第5話/陽の輩

 ノウェルズの住まいは地上を離れて三階、集合住宅の一室である。

 外観は縦の長方形、外壁は街並みに馴染む白。窓枠を飾る彫り模様が洒落ていて、張り出たバルコニーの鉄柱と住民が使用する階段のみが黒い。

 扉の前に何者かが佇んでいた。黒の外套を着込み、長髪の毛先を肩で一つ結わえにした青年、ユゼリウスである。


「手紙、届けに来たぜ」


 ユゼリウスは職人の徒弟として工房を間借りしていたが、衣食住の世話を無償で受けているわけではなく、日雇いの仕事を請負って小銭を稼いでいる。

 彼は素朴な顔立ち、振る舞いには些か朴訥な節こそあれど、近隣住民の雑事を安く引き受け、しかも熱心で嘘の無い気性故に広く信頼されていた。

 フリーレンによってグレンツェ語の重要性が増したことでノウェルズは多忙を窮め、留守がちである。手紙や伝言をユゼリウスが預かり、定期的に彼女に届けているのだ。

 彼は合鍵を用いて扉を開く。手紙の束を置き、玄関口を振り返ったユゼリウスが眉を顰めた。


「あんた、顔色が悪い。また血を吐いたんじゃねえか」


ノウェルズは返答せずに背を向け、昇ってきたばかりの階段を再び降りていく。ユゼリウスは開けたばかりの扉を施錠してから、慌ててノウェルズの小さな背中を追う。


「どこ行くんだ。なに怒ってんだよ」

「貴方が馬車の事故に巻き込まれたと聞いた」


 ノウェルズが青ざめているのは合議における不調のためだが、当のユゼリウスの身を案じて血の気が引いた為でもある。

 午前中、凍礼祭で賑わう大通りにて騒ぎがあった。走行中の馬車の前を、老婆が横切ろうとしたのである。或いは、馭者が老婆に気付かず馬を走らせていたのかもしれない。馬車と老婆が接触する寸前、ユゼリウスが飛び出してこれを庇い、難を逃れたという。大通りに目撃者の多かったことからノウェルズの耳にも騒ぎが届いた。


「打撲や捻挫があれば、後から悪化することがある。まずは医師の診察を受け、数日は安静になさい」

「だからって、今すぐ医者にかからなくてもいいだろ。あんたが茶の一杯で俺を労るくらいしてくれたほうが、よっぽど元気になるかもしれなかったのに」

「悪化してから苦しむのは貴方です。馬車に乗ったら、あとはひとりで向かえるな。そこまでは送ろう」


 ユゼリウスは青年、ノウェルズはヒトでいえば少女期を脱してすぐの頃合いに見えるが、両者の精神年齢は一世代ほどの開きがある。ユゼリウスは成体になりたてでノウェルズはとうに成熟していた。そのためか、窘められると青年は極端に弱る。

 ユゼリウスはノウェルズの様子を伺っていたが、気まずさの尾を引きながらも救助した老婆について語り始めた。


「婆さんは無事だったけど、脚を挫いた。暫くは介助が要るし、俺が引き受けるつもりだ。しかし肝心の婆さんが泣くんだよ。それを、明日からどうすりゃいいか迷ってる」

「彼女の住所は何処だ。私が往診の手配をする」

「そうじゃねえ。怪我じゃなくて、せっかく助かったっていうのに婆さんが気落ちしたままでいるってことが問題なんだ」


歩幅が大きいにも関わらず、ユゼリウスが歩調を緩めてノウェルズに遅れた。数歩こそ彼の先を進んだものの、ノウェルズもまた速度を落とし、彼と並んで歩く。


「婆さんはあの通りで死んじまったほうがよかった、間違って生き延びたなんて言う」


 面識のない老婆の心境などノウェルズには推し量りようもないが、ユゼリウスが老婆の事故に過去を投影していることは明らかだ。

 馬車の横転事故で彼の両親は死亡、幼いユゼリウスだけが車外に投げ出された。現場に居合わたのがノウェルズで、それが出会いだ。彼女の保護と医師の治療を受けてユゼリウスは一命を取り留めた。後に彼は孤児院に引き取られ、本来ならばそこで縁が切れるはずであったが、成長したユゼリウスは今でもノウェルズを頻繁に訪ね、姉のように慕う。


「間違った生還とか、死ぬべきだとか、俺はすっげえ嫌なんだよ。なあ、ノウェルズ。婆さんをどう励ませばいいと思う?」

「さあ」


 ノウェルズはフリーレン出現による不安に駆られて老婆は心身を弱らせたのではと推測する。民の誰もが密かに抱いている恐怖であろう。あの巨大な氷の樹は何か、どんな害を、災厄を齎すのかと。

