第6話/皆既蝕

 家族愛か異性愛か、心を置き去りとした肉欲か。答えの出ない問いだ。

 カリヴァルドは妹の煩悶に早期から気づいていたが、ノウェルズの態度が頑なさを増すのを親離れと受け止め、距離をとることは成長の証左と解釈した。淫魔の欲情を無いものとして振る舞う妹の姿に、彼もまた親の自覚を強め、揺らぐ己を律したのだ。過干渉となってノウェルズの可能性を潰すよりは、豊かな未来を望めるはずだと期待した。あの頃はまだ、と付け加えなければならないが。

 屋内に導となる光源は無かったが、両者の目は闇に慣れていた。非情なる気配を色濃くした兄と、相手の出方を計りつつも抵抗の意志を固めている妹の顔とを、双方に見分ける。


「お前は潔癖で狭量だ。ノウェルズ」


 第三の道が開かれる可能性は、極限まで磨り減っている。残されているのはカリヴァルドが引き続き兄としての面目を保って妹を看取るか、淫魔に選ばれた唯一として妹を辱めるかの二択。

 彼は一歩で距離を詰めた。妹の胸倉を力任せに掴みあげると、壁に叩き付ける。弾みでノウェルズが後頭部を打ち、風を孕んだ銀髪が一拍遅れで彼女の肩と胸とに舞い降りた。


「性交渉、それだけを割り切れば溢れるほどの可能性は満ちているのに、お前は死を選ぶのか」


 力ずくで吊り上げるに従い、ノウェルズは爪先立つことを強いられて、暴れる両脚からは靴が脱げ落ちた。


「寿命と心得て、先に望むものはありません」


 気道を圧迫される苦痛に顔を顰めながら、ノウェルズが掠れ声で言う。


「餓死を選んでおきながら、何が寿命なものか。俺は、お前を死なせるために手放したわけではない」


 胸倉を掴み上げたまま俯き、妹と額を合わせる。グレンツェ語研究の保管庫たる額は小さく狭い。睫毛の触れ合う近距離で、視界はあらゆる輪郭を喪う。

 相対する兄と妹の間には、良心による十五年の歳月も、相互に建築した理性による卓子も存在しない。体格差による弊害で互いの胸が離れ、兄の影に妹が飲まれる。或いは、陽と月が重なる皆既蝕のように。カリヴァルドが鼻先を重ねると、ノウェルズは嫌悪も露わに顔を背けた。


「私の生涯だ。終わり方も私が決め、」


 ノウェルズが絞り出した語尾が喀血の濁音に飲まれる。カリヴァルドは小さな顎を捉えて固定すると、血を恐れずして赤く濡れた唇に舌を這わせた。粘膜の触れ合う音を嫌って藻掻く女を壁との隙間に挟み、角度を変え、妹の口腔に満ちたる血を呻きごと啜る。

 吸血種が血を嚥下する際、一対としての契約が結ばれる。他者の血液を誤飲すれば死に至り、故に文字通りの運命共同体となる。吸血種が数として供血者を消費しないのはまさにこの点にあった。彼等は供血者の影が伸びるところ常に傍らに在り、生涯に添うのである。


「……、…っ」


 カリヴァルドは絡ませた舌でノウェルズの絶望を捉え、返礼として唾液を流し込む。襟を離して床に踵が着くのを許す代わりに、片手で素早く彼女の鼻と口とを覆った。


「飲み干せ」


 酸素不足による反射的な嚥下を認めて、妹から手を離す。支えを失い、ノウェルズが膝をついた。淫魔の飢えが四肢を弱らせ、唾液に感化されて虚脱したのだろう。カリヴァルドが共に目線を下げたところへ、妹が頼りなく倒れ込む。


「私と貴方が築いた地位、周囲との絆、一切の努力、全てを侮辱する下劣なる行為。誰が救われましょう」


 ノウェルズはカリヴァルドの胸の暗がりに顔を埋め、兄の体液を得た過剰反応に呼吸を浅くしながら、正道へ戻れと糺す。


「自らとは何者であるかを思い出して下さい。貴方は近親姦の被害者だったはず」


 少年時代は確かに近親姦の被害者で、親の都合に振り回された哀れな子供であったろう。だが成長しきった今のカリヴァルドは何を取捨選択すべきかの判断力と、状況を変えていく能動性、社会的地位とを有する。その力の向かう先が、何処であろうとも。


