黒い福寿草・前編下

 向かう先は校舎の反対側のようだ。

 リノリウムの床の摩擦に慣れない小晴が足を取られて転びそうになると、篠野瀬が軽い調子で手を引いて防いだ。


「ありがとう、篠野瀬さん」

「ここの床は慣れないと足を取られやすいので、こうして手を引いていくことにしているんですよ。それと、早くこの学校に馴染むためにも名前で呼び合うことにしませんか?」

「では、初子さんとお呼びしますね」

「えぇ、小晴さん。改めてよろしくお願いします」


 にこやかに笑い合い、手をつないで廊下を歩く。

 静柳女学院は山の上に建てられているだけあって交通の便が悪く、日用品をそろえられる購買部も規模が大きかった。下級生が持ち回りで手伝っているとのこと。なお、今はその姿がない。


「下級生は授業中です。私たち三年生は担任の先生が東京出張で自習になっていますけれど」


 購買部の横には食堂があり、お昼はここで食べるか寮の食堂、又は自作の弁当を好きなところで食べられるらしい。

 自習の邪魔になってはいけないからと教室に行くのは後回しになった。校舎の主要施設を紹介された小晴は、そのまま初子に連れられて中庭に出る。


「これはすごいですね」


 あちこちを旅してきた小晴の眼から見ても、静柳女学院の中庭は立派なものだった。洋風東屋が中庭の端にあり、それを校舎から隠すように藤棚が配置されている。白檀や桜の木も本数は少ないながら植えられており、広い花壇にはカタクリやアヤメなどの季節の花が咲き誇る。

 色彩豊かな中庭は洋風東屋の他にも縁台がいくつか置かれており、思い思いに休憩できるように作られている。


「随分と広いですね」


 初子に先導されて中庭を散策しながら、小晴は周囲を見回してそれとなく福寿草を探す。花に色を付ける方法ならばいくらでもある。呪いとされる黒い福寿草がただの悪戯ということもあり得るため、調べていた。

 初子は藤棚へと向かいながら静かに笑って頷く。


「華道の授業で使う花をここから摘むこともあります。生徒が分担して世話をしているんですよ」


 手引書や季節ごとに植える花の配置図などもあるため、入学初年度の生徒でも世話ができるようになっているという。

 手引書があるといっても、中庭は広い。これを生徒の手で世話するとなるとなかなか大変なはず。


 感心しつつ花壇を覗いてみると、ツツジの生垣に隠れるように白い小さな花がひっそりと咲いているのが見えた。

 去年咲いた際に種が飛んで紛れ込んでしまったのか、ツツジの影に咲いているその白い花は早咲きのカスミソウだ。ぽつぽつと小さな花をつけているが、ツツジの華やかさに圧し負けてしまって誰にも気づかれず残っていたのだろう。


 小晴が見つけたカスミソウを横から覗きこんで、初子は小さく「あらら」と呟いた。咄嗟に出たらしいその言葉は飾ることのない感情が表れていて、初子は照れたように口を押える。


「こんなところにまぎれているなんて気付きませんでした。小晴さんは探し物が得意なのかしら?」

「物をなくさないので探し物が得意か分かりません」

「それはうらやましいですね」


 本当は、旅から旅への小晴の荷物が極端に少ないためすべてに目が行き届いているだけなのだが、そんな事情を知らない初子は純粋に褒めてくれる。


 噂の藤棚は満開で、紫色の花が雨のように頭上に広がっていた。くぐるだけで空から祝福されているような錯覚に陥る美しくも幻想的な、静止した紫色の雨は誰かに自慢したくなるのも頷ける。

 中庭の花壇を一通り見て回り、校舎をぐるりと半周して寮へ向かう。

 二階建ての寮は左右対称な造りの洋風建築で、赤レンガの塔が中央に建ち、左右に寮生の部屋が並ぶ。築十年程度に見え、全体の色調も明るい。寮生で呪いが問題になっている建物とは思えないほど、溌溂とした気配がある。


 洋風の建物だが土足厳禁であるため玄関には靴置きがある。来客用のスリッパを貸してもらい、小晴は草履を靴箱に収めた。さりげなく靴の数を確認する。

 何足か下駄や草履が収められている。泥がついているものもあり、状態からして今日の内に使われたものだろう。

 玄関がある中央のレンガ塔は吹き抜けになっており、階段が円形の壁面に沿って左右から二階へ伸びている。建物を正面から見た時に気付かなかったが、レンガ塔の奥には食堂があるらしく大きな扉が見えた。


「最高学年は向かって右側の二階にそれぞれ部屋があります。個室ですから、同居人を頼れないので不安かもしれませんけれど、何かあったらすぐに私を頼ってくださいね」


 安心させるように笑いかけてくれる初子の部屋は小晴が入る部屋の隣になっているという。

 手すりの装飾に感心しながら階段を上っていき、吹き抜けから玄関を見下ろす。左右の棟からやってくる生徒も食堂から出てくる生徒も一望できる造りだ。

 洋館はこんな造りなのかと興味深く思っていると、初子の足音が少し早くなったのに気が付いた。


 玄関から目を放し、左右に扉が並ぶ廊下を振り返る。初子が一足先に廊下の奥へと向かっていた。

 先ほどまでの丁寧な案内の仕方からしても、小晴を置いて先に行くのは考えにくい。何かあると直感で察したのは小晴だけではないらしく、肩からヤイチが飛び降りた。


「黒い福寿草が扉の前に落ちておる」


 ヤイチが小晴を見上げて報告する。リスだけあって廊下に下りれば初子の身体で視界を遮られることがない。

 ヤイチが廊下を走り抜け、初子を追い抜いて黒い福寿草の元に到達する。鼻を近づけて匂いを嗅いだり頭の角度を変えて観察するヤイチの前に立った初子が洗練された動きで身をかがめ、黒い福寿草を手に取った。


