11 「浮気か」




 夢を見て、シェノンは飛び起きた。

 気分が悪く、吐いた。


「いつぶりかな、これだけ酷いのは」


 横になる気にもなれず、シェノンは落ちるように椅子に座った。

 レナルドが聖教会へと発ち、四日が経った。

 レナルドがいないのにレインズ邸へ帰るのも変な話なのでシェノンは自宅へ戻ってきていたが、魔術は使わず、眠らずに過ごそうとしていた。

 しかしながら四日も不眠ではさすがに眠気がすごい。ちょっと横になろうと思った結果がこれだ。


「眠気だけの体の不調じゃないなぁ……」


 先日から引き受けはじめた瘴気と呪いの影響が出始めている。さすがに軽々引き受けすぎただろうか。本来瘴気が人体に及ぼす不調ではない。体の拒絶反応だ。

 喉がからからで水差しの方を見るが、吐き気がして動く気にもなれない。


「我ながら、便利な魔術を作ってたんだなぁ」


 ぼんやりと室内を眺めていると、ふと、水差しの近くの花瓶が目につく。

 そういえば八年振りに目覚めたとき、あそこに見慣れない花がなかっただろうか。白く、星のように咲いた花びら。

 あれは、結局誰が持ってきたものだったのだろう。

 そのままぼーっとしていると、眠気で頭が揺らいで、シェノンは慌てて頭を振る。


「……はー眠気ってこんなに厄介だったっけ」


 大きなため息をついて、シェノンは暇潰しに研究室に行くため立ち上がった。



 *



 窓を開け放した研究室に、風が吹く。

 気分の悪さも少しは緩和されるだろうと開けているが、心地いいくらいの風なので、眠気が刺激されるのは良くない。

 昨夜から研究室に籠っているが、窓の外は暗く、また夜を迎えていた。


「調子はどうだ」

「問題ない」


 本日、研究室を訪れたのはエトだ。今ラザル・フロストが来ようものなら叩き出す自信がある。


「本当か?」


 エトが疑わしげな声を出したので、苦笑を浮かべて作業に一区切りつけて振り向く。


「何かあったのか?」

「ベルフェ、どうしてここにいるの?」


 振り返ると、訪問者はもう一人いた。やあ、と手をひらひらと振ってくる。

 ベルフェは魔術師の資格を持っているが、王弟として政務に携わっており、彼は普段名乗る肩書に魔術師は使用しない。

 そのため魔術城に立ち入ることはまずない。間接的に用事はあっても、直接ベルフェが来る必要はないからだ。


「ここ数日帰ってこないから」

「それは私の家は、あなたの家じゃないから」


 最近毎日帰宅先がレインズ家になっていたのは、レナルドがいたからだ。


「レナルドがいない間に、一緒に晩酌でもしようかと思っていたのに」

「あー……今酒飲むと寝そうだから遠慮する。レナルドがいるときにも誘って」

「シェノンをとるとレナルドが拗ねる」

「それだけ聞くと完全に子供に対する理由だよね」


 シェノンはふっと笑うが、ベルフェは気がかりそうにする。


「疲れた顔をしているよ」

「少し、眠っていないからかな。分かる?」

「何と言うか、見るからに」


 疲れた様子を見せたつもりはないのだけれど。

 不思議に思っていると、ベルフェはエトとちらりと視線を交わし合った。


「とりあえず腹に何か入れろ。ろくに食べていないのだろう」


 エトがおそらく軽食が入った紙袋を置くので、シェノンは思わず笑う。


「出会った頃みたいなことをするね」

「あの頃は賢者長から面倒を見ろと言われていたから面倒を見ていただけだ」


 七歳のときに、十七歳のエトと出会った。

 互いに外見はさておき内面は歳相応ではなかったが、生き方が大層投げやりだったシェノンの賢者の先輩としてエトは色々面倒を見てくれた。


「私はケーキと花を。リラックス効果がある香りだよ」

「ケーキはともかく花ってお見舞いみたいだね」

「ソフィーからだよ」

「ありがとうって言っておいて」


 持ってきたものを食べるまで二人が待ちそうなので、シェノンは二人にお茶を淹れることにした。

 部屋の隅でお茶を作って戻ると、ベルフェがどこから調達してきたのか花を花瓶に挿していた。その白い花びらを見て、目覚めたときに部屋にあった花が頭に過る。


「ねえ、ベルフェ。私が寝ている間、私の部屋に来た?」

「いいや。魔術トラップをしかけてるんだろう? シェノンがしかけている魔術を避けていくような腕はないからね」


 エトやベルフェといった、家に来る可能性のある友人には魔術トラップのことを言ってあり、立ち入ろうとしないはずだ。

 だからシェノンは「そうだよね」と納得してから、「じゃああの花本当に誰?」とぼやいた。

 ベルフェが不思議そうにしたので、シェノンは目覚めたときに花瓶に活けてあった花のことを話した。


「もしかしてレナルドじゃないか? 行っていたとしたら、レナルドくらいだと思うから。トラップの件はかかるのも解くのも駄目だって言っておいたけど、何とかしていたようだね。さすが私の息子」