「俺達は、秘密を共有できる。いや、すべき立場にある」


 被害者と加害者から共犯に持ち込んでカリヴァルドが微笑むと、妹は顔を引き攣らせた。


「生きていれば良いという価値観は、私には肯定でなく否定です」

「お前の思想を侮辱する気はないが、自死は認めない」


 カリヴァルドの声音は、酷薄なほどの冷静さで乱れない。殆ど完全といえる理解の橋を渡していながら、深い断絶を挟んで立つ。


「身近な者の死に耐性が低く、情の深いことは吸血種の特徴。貴方方は愛に弱り、判断を誤る」


 ノウェルズは感情論に見切りをつけたのだろう、種族性を持ち出す。

 グライブの歴史は大別して二つに分けられる。壁の設立以前と、以後である。以前の吸血種達が直接ヒト種の社会と交わっていた時代、供血は相互同意の下に行われる愛情行為に似ていた。短命なるヒト種の後を追って自害する吸血種は戦死した数を上回る。物理的に離れなければ、全体数を維持出来ずに滅び去ったことだろう。

 グライブを外部と隔てる壁は、ヒト種との愛情で身を亡ぼす吸血種を救い、同胞間での繁殖を促す目的もあったのだ。そうした歴史と性質を、彼女は指している。

 

「誰に情を傾けるか選ぶくらいは出来るさ。お前も、そうして俺を選んだはずだ」


 彼女は答えない。その喉を何が塞いでいるかといえば、兄への思慕という石だ。消化もできず、しかし吐き出さない。自己完結で済ませ、頑迷に兄を睨む。


「我々が寄り添ったところで何になりましょう」

「何に、だって?」


 ふと、カリヴァルドが声を綻ばせたのに対し、女が身を強張らせる。拒絶を繰り返す喉へと指を這わせ、恐れることはないと目で嗤ってやる。

 貴族家に生まれたがため、カリヴァルドははじめの記憶から社会構成員としての責任と自意識とが一体化していた。屋敷を軸とする生活圏、クディッチの系譜が縦軸に貫き、横幅に広げた盤石なる家格を保持し、責任を果たせねばならぬと。それだけに、生涯の建築の見通しが親の姦通罪にて崩れた時には、天が落ちてきたかの如き苦痛、無力感に苛まれ、惨め極まりない心境に陥った。恐ろしく高い自尊心により死にたいとも叫べず生きたいとも言えなかった彼の視界は、ノウェルズとの出逢いによって眩くも拡張され、道が開けたのである。全てを失くしても、まだ妹がいる。いとけない子供を守るために、一度は折れかけた膝を伸ばし、兄としての決意によって立ち上がることが出来た。カリヴァルドの世界は滅亡を免れ、再生の道を見出したのである。愛すれば応えてくれる者がいる世界、愛されることを知る自分へと。ノウェルズへの敬愛と真心から、彼は積み上げてきた概念を反転させる。妹と同じ血に濡れ、契約を交わした唇で。


「愛しているよ、ノウェルズ」


 独善的で、嗤うほど意味を蔑ろにしながら言葉ばかりが美しい。ノウェルズが、泥でも塗られたように相貌を歪ませた。


「それは、貴方が過去に軽蔑したもの。私が学んだ愛情とは違う」


 カリヴァルドは妹の切実さを駄々に貶める、殊更優しい顔つきをしてみせる。


「では、生きて憎め」


 妹の痩身を横抱きにする。寝台に影を落とし、白く波打つ敷布の上にノウェルズを横たえると、無残で清らかな香りが漂う。花束を散らしたような、懐かしくも嗅ぎ慣れた淫魔の体臭。シンメルの芳香。

 カリヴァルドは外套を脱ぎ、椅子の背凭れに預けた。部屋に不相応なほど美しい椅子と机は紫書官、或いは言語学者としての聖域であろう。身動ぎ出来ない妹を睥睨しながら、彼は手袋を外してタイを解き、取り外した袖口と襟のカフスを書斎机の上に転がす。