「初子さん、何か落ちていたんですか?」


 後から追いついた小晴は素知らぬ顔で尋ねる。

 初子は部屋の扉をあけながら、小晴に小さく笑いかけた。


「人の出入りが多い建物ですからゴミが落ちていることも多くて。入寮初日にお見せするのは先住者として恥ずかしいので掃除をしました。お気になさらず」


 捨ててまいります、と初子が部屋の中へ消える。小晴はさりげなく視線を落とし、ヤイチに目配せした。

 やれやれといった様子でヤイチが首を振る。


「呪いを便利に使う娘よ」


 さっと、ヤイチが閉まる直前の扉を潜り抜け初子の部屋へと忍び込んでいった。

 これで黒い福寿草という証拠物の行方は任せることができる。

 意外と早く呪いの現象に出会えたが、直に見ることができなかったのは悔やまれる。


「それにしても、怯える様子がありませんでしたね……」


 呟き、小晴は初子の部屋の扉を見る。黒い福寿草を初めて見るような怯え方には見えなかった。あるいは、危険性がないものだと知っているのだろうか。

 人に直接の危害を加えるような呪いであれば、学院に隠すことは難しい。教師である荻部から話もなかった以上、直接の危険はないと小晴も思っていた。

 しかし、黒い福寿草はやはり不気味なものだ。いくら入寮初日の小晴を怯えさせないようにするためとはいえ、あれほど素早く回収するだろうか。


 小晴は黒い福寿草が落ちていたと思しき床を見る。葉や花弁は残されていない。土もないようだ。痕跡が綺麗に消えている。

 黒い福寿草そのものについてはヤイチからの情報待ちになるだろう。切り花に色水を吸わせるなど、花を着色する方法はいくらでもあるため、まだ呪いとは確定できない。


 小晴は耳を澄ませてみる。生徒の生活音は聞こえない。防音がしっかりしているのもあるだろうが、最高学年である三年生以外は授業中。三年生も自習のため初子以外は教室だろう。黒い福寿草を置く時間があったとは思えない。

 寮監や食堂で夕食の準備をしている調理師が黒い福寿草を置いた可能性もあるが、情報が足りていない。

 これ以上は調べてから考えようと切り替えた直後、初子が部屋の扉を開けて出てきた。ヤイチはまだ部屋の中にいるようだ。


「まいりましょう。隣ですけれど」


 初子に促されて、小晴は自室としてあてがわれた角部屋の扉を開ける。少し重い木の扉は内開きで、しばらく使われていなかったのか埃っぽい臭いがした。

 初子と一緒に中に入り、障子窓を開ける。するすると開いた障子窓から春風がふわりと吹き込んで部屋に満ちていく。わずかに混ざる美味しそうな香りは障子窓から外に上半身を乗り出してみれば出所が分かった。食堂だ。

 乗り出したまま下へと視線を向ければ洗濯物が干してあるのが見える。生徒のものだろうか。


「これは掃除した方がよさそうですね。寮監に話して道具を借りてきます。荷物を下ろしておいてください」


 初子に礼を言って。小晴は振り分け荷物を机の上に置いた。

 部屋には洋風建築らしくベッドが備え付けられている。布団などは先ほど庭に出ている洗濯物の中に一組だけあった。おそらく、小晴の到着に合わせて日干ししてくれているのだろう。


 部屋の把握を終えた頃、初子が掃除道具を一式もってきてくれた。掃き掃除を初子に任せ、小晴は水拭きして部屋全体を磨き上げていく。

 暖かくなってきていてよかったと、井戸から汲んできたらしい冷たい水に雑巾を浸しながら思う。心配そうに見てくる初子の前でぎゅっと雑巾を絞ってみせると、驚いたような顔をされた。


「力持ちですね。そんなにあっさりと水気を切れるなんて」

「体力には自信がありますよ」


 呪療師として旅を続けて数年だ。ほんの子供のころから日本全国を旅してまわっていたため、小晴は見た目にそぐわず体力には自信がある。


「頼りにしてくださいね」


 ぐっと腕に力を込めておどける小晴に、初子がクスクス笑う。


「あべこべですよ。でも、力がある方がいると助かります。お風呂を沸かす時や中庭の肥料運びとか、頼りにします」

「任せてください」


 そう返してから、小晴は聞き捨てならない情報を聞いた気がして拭き掃除の手を止める。


「お風呂を沸かす?」

「あら、言ってませんでしたか。寮には大きなお風呂があるんです。麓の銭湯のような大きな浴場で、寮生が持ち回りで沸かして入るんですよ」

「わぁ、嬉しい!」


 数日歩いて静柳女学院に来たこともあり、小晴は少々汚れが気になっていた。隙を見て麓の銭湯を利用しようと思っていたぐらいだが、まさか寮では入れるとは嬉しい誤算だ。

 飾らずはしゃぐ小晴を見て、初子も嬉しそうに笑った。

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