短かったっけ。結局何も思いついてないぞ……どうするんだよ。


 こういう時に限って、学校に辿り着くのが早いというのはよくある話だ。遅刻ギリギリの時は遠く感じるのに、考え事をしているときはあっという間に着いてしまう。

 とりあえず、今まで通りの学校生活は送れないだろうな。俺にできることはとにかく沈黙すること。人の噂も七十五日という。それだけ耐えれば、俺の悪評も払拭できるかもしれない。

 しかし高校生活における七十五日とは、もはや永遠に等しいほどの長期間だ。それだけの日数我慢しなければならないと思うと、ため息が出る。


 ────そんな酷く憂鬱な気分に浸りながら、俺は扉を開けた。


 教室に一歩踏み込んだ俺を出迎えたのは、バケツ一杯の冷や水だった。躊躇なくぶちまけられた大量の水は、避ける間もなく俺の全身を包み、鞄の中身まで含めて全てを水浸しにする。


 一体どんな目で見られるか、笑いものにされるか、距離を置かれるか、色々な反応を想定していたが、これはいくら何でも予想外だった。


「この……クズ野郎‼」


 バケツを持ち、顔を真っ赤にして怒号を飛ばすのは、園芸部の園田だ。彼女は持っていた空のバケツを俺に向かって投げ、さらに足元に置いてあった二杯目の水バケツを握りしめる。


「ふざけんな‼ ふざけんな‼ ふざけんなァ‼」


 全く状況が掴めず、一歩も動けないまま、俺はまたも水を被った。何が起きているかわからないが、一つだけ確かなのは園田の凶行を止める人がこのクラスには一人もいなかったということだ。

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