 寝台の上、ノウェルズの背で広がる銀髪は扇状に広がり、月の水面に彼女を浮かべていた。軽装となったカリヴァルドは広い背で女を覆うと、頬に手を遣りながら身を屈める。


「私達は」


 唯一の武器たる舌で、肉体に封じられた妹の魂が叫ぶ。救いを求める訳にはいかぬ懸命さが混じり入り、音程を乱した。


「私達は、家族でしょう」


 裏切ってくれるなという響きに感情を摩擦され、カリヴァルドは怒りによって彼女の真剣さを打ち返す。


「家族だからだ」


 血縁関係に驕ったいつかの甘言とは異なる、彼自身の胸中を由来とする言葉で。


「性交をすれば忽ち縁が切れるのか、男女として再生するか? 違う、侵しても家族だ。新しい苦悩の形になるだけ、しかし死ぬよりはずっとましだ。生に苦しみは付き物、些事だ」


 ノウェルズが目に見えて絶句する。崇高さを旨とするこの女は、かつての大義名分なくして立ち行かないカリヴァルドに教育されたのだから、当然であろう。


「淫魔の気質はお前の咎ではない。一滴の汚濁も許さないお前の潔癖さが、自らを死に追いやっている。愛情とは、生かすものだ」


 彼我の腹腔を掻き回しあって罵らずにおけないのは、感情に直結した情熱が彼にもあるからだ。浅薄な自己犠牲なぞではない。彼女が終ぞ自己肯定感を持ち得なかった深部へと、彼は告げる。


「他者を許すように自らをも赦せ、ノウェルズ」


 最も苦しい時、無力な時、少年のカリヴァルドに博愛など根付く余裕はなかった。幼き妹を愛した訳ではなく、彼女が弱く子供で、カリヴァルドしか頼れない弱い存在だから、心の支えに出来たのだ。それは弱者保護の崇高さであると同時に、子供に思考力のあることを期待しない傲慢さとが合わさったものであった。この妹は兄の驕りに気付かないほど愚鈍ではない。ノウェルズがカリヴァルドを愛する始まりには、彼女の精神性を一度ならず軽視し、時には無視した兄の傲慢さを許す寛容さがあったはず。少年時代の彼はノウェルズに未熟さを許され、深く愛された最初の者である。そのおおらかなる慈愛を今こそ自身に向けて和らげよとカリヴァルドは願ったが、妹の決意は岩より硬く、優しさと慈悲を通す隙間も無い。


「全てを赦す貴方のお考えは私の対極。分別というものをお忘れであるならば畜生と同じ。貴方は私の兄などではない」

「結構だ、偏狭な正しさなど捨ててやる。唾液で喀血も止まったな? その調子で怒鳴れ、破瓜の痛みも紛れるだろうよ」


 耳朶で囁き、吐息で女の首筋を擽る。生娘が獲物の自覚に震えたところで、皮膚に舌を這わせた。浮いた冷や汗は、香りと相俟って茎を伝う夜露のよう。カリヴァルドには行為を先に進めるべき理屈や事情のみならず、明確な感情がある、怒りだ。

 兄と絶縁しようとも、せめて外に愛する者を探し出す意欲を持って妹は過ごしていると信じていた。実際は、この女に結婚の誓いなどするつもりはなく、墓に収まる支度を早々と整えていただけ。それはカリヴァルドにとって度し難い裏切りであり、妹の気質からは最も順当で、最悪の予想だ。

 胸や腕が掠る度、反抗に力むノウェルズの緊張が伝わるが、目端で捉えた彼女の腕は敷布の上を動かない。ノウェルズが食いしばる口元の硬さをせせら笑い、胸元に手をかける。


「まともに食事も採れていないのか。最も、肝心な栄養素を拒否し続けた弊害であるかもしれないが」


 骨と皮の有様を危ぶんでいたカリヴァルドであったが、組み敷いたノウェルズは贅肉の一切ない、彫刻めいた均衡を保っていた。未成熟な少年に通ずるか細い四肢。骨は硝子かと想像させる蒼白い肌。

