第4話/夜へ

 書斎の窓辺に立つカリヴァルドは、背中でノックの音を聞いた。硝子越しに映りこんだ扉が許しを待たずして開く。

 入室してきたのは、カッツェ・ロートヒルデ子爵である。暖色系の派手な色で流行の型を着こなすのが彼流の主義で、今夜も黄色のジャケットを羽織っていた。笑顔が第一印象に残る朗らかな男で、カリヴァルドとは学生時代から付き合いがある。青い火の灯る手燭をカッツェが差し出した。


「君に、青の幸いがありますように」


 凍礼祭の期間中、寒さは和らぎ雹が降る。

 火が青く変色する理由は定かではないが、青い火を手燭に移し、親しい者に手渡すというまじないが民の間では主流で家僕も興じた。カリヴァルドがそうした遊びに交じることはないが、子爵でありながら好奇心旺盛なためか、カッツェは青い火を押し付けてくるのだ。

 カリヴァルドが手燭を受け取ると、入れ替わるようにして咥えていた煙草の先端が青に輝く。薄い唇からは苦笑と共に紫煙が漏れた。


「どうも吸いづらいね。せっかくの青い火だから、お前にあげようか」 

「そんなちんけな火、要らんわ」


 カッツェの金髪は後方に撫でつけられており、夜にも没さぬ陽が如くに輝く。長身故、大抵は頭頂部か額に話しかけねばならぬカリヴァルドの視点の高さに在って、彼の金髪は特に眩しい。

 カッツェの側を離れたカリヴァルドは、灰皿に影を落とすと、まだ十分な長さのある煙草を揉み消した。肘掛け椅子に腰掛け、遅れて咳き込む。体質に合わないのだ。それでも吸ってしまう。滔々と止まらぬ思考が咳によって途切れる、その一瞬の空白を気に入っているのかもしれない。

 カッツェが翡翠の双眸を眇めた。


「君さあ、妹ちゃんと会ったりした?」

「何故?」

「カリヴァルドが煙草吸いだしたんは妹ちゃんが出ていった頃。最近やらんなと思っとったのに急にまた吸っとるから」

「会ったよ」

「ノウェルズ、元気にしとった?」


 淫魔の詳しい生態を知らないカッツェが暢気に訊ね、カリヴァルドは穏和に頷く。


「元気だった」

「ほんまか」


 カリヴァルドとカッツェ、ノウェルズは昔馴染みであり、カッツェがノウェルズの不在を寂しく思い、健康を喜んだことは、僅かな表情の和らぎからも充分に見て取れた。

 グライブにおける爵位は種族性管理と深く絡みあい、公的な場であるほどカリヴァルドの家格が目立ち、子爵たるカッツェは種族性管理に関与しない。しかし、ふたりきりになると彼等はよく笑い合い、互いの表情に注目した。


「僕の弟もこないだ手紙送ってきてんけどな。定期で近況報告くらい出来へんのかっちゅうねん」


 カッツェには年の離れた弟がいるがカリヴァルドとの面識は無い。誕生には祝の言葉を伝えたが、あまり過度な接触を持つべきでないと考えたのだ。

 クディッチとロートヒルデの間には、カッツェの知らない確執がある。カッツェの父、ビンギスがカリヴァルドの父、エヒトを殺害したのだ。ロートヒルデ親子は父の仇といえた。

 カッツェにわざわざ真実を知らせて笑顔を陰らせずとも、彼を斬りつけることなら何時でも実行出来る。その気がとんと起きない、というだけだ。要するに、カリヴァルドは取り返しがつかない深さの友愛をカッツェとの間に築いてしまっていた。

 書斎机の引き出しの中にはビンギス・ロートヒルデから受け取った手紙が仕舞われており、病に臥せっていて、近々会いたいという。友は何も知らされていないらしく、カッツェから父親の話は出なかった。


「せやけど、中央図書館の崩落は魂消たなあ」


 暖炉傍の肘掛け椅子、カリヴァルドと差し向かいの位置に腰を下ろして、カッツェが話題を移す。

 リーベンの招集を受け、最もリーベン公爵邸に近い別邸に移ったカリヴァルドであるが、彼の治める領地に聳え立つ本邸から空を仰いだとて、フリーレンの存在感は失われまい。夜に見る氷の大樹は、根に相当する範囲は藍にクリームを垂らしたような雲が広がったまま、時間帯により形を変えても離散することがなかった。


「負傷者が無くて、何よりだ」


 フリーレン直下に建つのは、巨大な図書館である。

 図書館とは各地に点在し、種々の公的手続きを担う複合施設。職員の全ては司書として統括されるが、彼等の仕事は蔵書を離れて多岐に渡る。供血の支給手続きと管理、行政事務を常駐する司書が行い、特に地位の高いものは歴史家としての側面を担い、司書の一等、紫書官と呼ぶ。

 紫書官は首都に置かれた中央図書館にのみ在籍した。フリーレンの欠片が降り注いだのは、この中央図書館の中庭である。

 フリーレン出現後は隔離域とされ、敷地内への侵入は禁じられていた。司書は別所に移り業務を継続しているが、カッツェが到着するより早く、蔵書を案じた司書が数名、現場に駆けつけていた。


「天の枝が落下し、地に触れた瞬間、周囲一帯が凍りました」


 庭園で育てられていた薔薇は、姿そのままを留めたまま、鮮やかに凍っている。


「破片は?」


 問うカッツェの爪先が、下草を踏む。氷菓子を咀嚼するような、哀れな音をたてて草が罅割れた。


「肝心の破片は形を喪ってしまいました。溶けるというより風に粒子が攫われるような消え方で、何も回収出来ていません」


 氷漬けの庭園はまるで硝子か、その脆さをいうならば飴細工で仕上げられたかのようだ。ここに同胞のひとりでも巻き込まれていたならば、不幸な氷像もまた、触れた途端に砕け散るであろうことは想像に難くない。