 レナルドが家のトラップを一時的に無効化したと言っていたことを思い出した。先日だけではなくて、眠っている期間にも入ってきていたということか。


「レナルドが花を?」

「そういえば、おまえが今回目覚めた日、レナルドが落としていった花を片づけたな」


 エトの言葉に、今度はその日の記憶が呼び起こされる。

 あの日はレナルドと再会してから色々起こり過ぎて細かなことが頭から吹き飛んでいたが、確かに。再会したとき、レナルドが白い花束を持っていた気がする……。


「なんで花?」

「赤い薔薇ならプロポーズの定番だけどね」

「寝てる間にプロポーズされてたら怖すぎる。幸いそもそも花は白かったし、たぶん薔薇じゃないから違うと思う」

「じゃあ単なるお見舞いかなあ?」

「誰? 私の魔術での眠っている期間が病気だって伝えたの」


 レナルドに教えたとすれば、繋がりからして第一候補がベルフェ、第二候補がエトだ。

 じろりと二人を見ると、二人は揃って首を横に振ったので「だよね」と言うしかない。

 じゃあ、どうして……。


「シェノン、茶が零れているぞ」

「え? ああ……」


 考え事をしていたら、手元が疎かになって、盛大にお茶をズボンに零していた。


「何かしてないと眠い」


 眠気とはこんなに厄介なものだったと、二十数年眠気を感じない魔術を使用して生きていたものだから、人間初心者みたいなことを思うはめになっている。

 お茶を飲むのをやめてカップを置くが、エトが持ってきてくれたサンドイッチを手に取っても落としそうだ。


「とりあえず魔術をかけ直したいんだけど、二人共何か案ない? どうやったらこの状態が解消されると思う?」


 手首の腕輪を示すとベルフェが「趣味のいい腕輪に変わったね」とか言うので「用途が悪趣味だから相殺されてるね」と言ってやった。

 そしてエトはというと。


「自分で考えろ」

「頭がろくに働かない。レナルドが戻るまでに考えて」


 正直、瘴気や呪いを引き受けてからシェノンにそんな余裕はなかった。


「分かりやすく眠気で知能が下がっているな。人工聖遺物はどうした?」

「まだ分からない。そもそも他の魔術師が作るより私が作れる可能性が低いことに思い至った」

「扱うものが聖王の祝福だからか」

「そう。で、私は魔王の祝福を受けているから根本から無理難題になりそう」

「そうか…………」


 沈黙が続く。続く。続く。


「え、解決策なし? 一生このまま?」

「一生ということはないだろう。壊そうと思えば壊せるのだろう? どうして壊さない? 魔術もかければいいだろう」

「エト、今の状態でこの腕輪を壊しても、魔術をかけ直してもレナルドがなかったことにする」


 実際そう言われたのだ。魔術をかけ直せば解いてもらう、解かないなら自分が解くと。

 腕輪に関しては直接的なことは言われていないが、こんな腕輪をつけている状態では知れている。


「やるなら国外逃亡までがセットなんだけど」

「国外逃亡はやめた方がいい。レナルドは地の果てまで追うと思うぞ」

「ベルフェ、あなたの息子だからね」


 ベルフェは真顔で冗談抜きと分かるので、シェノンは小さくため息をつく。


「本当、八年関わりがなかったなら、忘れるなり疎遠になったっていいはずなのに。レナルドはその間学院に通い始めて多くの人と関わり始めたはずだから余計に」

「その前の六年、シェノンがレナルドに与えたものがそれほど計り知れないということだ。眠ったことをきっかけに、得難い存在がより得難い存在になった。それだけの話だよ」


 穏やかな笑顔で言うベルフェに、シェノンはまっすぐに視線を向ける。

 レナルドがいない場で、この友人に今一度問うておかなければならない。


「ベルフェ、レナルドの未来は輝かしいものになるはず。でも私の存在はレナルドの──あなたの息子に陰を落とすくらいの影響力を持ってしまっている。親として本当にいいの?」