 窓枠の影が、兄妹の上を歪みながら這う。肘を曲げさせて肩の高さに彼女の手を置き、近々新しい指輪を嵌めることとなる筋張った左手の指を絡ませた。


「清貧を極めた後で飽食に投げ込まれれば、痩せ我慢の仕方も忘れよう」


 十五年も死の恐怖に抗った身だ。擦り切れたはずの精神に堕落せよと舌で唆し、カリヴァルドは女の怒りと恐れを飴玉に変える。死を見据え、覚悟を重ねた妹の気性からして、この先に伸びる屈辱的な生は受け入れ難いことであろう。肉を持たざる部位に傷をつけるためには、心に深く根付いた媒介がなくてはならない。愛であるならば覿面の剣だ。世で尊ばれている通り、最も深くノウェルズの深部に至り、精神を貫通し得よう。それをカリヴァルドは持っている。


「楽にしてやる」


 内情とは裏腹に、彼の行動は限りなく憎悪に似通う。カリヴァルドは片手で妹の首を掴むと、強く締め上げて気道を圧迫した。


「い、」


 裂かれた衣服を無残にまとわりつかせたノウェルズが苦痛に喘ぎ、拭われることのない唾液が頬から耳へと垂れていく。形ばかりに繋いだ妹の掌が汗ばむのを感じながら、カリヴァルドはノウェルズの首に回した手に一層の力を込める。筋肉の筋が浮き、甲に血管が走る。女の唇が酸欠に戦慄き、紫がかって変色していく。


「ぇげ、ぁっ」


 生命の危機にあっても、ノウェルズの四肢は垂れたまま。絶えないシンメルの芳香の中、無抵抗を強いられて痙攣する女の紅玉が、やや上方に逸れる。意識を失う寸前に、カリヴァルドは絞殺の姿勢を解いた。生死の境界線へ無理やり押しあげられた妹は、手を放した途端、剥き出しの胸部を大きく上下させて酸素を取り込む。その油断を突いて、目的を遂げた。

重心の動きに伴い、寝台が軋む。 妹の涙は生理的な衝撃によるものか、懊悩の現れか。なればこそと、カリヴァルドは切実に思う。彼女の精神性に光を見るほど失くすのがあまりに惜しく、寂しく、悲しく、尽くせる手を全て尽くしたい。ノウェルズが引き寄せるまでもなく死は必ず訪れる。存在の結末として約束された死の摂理。この時限まで何ができるかと考え続けた半生だった。

世から孤立した幼き妹は、かつて血を水だと言い、家族とは何かとカリヴァルドに疑問を投げた。少年時代の彼は、この問いに答えられなかった。家族とは同じ囲いに暮らす集合か。違う、それでは足りないと今ならば答えてやれる。自らの何を分け与えても当然と思える存在こそが家族だ。血に因らず、心と時によってのみ育まれる実感が、あらゆる危機を前に自分と同等の一部として救わねばおかぬという激しい衝動と責任感を伴う想いとが。シンメルの供物になど誰がしてやるものか。カリヴァルドの心を反射し、共鳴した片割れを維持したいという望みは、負傷した腹から臓腑が漏れ出ないよう傷を抑えるのと同等の切実さだ。

 言語学者たるノウェルズを生かす理由はいくらでも数えられる。だが、今のカリヴァルドにそうした正当性を並べる必要は無い。心から愛した相手に一秒でも長く生きていてほしい。他に理由は要らない、ノウェルズが決して容認できないのは当然だ。彼女が彼女だからこそ死を選ぶように、カリヴァルドも彼であるからこそ、これほどまでに妹の死を厭う。今ではない、まだその時には早すぎるのだと。


「決して、貴方を赦しはしない」


 組み敷いた女が憎悪の眼差しでカリヴァルドを照らす。尊厳性を粉微塵に砕かれながら、自分の傷より相手を糾弾する闘志と怒りを喪わない。雲に隠れ、翳ってみせたところで必ずカリヴァルドを惹き付ける月の眷属、その満ちたる美しさ。


「どうぞ」


 カリヴァルドは満月に通じる後頭部を片手で掬いあげ、かつては手入れを欠かさなかった銀髪を五指で掴むと、手網代わりに引く。女の紅玉の眼差しが諦観に濁らずして敵意に澄み、開花した憎悪が宿る。熱に溶けることなく冷やかに冴えたる瞳、獣に近しい縦長の瞳孔。

