黒い福寿草・後編上
「――驚くな。少々厄介なことになった」
小晴を驚かせて初子たちに不審に思われないよう前置きして、ヤイチが続ける。
「寮の初子の部屋の前に黒い福寿草が落ちた。それを、初子と同じ班の者が目撃した。寮監へ届けようとしたところその手の中で消え去り、怯えている」
いつかは知られると思っていたが、昨日の今日で二つ目が落ちるのは予想外だ。まして、手に持って消えてしまったとなると、怯えるのも当然だろう。
寮監の元へ届けようとしたくらいだから、内々で済ませるつもりだったのかもしれない。周囲に触れ回るとは考えにくいが、怯えているとなれば友人が心配して聞き出す事態もありえる。
初子が黒い福寿草を受け取ったことが明るみに出る。交友関係の変化も起こるだろう。
見たくない光景が訪れる予感に、小晴は静かにため息を吐く。
ますます、早めにこの呪いの動機を解明したい。
それに、少し気がかりなことも……。
ふと、小晴の手元に影が差す。
「小晴さん、そろそろ教室へ向かいましょう」
初子が小晴の手元を窺いながら楽しそうに言う。この顔が曇るのは見たくないと思いつつ、小晴は普段通りの笑顔を偽って立ち上がった。
ヤイチが花壇から声を掛けてくる。
「我は下級生の方を観察しよう。なに、黒い福寿草を受け取ったとて、孤立するとは限ら――」
「そういえば、初子さんと薫さんはこの学校からの付き合いなんですか?」
ヤイチの言葉を遮っての小晴の質問に、初子と薫が顔を見合わせる。二人にはヤイチの声が聞こえていないが、なかなか唐突な質問に聞こえたことだろう。
ヤイチが小晴を仰ぎ見て、尻尾を一振り、二振りしてから目を細める。
「あい分かった。受け取った者だけでなく、それともっとも親しい者を観察しよう」
意図を理解したヤイチが足元を駆け抜けていく。
小晴は花籠を持って初子と薫に並び、質問の答えを聞く。
「初子とはこの学校で知り合ったんだよ。小晴さんは最初から個室だから知らないと思うけど、下級生は二人で一部屋でね。初子は同室だ」
「初日から一晩お話して、最初の授業を二人とも居眠りしたのですごく怒られましたね」
「後にも先にも、先生方に怒られたのはあれきりだよ。いまとなってはいい思い出、というと怒られるかもしれないけれど」
「つまり、薫さんとは苦楽を共にした仲です」
「こらこら、いい感じにまとめないの」
楽しそうに花を咲かせる二人の思い出話を聞きながら、小晴はそれとなく薫を観察していた。
華道の授業に使う教室は座敷になっていた。畳が敷かれたその教室にはすでに同級生たちが揃っている。けれども、空気感が午前とは異なっていた。
初子と薫も空気の変化を敏感に察したのか、困惑しながら空いていた座布団へ向かった。初子は何が起きたのかを朧気に理解し、顔を曇らせている。
小晴は、申し訳なさそうに初子をちらほらとみている班員を見つけた。ヤイチからの事前情報がなければ気に留めなかっただろう。その子の周囲に班員が集まっている。
普段であれば、初子と薫が教室に来ると同時に集まって和気あいあいと話し始めるはずだが、班員たちは動かない。いな、動けないのか。
十中八九、黒い福寿草の話が同級生全員に伝わっている。
薫が教室を見回して、初子に声をかけた。
「なにか、変な空気だね。準備中に何かあったのかな」
その時、班員の一人が立ち上がってこちらに歩いてきた。申し訳なさそうにしていたあの女の子だ。
同級生たちが見守る中、班員は初子の前まで来るとそこで正座する。
「あの、初子さん。お昼休みの間に一度寮に戻りまして、その時にお部屋に前に黒い福寿草が落ちていたんです」
空気が一瞬で張り詰めた。最高学年だけあり、全員が黒い福寿草の噂を知っている。
薫がわずかに眉を顰め、初子に寄りそう。
昨日、小晴の案内中にも黒い福寿草を見つけていた初子はさほど動揺していないようだった。ただ、困ったような顔で微笑み、班員が謝る前に口を開く。
「怖かったでしょう? ごめんなさい、巻き込んでしまって」