「私の息子が望むのなら」

「私関係のことで人に危害を加える可能性が実証されてる点は?」

「善良な人に怪我を負わせることはないよ。でもまあ、やり過ぎは良くないね」


 レナルドの学院時代、レナルドが重傷を負わせた理由を示し、相手の生徒は善良ではなかったと暗に言うではないか。

 微笑んで言うが目がどことなく冷ややかなベルフェの様子に、この親があってあの子ありだとは、神官親子のみならずレインズ親子にも言える。


「シェノンに対するレナルドの態度は、レナルドにその気がある限り続くはずだ。そして少なくとも私とソフィーはそれを止めようとは思えない」

「どうして」

「あの子が、シェノンを好きだから」

「私の意志がない」

「どうしても? 少しも可能性はない?」

「ない。受け入れることはない」


 いや、違う。


「……受け入れられない」


 シェノンは疲労のせいか眠気のせいか──重い気分のせいか、今にも閉じそうな目で床を見つめる。


「好き、ってなに。私には、その感情は呪いみたいなもの」


 小さく、口の中でシェノンは呟く。

 昨夜見たばかりの悪夢がちらつく。脳裏に、瞼の裏に。耳に。


「私は、たぶん──いや、とにかくその道はない」


 シェノンは深く息をつき、顔を上げる。


「その気がある限り、か。そうだよね、レナルドに私と話し合う気がないならそっちから攻めるしかないよね……」

「あまり軽卒に動くなよ。返ってくる先は自分だぞ」

「嫌なこと言わないでよ、エト。さっき腕輪壊せるだろとか言ってたくせに」

「やると言うならその前に警告はしていた」

「そうやってエトがレナルドの行いをほぼ静観してるの意外なんだけど、どうして?」

「……少し、責任を感じているだけだ」

「責任? 誰に? 何の?」


 エトは黙って目をそらしてしまった。珍しい。いよいよ気になる。


「苦労をかけるな、シェノン」

「いいよ、ベルフェ。あなたもあなたでそこまでレナルドの行動を静観してるのも意外だけど」


 ベルフェもまたただ微笑むばかりだが、「そうか?」などと言ってこないということは自覚があるのだ。

 どうやら、二人とも何か訳があるらしい。弱みでも握られているの?とでも勘繰りたくなる。


「……まあいいよ。私はレナルドが嫌いなわけじゃない。……だから、嫌いになる前に前みたいに戻れたらいいなぁ」


 自分は、ずっとこうして生きてきたのだから、今更それを変えるつもりはないし変える理由もない。自分の身に最適な生き方をしてきた。

 シェノンの呟きに、二人の友は複雑そうな表情をした。


「ところでエトに頼み事があるんだけど」

「レナルドには何も働きかけないぞ」


 頑なだなあと笑ってしまいながら、眠気で重い頭をふらりと揺らし、シェノンは首をかしげる。


「今日一緒に寝ない?」

「──」


 エトが盛大にむせた。


「大丈夫? 水飲む?」


 水差しを手に取り、エトの前のテーブルに置いてやるが、エトはそれに目もくれずシェノンを凝視する。


「いきなり何を言い出す。気が触れたか? 眠気か? 眠気だな?」

「眠気も相当きてるけど、おかしくなったわけじゃない。エト、聖王の祝福の欠片を受けてるよね?」


 エトは魔術師としての才があり、また賢者であることから王宮の魔術城に属しているが、神官にもなろうと思えばなれる資質を持っているのだ。


「ちょっと確かめたいことあるの」

「何を」


 と、固い声で問いただしてきたのは、友人二人のどちらでもなかった。

 扉が開き、無断で入ってきた者がいた。


「浮気か」


 しかめっ面のレナルドが立っていた。


「よりによって第一位と? 父さんと?」


 レナルドは室内にいる上司と自らの父をじろりと睥睨する。


