第3話/淫魔

 カリヴァルドが馬車に乗り込み、遠ざかりゆく車輪の響きが届いたか、リーベン邸内に横たえられたノウェルズが瞼を震わせる。寝台に肘を立てて半身を起こすと、視野の端に控えていた女中が介助しようと肩に触れた。


「結構です」


 ノウェルズは生来の体質から身体的接触を嫌う。介添えを拒絶された客間女中は背筋を正すも、眼差しは変わらずに優しい。


「承知いたしました。クディッチ様のリボンはこちらに」


 女中の白い手が枕元を指し、畳まれたリボンに気づいたノウェルズは薄い胸を起伏させる。安堵したのだ。

 

「宜しければ結ばせて頂きますが」


 控えめな申し出。喀血で汚された絨毯の染みを誰が片付けるかといえば、彼女達なのだ。


「お願いします」


 思い直したノウェルズに女中はスカートの裾を摘んで礼を返し、三つ編みを整える作業に取り掛かった。

 女中の方では銀髪に触れることは初めてであり、実のところはやや緊張していた。銀の髪は皮膚のうえを滑り、逃れ、水が編めないのと同じで意図せず零れる。手古摺るあまりに熱中する女中の側を、白い点が横切っていく。

 山形の軌跡を描いて飛ぶのは白い蜂、ハルモニだ。白く豊かな襟巻きで膨らんだ姿は、空飛ぶ毛玉の様である。ハルモニは尻だけが黒く、艶と尖りを帯びているが針はない。

 これに気付いたノウェルズが赤い瞳で行方を追うと、小さな蜂は宙を泳いだ先で白衣の背にしがみつく。キルベンスが折よく持ち出していた往診鞄を閉じたところであり、医師としての深刻な面持ちで振り返った。

 

「質問がある。私生活に踏み込むが構わないかね」

 

 ノウェルズが頷くと、彼は当たり障りない質問を経て本題へと移る。


「貴女は純潔かね」

「はい」

「前提の確認をしよう。淫魔とは牙を持たず、血ではなく精液を糧に生きる」

 

 吸血種が二親等内で近親相姦を侵すと、淫魔が生まれる。必ず赤い瞳を備え、銀と赤を発色しない吸血種の中では目立つうえ、銀髪は染料を受け付けない。

 成長過程において、この種には判定期という時期がある。吸血種でいうところの第二次性徴に等しく、体液、及び精液を得るに相応しい相手を選び出す時期なのだが、これは恋に似ている。

 愛した唯ひとりに抱かれれば三桁を生きる吸血種と同等の年数を生きるが、判定期を超えて交接が無ければ三十年程度で息絶える。ノウェルズは純潔のまま判定期を過ぎており、既に寿命を迎えていた。

 

「明日に死んでもおかしくはない状態だ。性質を了解済の衰弱かな」

「はい。私の死後に支障のない様、紫書官の引き継ぎは整えてあります」

「そうか。私は白蜂、貴女はグレンツェ語。専門は異なれども、同じ研究職という点で共通する」

 

 日向のような柔らかさで親しげに微笑み、キルベンスは寝台の側に肘掛椅子を寄せて腰掛けた。一旦は離れたハルモニが、彼の片眼鏡の淵に止まる。虫が視界を遮っても、キルベンスは金の瞳をレンズ越しに細めるばかり。

 

「クディッチ紫書官。僕は貴女の覚悟と功績を尊敬します。停滞していたグレンツェ語の解析を貴女が進めた」

 

 話者がなく、史料となり得るのは五枚の石版のみという厳しい条件のなか、ノウェルズは言語学者に匙を投げられて久しいこれに辛抱強く取り組んだ末に、グレンツェ語と分類した。

 言語の歴史に生じた音変化、形態変化を比較、類推し、研究の一環として発話を試みた途端、凍気が猛り、巨大な氷塊が宙で凝固し、飛来した。視認不可とされる凍気とグレンツェ語の音素は密接な関わりを持ち、グレンツェ語研究の深度が一定に達すると研究者は必然的に命の危険に晒される。

 過去の学者が研究から手を引く理由の一端を理解したノウェルズは、凍気の猛り――凍障を以て、グレンツェ語の歴史的価値と他分野への影響とを周囲に説き、研究所の開設が実現したのである。

 

「グレンツェ語研究に貢献できたことは私の誇りです」

「なればこそ、亡くすに惜しい。貴女には是非、恋をして欲しかった」

 

 心から惜しむ様子で、キルベンスが無念そうに続ける。

 

「最近になって、追肥となる淫魔にも質の違いがあると判明しました。貴女が充分に愛された淫魔であったならば、一体の死体でシンメルを回復させることが出来たかもしれない。花園を維持すべく、大量の淫魔を殺す手間も省ける」

 