「いや、そんな! あの、私こそ、ごめんなさい。言いふらすつもりはなかったのだけど、手の中で消えてしまって、怖くなって……」
「無理もありません。私のことは心配しなくても大丈夫です」
気まずい空気が教室内を満たすより早く、小晴は素知らぬ顔で口をはさんだ。
「すみません。何が起きているのか私にはまったく分からないので、薫さん、説明をお願いできますか?」
本当は全部知っている。けれど、あえて知らない振りで話に割り込んで、小晴は薫を説明役に指名した。
いきなりのご指名に珍しく戸惑った薫は初子を見る。初子が説明をしてもいいと頷くのを見て、小晴を見た。
「花贈りの話は昨日したよね。それとは別に、黒い福寿草が部屋の前に落ちている噂が数年前から流れていたんだ。その黒い福寿草は実態がないとか、いろいろとね」
「なるほど、手の中で消えたというのは本当ですか?」
班員に尋ねると、おずおずと肯定が返ってきた。
「あの、はい……」
「では、黒い福寿草があるのは事実として、それが超常的な何かだとして、気になる点が一点あるんですけれど」
「なんだい?」
初子を気遣ってか、早めに話題を終わらせたい薫が鋭く問う。
小晴はにこやかに返した。
「黒いからと言って凶兆とは限りませんよね。吉兆かもしれません。初子さんが優しくて面倒見がよく、少しお茶目さんな可愛い人なのは昨日が初対面の私でもわかるくらいですもの」
ここぞとばかりに初子を持ち上げて、小晴は首をかしげる。
「それとも、黒い福寿草がらみで誰か不幸にあった人がいらっしゃるんですか?」
沈黙が返ってくる。噂ではどうなっているか知らないものの、黒い福寿草を受け取った寮生に訪れる不幸があるとすれば多少の疎外感だけなのだから。
目に見えて不幸が起きるのであれば、寮生だって噂にはとどめない。黒い福寿草を受け取った時点で寮監なり、担任なりに保護を求める。
事実として、一か月前から黒い福寿草を受け取っている寮生までいる。その寮生が健在な以上、噂の域を出ない。
「……受け取った人は、周りから人がいなくなるって話がありますけど」
誰かが小さくつぶやく。犯人探しが始まるより先に、小晴は笑って場の雰囲気を明るく保った。
「そうなんですね。ところで、初子さんが昨日、私に寮を案内してくれた時に私に見えないようにして拾っていたのは、もしかして黒い福寿草だったのでしょうか?」
初子が驚いた顔で小晴を見る。何故知っているのか、と驚くのも無理はない。小晴もヤイチがいなければわからなかった。
「えぇ、そうです」
「でも、今日、この時、黒い福寿草を受け取ったと知られるまでは教室でもみんなと一緒に楽しく話していましたね。なら、黒い福寿草に人を遠ざけるような効果はありません」
時系列を整理して分かりやすく指摘した後、小晴は悪者を作らないように話の落としどころを作るべく同級生を見回す。
「知ったから、怖くなって、どう付き合えばいいのか分からなくなってしまうのは無理もありません。自分が関わったせいで事態が悪化したらどうしよう、と不安になったり、黒い福寿草を知った友達が怖がらないようにと隠したり、皆さん優しいですね」
怯える必要はない。だが、事態が悪化しないように距離を置く免罪符を残しつつ、あとは自由意思に任せる。
しっかりと場を収めて、小晴は初子を見る。
「入寮初日に私が怖がらないよう、黒い福寿草を隠して胸の内にしまっておいてくれたんですね。ありがとうございます」
感謝の意を伝え、離れない意思表示をする。初子は顔を覆って身をかがめた。
すぐに薫が初子の背中をさすり、小晴を見た。
「授業どころじゃないから、初子を保健室に送っていく。小晴、先生への言伝てをお願いできる?」
「任せてください。初子さんも、薫さんが近くにいた方がいいでしょうから」
「ありがとう」
心の底からの安心と信頼を乗せて、薫が礼を述べた。
初子を立たせて、薫が教室を出ていく。その背中を見送って、小晴は入れ替わりに入ってきた華道の先生に事情を説明するべく立ち上がった。
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