 恐怖と不安は研究者間にも広がっており、ノウェルズはグレンツェ語研究所内でのやりとりを思い出す。


「グレンツェ語の蘇生が呼び水となって氷の樹が出現し、我々は滅びの瀬戸際に立たされたのでは」

 

 フリーレンがグライブにどう影響を及ぼすかの裏付けを取っていくのだから所員といえども当惑するのは当然だ。

 その特質性により、グレンツェ語は発音が正しければ瞬時に現象を現す。研究所開設から十年、場所を選びつつ、凍気の猛りを頼りに発音を探る試行錯誤が繰り返されてきた。フリーレンに関わる全てについて断定するには時期尚早であり、これを解明するための一助としてグレンツェ語研究を急ぐべきだとノウェルズは職務的に答えた。答えたつもりでいた、というべきである。

 

「吸血種でないから、滅ぶ恐れもなく解読を続けられる。貴女が淫魔だから」

 

 所員が語ったのは亜種への不信。銀髪と赤い瞳は吸血種にとって異質である。出世してからというもの、社会的地位と所属する環境が特殊であるからか、ノウェルズが偏見を受ける機会は減少し、周囲に与える淫魔の印象を彼女は失念していた。

 有事の際には、上司であればこそ所員の不安を和らげ、研究所内の不和を回避すべきだったと今でこそ痛感している。しかし、助手が弱音を吐いた時のノウェルズは冷淡であった。


「不安なんです。本当に、みんな死んでしまうなんてことがあるのでしょうか?」

「我々が死んだとしても、研究は遺さねばなりません。恐ろしいのであれば、貴方は辞任なされば宜しい」


 この会話を経て、助手は本当に辞任したのである。肝心な時期に上司の失言によって研究所は優秀な所員を失ったのだ。愚かで手痛い失態を経験したばかりであるから、ノウェルズはユゼリウスの相談事を受けた際、どうにか寄り添おうと彼女なりに試みた。氷の大樹のせいでないとするならば、と前置きする。


「悲観的な彼女の傍らに貴方がいて、頷いて差し上げることが慰めにはなるでしょう。嘆きも、聞き手あってこそ打ち明けられるのですから」


 ユゼリウスは納得したらしく、笑みを覗かせる。


「俺も、お前に話しを聞いてもらいたかっただけかもしれねえ」


 彼は単純に喜びを表し、ノウェルズの言葉を鵜呑みにする。短所と気づきながらも過度に矯正しないのは、ノウェルズがユゼリウスの素朴さにしばしば感銘を受けるからだ。用心を仕込むことは十分に試したが、共に並んで歩く間に彼を変えることは難しいだろう。

 石畳の通りを歩くうち、街灯が灯り始める時刻を迎えていた。ノウェルズは捕まえた辻馬車にユゼリウスを押し込むと財布を取りだし、運賃を彼に握らせる。 ユゼリウスの治療費をノウェルズが負担すると断言すると、遠慮のために青年が身じろぐ。


「金の無心に来たわけじゃない」

「私は忙しく、蓄えの使い道も無い。貴方は気にせずともよろしい」

「せめて借金にしてくれ。金を受け取ることであんたと変な関係になりたくねぇんだ」

「貴方の精神性は私が熟知している。こんな時にこそ、助け合わずしてどうする」


 馬車の扉を閉じると、高い位置にある窓からユゼリウスが顔を出す。切実さを帯びた眼差しでノウェルズを捉えた。


「忙しいのはわかるが、あんたこそ医者にかかってくれよ。元気でいて、俺のことも安心させてくれ」


 淫魔の衰弱に効く薬は無い。回復の保障をすれば嘘になる。限りある誠実性からノウェルズはキルベンスとの一件を持ち出す。


「私は診察を受けたばかりだ。さあ、酷く冷える夜だから」


 お行き、との一言に促されるようにして、車輪と蹄の音が響く。ノウェルズは馬車の後ろ姿を見送り、石畳の通りを引き返す。

 帰路にあって突然に血の気が引き、手が痙攣した。性交を拒絶した淫魔は短命。受け止めたはずの事実は痙攣、発汗、頭痛などの諸症状として現れ、新鮮な冷たさでノウェルズに死を突きつける。身辺整理を済ませても、まだ死が恐ろしい。意思や精神、気分に限らず、真っ先に体が強ばり、生存と衰弱の反射がノウェルズの痩身で諍う。