 キルベンスの言うシンメルとは、リーベン公爵邸のみで栽培される特別な花の名である。この屋敷は中央に庭園を擁し、シンメルの花園を囲う形で建てられた要塞だ。

 シンメルの唯一の送粉者が白蜂であり、白蜂が生成する化合物を血液に混ぜることで、吸血種達はヒト種より供血された血の長期保存を可能としている。

 吸血種と根源的に深く結びついているシンメルは衰弱傾向にあり、回復させるための追肥となり得るのが淫魔の遺骸であった。淫魔を殺し、遺骸を加工し、花園に散布する。

 淫魔は一世代限りであるため吸血種の交配相手とはならず、淫魔の数が増えると吸血種は衰退するので無闇に相姦を繰り返すわけにはいかない。しかし全く淫魔が絶えては、弱ったシンメルと共に吸血種は滅ぶ。公爵達の懸念する同胞の死とはフリーレンに限ったものでなく、シンメルを軸とする種族性、その限界を危ぶんでのことだ。カリヴァルドが決断を急くのもこうした背景の上であった。

 現在公爵と呼ばれるのはリーベン、クディッチ、キルベンスのみ。爵位のなかでも特殊な分岐を経てこの三家は確立され、政治と密接な繋がりを持ちながら独自の執行機関として機能している。花と蜂の連携は吸血種達の生命線、公爵等はこれを管理、保護する重責を担い、種族性管理という役割として一括りにされていた。

 

「私の遺骸はクディッチの当主が処理するでしょう」

 

 淫魔を殺すのはクディッチ公爵の家業であったが、カリヴァルドが爵位を継いでからは一度も成されていない。それどころか彼は淫魔の妹に市民権を与えた。ノウェルズは吸血種と肩を並べて名門ヴィレンスアクト学園を卒業、紫書官にまで昇進。彼女の半生は兄の尽力によって開かれたのである。


「……しかし、キルベンス様が私の遺体に関心があるのであれば、花園に散布する前に解剖してくださって構いません」

「なんと喜ばしいことだろう。純潔のまま貴女ほど長生きした淫魔の前例はごく僅か。早速ですが、承諾書を用意しても?」


 キルベンスの双眸は蜂蜜色に輝き、期待に満ちている。

 

「勿論。後世にお役立て下さい」


 医師免許を持ちながらキルベンスがハルモニの研究へと転身した事実は、ノウェルズには適切と思われた。患者に対する彼の態度は倫理観的に問題がある。

 薪の割れる乾いた音に、二者は暖炉を見た。室内を暖めていた火が揺らぎ、不意に青く変色する。雹の降り注ぐ頃には、燭台や暖炉の火にこうした現象が多々起こるのだ。

 

「出来ました」

 

 奮闘を続けていた女中は、達成感に頬を染めていた。彼女が身を引くと、ノウェルズの左耳の傍で輪上にした三つ編みが揺れ、青いリボンで結ばれていた。

 幼きノウェルズは踵のつかない高い椅子に座り、鏡越しに少年期の兄の、それでも大きく見えた手が細かな作業を素早くやってのける様を楽しい心持ちで眺めていたものだ。頭頂部から毛先に流れる銀の川は、カリヴァルドが磨き続けた輝きであり、今はノウェルズ自身が劣化させないよう維持している。片側に編んだリボンは滑り落ちてしまわない秘訣があり、手入れの仕上げといえた。女中に礼を述べて、ノウェルズは寝台を離れる。

 部屋の高さは二階。正面には別棟の壁が聳え、グライブの街もフリーレンも見通せない。

 窓を開けると雹の降り頻る音が鮮明となり、冷えた窓枠に触れていたノウェルズの手を、降り込んできた雹が直撃した。亜種であろうとも、グライブに満ちたる冷気が味方をするのは吸血種のみ。

 眼下に広がるのは中庭、一面を埋める純白の花園。上向きに咲く花弁はヴェールに似て端が波打ち、やや透ける。土を掠る長さの花弁が茎の傍で絡み合い、白のドレスを纏う貴婦人の姿にも、襤褸に脚を取られる痩せた女にも似ていた。

 あの白を支えるのは、生まれて間もなく殺された淫魔達の遺骸。クディッチ屋敷に眠る断頭台で胴と首を次々と分断し、流された血と肉。グライブでこれ以上に美しく、生に直結した墓地は他に無い。

 ノウェルズの側を、ハルモニがすり抜けた。銀髪の隙間を縫って遊んでいた蜂は、本懐を思い出すようにシンメルの花園へと降りていく。蜂に生まれついたからには、雹を掻い潜ってでも花の元へ馳せ参じるのだろう。その小さき背に彼女は学ぶ。為すべきことを成した先では、死もまた受け入れるべきものとなるはずだ。

 陽が昇り、月が沈み、新しい朝が来る。生を祝すに似た自然さで───できる限り、そのように。

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