「戻ってきて第一声、第二声、第三声がそれ? 前も言ったけど、私とあなたが付き合ってない限り浮気なんて起こりようがないんだけど、それはそうとしてエトかベルフェと浮気っていうのは中々の字面ね」


 シェノンは呆れた笑いを浮かべ、それから、


「──やっと帰って来た」


 レナルドが聖教会へ発って、五日。

 レナルドが戻るまでにしておきたいことがあったはずが、溜まった疲れのせいでそう溢したシェノンを、レナルドが即座に見た。


「座れば? お茶飲む? 小腹空いてるなら今ならベルフェが持ってきたケーキがある……レナルド?」


 カップを棚からとってこようと立ち上がったところで、シェノンは正面から距離を詰めてきたレナルドに抱きしめられた。

 こんな風に軽い抱擁ではなく、抱きしめられるのは初めてだった。同じベッドで寝たときに抱きしめられていたが、横になっていたため目線はそれほど変わらなかった。

 立っている状態ではレナルドの方がすっかり背が高いので、半ば覆い被さられている状態で戸惑う。


「シェノン、よく休め」

「レナルドも帰ってきたから今日はうちに帰って来るね。明日また朝食で」

「エト? ベルフェ?」


 レナルドの体で見えない間に、エトとベルフェがさっさと去っていく物音だけが聞こえた。最後に扉が閉まる。

 友人二人が去ってしまったことで、この状況に自分だけで対処することが決まって、シェノンは遠い目をする。


「レナルド、離して」

「嫌だ。それより何話してた」


 最近のレナルドの嫌だは厄介なので、シェノンは小さくため息をつく。

 しかしレナルドの腕の中でじわじわと感じる体温と、押し付けられた胸から伝わる心音に、どうしてか抵抗する気力が湧いてこず、安心感にも似た感覚を抱く。

 瘴気と呪いを引き受け、昨夜悪夢を見てから強張っていた部分が緩んでいくような。

 その感覚に理性が危機感を覚えながらも、それを眠気と疲労が上書きしていく。


「暇なんだって話」

「一緒に寝るって聞こえた」

「……どこから聞いてたの?」

「俺に聞かれるとまずい話か」


 この聞き方では、それより前までは聞いていなさそうだ。レナルドが聞いていたら即何らかの反応があってもいいだろう。

 シェノンは何となく、これまでの行動から推測する。


「他にはあなたにつけられてる『これ』はどうやったら外されるのかなっていうのと、あなたの陰口」


 軽く腕輪がある方の腕を挙げると、頭の上に乗せられていたらしいレナルドの頭が離れた。

 顔が見えるようになって、すぐ近くで見るレナルドが珍しくもどことなく疲労が表れた顔をしていると気がついた。まるで、レナルドもまた寝ていなかったような。

 レナルドは、シェノンの腕をとって腕輪を撫でていた。


「ぴったりだな。最初はシェノンに似合うように髪か瞳の色に合わせようとしたけど、結局俺の色にした。俺のものだっていう印にしたくて」

「……用途だけじゃなくて見た目も趣味悪かったよベルフェ」


 道理で既視感のある色の組み合わせだと思っていた。


「『これ』が外れる条件を知りたいなら、『シェノンが俺のものになってくれたら』だ。陰口っていうのはどんな。シェノンが話す俺の陰口に興味はある」

「心当たりくらいあるでしょ」

「ないな」

「よく言う」


 これだけ人の行動を制限しておいて、本当に面の皮が厚い。

 シェノンはレナルドの手から自分の手を取り戻す。レナルドは名残惜しそうにしながらも、首を傾げた。


「で、本題だ。一緒に寝るっていう発言の弁明は?」

「検証。私が夢を見ずに寝られるのは、レナルド以外にもエトでもいけるのか。その基準探し。エトは聖王の祝福の欠片の力を持ってる。神官にもなれるような資質を持ってるからね」