 彼女は道端に寄って、深呼吸をした。症状が落ち着くのを待っていると、ユゼリウスと会うのは今夜が最後という気が起こる。未練は彼だけではない。グレンツェ語の仕組みが明らかとなれば、フリーレンのみならず、吸血種全体の歴史を照らす松明がひとつ増えることになろう。そのためには時間が必要で、ノウェルズの寿命では間に合わない。

 痙攣の治まらない手と手を堅く握り合わせ、押え付けながら夜道の片隅で耐え忍ぶ。気を静めようと懸命になるほど息苦しい。痙攣だけならまだしも、喀血の症状が現れてしまえば夜道であろうと目立つ。症状の波が緩むのに合わせて、女は帰路を弱々しく辿り始めた。

 角灯を持つ行先案内人を雇い、暗い道筋を照らしてもらうべきであったかもしれない。ノウェルズの歩みは自宅を目指すというよりは、死の暗がりから生の希望に縋り付くような道程であったため、必死でいる頭からは一時的に常識的な判断が欠落していた。引き換えに、兄の姿が走馬灯のように立ち現れる。

 合議で彼を見たからか。ノウェルズが離別を決意した当時の景色が脳裏に蘇る。十五年前、仲睦まじき兄妹としてクディッチの屋敷で過ごした終わりの日。

 室内に差し込む斜陽に恵まれ、兄は漆黒のピアノと共に輪郭を金に縁取られていた。ノウェルズがヴァイオリンの弦を構えたのは別れの餞別であると彼も意図を察したろう。

 演奏中でさえもノウェルズの下肢は潤みを湛える。兄に反応する体の狂いは淫魔の卑しさであろうか。熱の煩わしさの理由を追求し、自責し、言葉でやりとりしてしまえば、敬愛する兄は主義も感情もノウェルズのために譲るだろう。情に厚い彼を犠牲とせず、自己を腐らせないためには、理論づくで淫魔を測るよりも屋敷を出た方が価値的だと彼女は指針を定めていた。

 確かな心強さあってこそ愛を語らず、また語らせずして演奏に託す。零れた音が幾千の言葉を超越し、すべての解釈を許し、見えざる波間に彼等を包み、音流は皮膚より染みて暖かく芯へと至る。弦を下ろすと兄が苦笑した。

 

「お前ときたら、……はは」

 

 カリヴァルドがピアノ椅子から立ち上がる。ノウェルズが長じた分より高く兄が伸びるものだから、ふたりの背丈は頭ふたつぶん離れたまま、縮まった試しがない。

 

「どうしてピアノでなく、ヴァイオリンなんだ? それなら俺が教えてやれたのに」

 

 お揃いじゃないなんて、とでも続きそうな声が頭上より注がれ、抱き締められた。


「御兄様が初めに教えてくださった曲です。月想曲」


 わかっているとも、と彼が笑えば優しい振動が直に伝わり、兄の懐でノウェルズは目を閉じる。

 淫魔の性質にも、判定期にも、是非は問わない。異性愛と家族愛の境界を探り、無理やりな結論を引き出す必要もない。カリヴァルドの妹で在り続けたければ、潔く身を離して、魂だけを繋げて生きていけばよいのだ。陽は頭上に輝き、夜にあっては月が反射し、かの光は途絶えることがない。ノウェルズにとって兄こそは陽の輩。彼と幾度も交わした信頼の眼差しを思い出し、固めた拳の内側で意識しながら歩けば緊張が解けていく。集合住宅が見えてきた。黒い階段を登り、月に近付く三階へ。

 帰宅したノウェルズが後ろ手に扉を閉めようとした時、把手にかかったままの手が不意に引き摺られる。強風の悪戯と背後を振り返えると、佇立する影が月光を遮った。息を詰めたノウェルズは渾身の力で扉を閉めんと内側へ引くが、膂力に負けて扉が開き、影が敷居を跨ぐ。

 再会は、スムスを前にして完結したはず。雪原にまじないの鹿が崩れようとも、握手を交わした時に互いは大丈夫だと確信した。兄を信じられる喜びが喀血の度に失う生命力を蘇らせ、背筋を伸ばし続けていられた。そのはずなのに。

 

「花影にお隠しを、ノウェルズ」

 

 それは、シンメルの白い花弁が瞼を覆い、穏やかな眠りに誘うようにと祈りが込められたグライブにおける夜の挨拶。実兄たるカリヴァルドが微笑を浮かべ、ノウェルズの警戒を肯定した。妹の足元を照らす僅かな月光が削がれ、兄の背後で閉じゆく扉が二者と外界を隔絶する。夜に響く重い施錠音、兄妹の監獄が完成した。

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