 カッツェが顎を反らせた頭上では、絡み合う枝が視界を覆う。樹皮は氷に似て白濁しており、芯に水が通ってみえる。雪を待ち構えるように片手を差し伸べると、偽りの水面が掌に乗った。外壁や柱、カッツェ自身が立つ足元にも、透けた光と戯れ、模様を変えて揺らぐ水面が目に付く。体温を根こそぎ奪う寒さの中、確かにカッツェの息は白い。だというのに、水膜の張ったような、或いは生き物の胎内に収まっている錯覚を彼は覚えた。

 カッツェは伯爵からの指示を受けて現場に向かったことで午後を潰されて、クディッチへの訪問は夜になったのだという。


「廊下まで薄氷が張っとったわ。フリーレンてのはリーベン様が決めはったん?」

「言語学者としての見地から、ノウェルズが石版に準じた仮称をと」

「僕んちの弟も司書やから、部下としてノウェルズと面識あったらおもろいなあ」


 カッツェが、微睡むように笑む。懐かしい記憶へと心が舵を取り始めたのだろう。喉の奥に感傷を留めたままカッツェはクディッチ邸を去り、彼に代わって過去を言葉にしたのは女中であった。


「僭越ながらお声かけをお許し下さい。ノウェルズ様は屋敷にお戻りになりますでしょうか?」


 図書室の長椅子に寛ぎ、カリヴァルドは茶器の用意を頼んでいたのだが、支度を整えたのはドリスという娘だ。身分差に緊張して先の続かない彼女にカリヴァルドは頷く。


「いや、戻るまい。新しい部屋は必要無いよ。仕事が忙しいのだ、活躍している」


 最後の一言に、ドリスは励まされたらしい。


「ノウェルズ様は伯爵家にいらした頃から立派でした。勿論、旦那様も」


「私もか? 昔はよく君を困らせた」


 ヘッドドレスに金の巻き毛を詰め込んだ女中、ドリス。彼女はかつてヴィルベリーツァ伯爵家に仕えていたが、カリヴァルドが引き抜いてクディッチ家に連れてきた。以後は女中頭に次ぐ権限を与え、重用している。

 幼き日の兄妹は伯爵家に身を寄せていた時期があり、ドリスは小さなノウェルズの側付きであった。彼女達には絆が結ばれて見えたし、淫魔への知識も理解もないなかでドリスは献身的に尽くしてくれた。


「妹君をお任せ頂けたことは、この身の喜びでございます。どれも大切な思い出です」

「そうだね」


 過去を共有する存在の最たるものは家族、血縁だ。どこへ行き、誰と話せど、後から追いきたって肩を掴まれる。血痕のように転々と、或いは鎖のように巻き付き、歩む先へと引き摺らねばならない。

 カリヴァルドとノウェルズが兄妹ながらに独特の緊張感を内包しているのは、アーベル・クディッチとヴィーケ・クディッチが姦通した故のこと。アーベルとヴィーケは兄妹でありながら交わり、ノウェルズを産んだ。吸血種の近親姦で淫魔が生まれるのだ。

 カリヴァルドには叔父のアーベルが何を考えて母のヴィーケと通じたか甚だ疑問だが、彼等の内情に構う気力は既に失せている。 彼は非常に忙しい立場であるし、両親の咎で損害を最も大きく被ったのはノウェルズだ。

 兄がクディッチ家の権威を復活させたように、妹は紫書官として大成した。親から子、先代より続く泥濘の道は離別の十五年を経て、カリヴァルドとノウェルズの世代で絶たれた。そうと確信したが故に、ノウェルズは合議の直前、渾身の力でカリヴァルドの手を握り、信頼を示したのだろう。

 カリヴァルドが息を詰めると、主の変調に応えるかの如く暖炉の火が盛んに燃えた。

 先代、エヒトが管理していた頃は陰るばかりであった屋敷と領地を再興し、当代の主を得たクディッチの邸宅は最盛期、それ以上の絢爛さを帯びて、燭台が隅々までを明るく照らしている。

 紫水晶を嵌めたようなカリヴァルドの双眸が曙光の輝きに潤み、光が滑り落ちた。涙だ。暖炉の光を受けながら彼は落涙する。吸血種が供血者の顔を知ることはない、探すことも。だが、その死を必ず感知した。

 吸血種、特に貴族階級は料理に混ぜて血液を摂取する。小瓶に収めた血を邸内の料理長に預けて、火を通さないソースや飲み物に混ぜ入れて糧とするのだ。

 食事の際、誰もが指輪に口付けてヒト種への感謝を捧げる。そうした習慣から、カリヴァルドはごく自然な仕草で薬指に口付けた。

 長い寿命のなかで吸血種は短命の供血者を替えながら命を繋ぐ。それでも尚、面識の無いヒト種の死期を悟ると理屈を超えた悲しみが去来した。同胞の誰もが覚えのある感傷で、それ故に涙を堪える術がない。

 

「この時に逝ってしまうとは」

 

 火にくべて弔いとするために、指輪は決まって木製である。カリヴァルドは目元を拭って立ち上がると、死者への感謝と共に指輪を外し、暖炉へと投げ入れた。火の揺らぎに飲まれ、輪状の絆が形を喪う。

 

「ありがとう」


 彼の感謝は喪失とは異なる響きをしていた。暖炉を睥睨する双眸は火を反射して暁を帯びているが、灯っていながらにして昏い。

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