「シェノン」


 名前を呼んだ声は、警告する響きを孕んでいた。レナルドの表情から、感情が薄れる。


「発つ前に言ったよな。俺以外の奴と寝たら俺がそいつの存在を消すって」

「…………」

「シェノンも人間の添い寝を試すつもりはないって感じのこと言ってたよな」

「…………エトは良くない?」

「良くない」 


 正直忘れていたので、どうにかエトだけど?という方向で乗り切ろうと思ったら即刻切り捨てられた。


「俺は、誰であれシェノンに触れてほしくない。俺が誰よりもシェノンの側にいたい。シェノンを俺のものにしたい」


 ──『私のものになれ、シェノン』

 記憶の中にある声が、夢よりも鮮明に聞こえた気がしたのは、『それ』の影響と言われる瘴気や呪いをこの身に取り込んで処理しているからか。シェノンはわずかに瞠目した。


「……レナルド、」


 その言葉が、『あいつ』とどう違うのか分からない。いや、レナルドが同じであるはずがないと思いたがっている自分はいる。聖王の祝福を受けた正反対の存在だから? それとも『好き』だと言うから? でもその『好き』さえ、疑ってかかっている自分がいる。


 八年。

 ディランが、レナルドが学院時代の謹慎中にシェノンを待っていると聞いたと言った。謹慎が原因の事件が起こったのはおそらくレナルドが学院二年目のとき。シェノンが眠って二年目でもある。

 ──どうして待てたの。私はあなたを好きにはなれないのに。私のことを知らないからじゃないの?

 どうしようもない自己嫌悪が、シェノンの頭と胸中を埋め尽くす。


「シェノン」


 手が頬を撫でる感触がした。

 息がかかって、シェノンは反射的に瞬いて、意識が目の前から離れていたと自覚した。


「なに」

「今度から、俺の顔見つめて無言で十秒経ったらキスするからな」

「なん、でそうなるの」

「キスしたくなるから」

「…………あぶない、言われた側から引っかかるところだった」


 単に言葉が出てこなかったのだが、言われたばかりの状態に陥るところだった。罠か。

 シェノンがさっと目を逸らすと、顎に手をかけられて強制的に目を合わせられた。


「ちょっと卑怯じゃない?」

「黙ってなければいいだろ。さっきなんか言いかけてなかったか」

「さっき? ……ああ、あなたが寝不足みたいな顔してるから意味分からないって言おうとした」

「本当に?」


 本当に嫌に鋭いが、シェノンは眠気で思考がほぼ止まっているのもあって堂々と言いきってやる。


「私と違って悪夢なんて見ないでしょ」

「……そうだな。帰ろう。寝てないだろ」

「別にそれほど支障はなかった」


 シェノンが知らばっくれてそう言いながらも研究室用の白衣を脱ぐと、レナルドは「それは嘘だろ」と言い切ってきた。

 これは鋭いどころではない。なぜ確信を得た様子なのか。シェノンが怪訝に思って口を開く前に、レナルドの指が振り向いたシェノンの目の下をなぞるように撫でた。


「くまが出来てる」

「──だからか」


 疲れた様子を見せたつもりはなかったのに、ベルフェが「何と言うか、見るからに」と言ってエトと視線を交わしていた謎が解けた。

 言って行ってよ。とっくにこの場を去った二人をシェノンは恨めしく思う。


「ああ眠いのは眠いに決まってるでしょ。当たり前でしょ。もう五日なんだけど? 私に魔術をかけさせない責任もってよね。昨日なんて──」


 昨日なんてうたた寝してひどい目に遭ったと口が滑りかけて、さすがに口を閉じる。

 自分と寝るありがたみを感じると思えば、いい機会だとか言っていたレナルドはさぞご満悦かと思いきや、


「知ってる……悪かった」


 再び抱きしめられてシェノンは戸惑った。

 謝る声は気のせいでなければ、なぜだかすごく後悔しているようで、レナルドの表情は抱きしめられているせいで見えなかった。








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