 憤怒の形相を鑑賞しながら、カリヴァルドは華奢な女の肉体を揺すった。体位を変えて膝上に乗せたとき、腕のなかのノウェルズが厭うように身を捩る。覚えたてのように拙い抵抗を見守る心地を、風切り音が断つ。

 そこまでの体力を取り戻せていないだろうに、ノウェルズは枕元の棚に置かれた花瓶の口に指を引っ掛け、カリヴァルドの側頭部目掛けて振りかぶったのだ。直撃する寸前、万が一にも妹を床に落としては受け身も取れまいという躊躇いから、カリヴァルドの動作は遅れた。花瓶は彼の耳の側で凄まじい音を炸裂させて、破片を散らす。前髪から顎にかけて血が伝い、衝撃の余韻に頭の中で大鐘を揺らすような痛みが響く。砕けた花瓶の本体が、重い音で転がった。


「抵抗する体力が戻って嬉しいよ。俺も甲斐があったというものだ」


 女を無理矢理に抱き寄せると、拒絶に筋を浮かせた首筋へと牙を突き立てる。吸血種は牙を用いず、望むこともない。だが、カリヴァルドは真珠色の牙を妹の肉に埋めた。

 この瞬間、二種の閃めきが彼に走った。第一に、牙を用いた血の啜り方。先端には小さな穴があり、妹の血液が自身の内腑へと染みていくのを実感する。太く、新しい血管と神経が体内に通ったかのようだ。

第二に、妹の中に埋めた屹立より根深いところ、種族的な意味の縛りを得たのだと、供血者の死を悟るに似た自然さで理解した。血の凝固は牙の作用により皮膚下で防がれ、滑らかにカリヴァルドの喉へと滑り込む。


「……、」


 はじめての吸血。加減を誤り、飲みすぎたと気付いて顔を離す。僅かな吸着を覚えて牙が抜けた。ノウェルズの白い首には穴が二つ空いており、外傷としてはそこまでだ。むしろ、カリヴァルドの頭部から流れ続けている流血の方がより酷く、肩を赤く湿らせている。

 吸血された影響か、妹は取り戻したばかりの威勢を欠いて、力無く俯いた。かといって休ませてやる訳にはいかない。妹の爪先が頻繁に突っ張り、敷布を皺だらけにした頃、カリヴァルドは女を拘束する腕を解いた。ようやくか、と息を吐く。額の流血が止まった代わりに、彼の顎を汗が伝っていく。ベストをいつ脱いだか記憶になく、シャツにも熱気が籠っていた。


「……おや。忠告してやったというのに、この子ときたら」


 情交に湿った前髪を、彼は掻き上げる。全身を体液で濡らしたノウェルズは、意識を失っていた。

カリヴァルドは棚の上に置かれている水差しから洗面器に水を移すと、拝借したタオルを濡らして妹の裸身を拭う。彼女の首には吸血痕が二点と、首を絞めたときの痣のみで、他に外傷はない。蒼白かった肌には夜目にも仄かな血色が浮きあがり、いくらか健康体に見えた。

 清めた体を寝台に横たえさせて掛布で守り、足元の花瓶を適当に靴で端へ寄せる。ふらついた女が足裏に傷を作ってはいけないと思い直し、床を片付けてやってからその場を離れた。浴室を借りて残滓を流し、寝台の傍へと戻る。

 妹の意識は戻らぬまま、寝姿は変わらない。机の傍から椅子を移して座り、カリヴァルドはノウェルズの銀髪を指で梳く。敷布に散る銀糸を束ねて三つ編みに纏め上げ、黙々と集中した。丁寧に洗い、乾かしておいた青いリボンを側頭部で結んで仕上げとする。

 上着に袖を通して部屋を出た。強制的であるが、新しく交わした血の契約が彼女の生を保障するであろう。確信を得ていながらも心細い。だからといって朝まで見張る時間的余裕は無い。額の傷に階段を降りる振動と外気の冷たさが響き、痛みを通して妹を想った。

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