第25話 うれしい損切?

 イロハは、これまでの沈んだ心から、ようやく我を取り戻してきていた。


 これまでは、本当にどうにかしていた。


 ドル円ショートの損を膨らませるあまり、気が気でなかった。


 しかし、それよりも大切なことがある。


(アヤノ先輩も、カリン先輩も、とてもよくしてくれている)


 二人の先輩に気を使わせてしまった自分が情けない。


(それに、ハナちゃんも……)


 土日は、イロハが本田さんの古本屋でアルバイトをするため、花子が食事を準備する当番だ。


 だが、どうしても、とイロハは言って、本田さんのアルバイトが終わってから、夕食を作った。


 イロハにとって、花子にも嫌な思いをさせてしまったことへの、せめてもの罪滅ぼしだった。


 花子も、そんな思いを汲んでくれた。


 久々に、ゆっくりと花子と会話をした。




 週が明けた。


 13日になっても、ドル円は円安気味だが、やや勢いを落としてきたようにも見える。


 投資部には、いつもの、イロハ、花子、アヤノ、カリンの四人が集まった。


 しかし、今日は、雰囲気が違う。


 アヤノが大孫おおぞん先生を殴ってしまってから、ようやく復帰したのだ。


「それにしても、一時はどうなるかと思ったよ」


 カリンが、ヤレヤレ、という顔で言う。


「みんなには、本当に心配をかけました」


 アヤノはそういうが、ニコニコしている。


「でも、正直、人のこと殴るのなんてはじめてだったので、自分でもびっくりしています。反省ですね」


 そういうとしょんぼりした顔になったので、やはり良心は痛んでいるのかもしれない。


「あの、アヤノ先輩、わたしのために、本当にありがとうございます」


 イロハが割って入る。


「うん、ありがとう、イロハちゃん」


 イロハは、大孫が、父と母を殺した国会議員の息子への民事裁判を取り下げろと言ってきた。それを、アヤノが阻止してくれたのだ。


「それにしても、忙しくなるね、アヤノ」


「はい、空運株も軟調になってしまいましたけど、ちょっと投資からは離れないといけないかもです」


 イロハは、はっとした。


 アヤノは、生徒会長選挙に立候補しようとしているのだ。


「7月11日が立候補の届け出の締め切りなので、シホちゃんと打ち合わせしなきゃいけないんです。投資部にはこれなくなりそうです」


「うん、こっちのことは心配しないで。でも、あのシホって子、大丈夫なの?」


「うーん、生徒会長が推す人だから、問題はないと思うんですけど……」


 校長先生や大孫先生に対する生徒会の話し合いの場でも、シホの言動は、天然的なものだった。


「投資部の顧問も、大孫先生から優しそうな女の先生にかえるって話にまでなっちゃいましたけれど……」


 イロハは、出のよいお嬢さんであるシホとアヤノを二人にして大丈夫なのだろうかと、心配になる。




 幸いにも、ドル円の動きは鈍ってきている。


 翌日からアヤノはシホとの打ち合わせのために、投資部にはこなくなった。


「アヤノがいない間に、今後のことも考えないとね」


「はい」


 たしかに、イロハにとっては、投資部の活動も重要だ。


 ドル円は、ショートしているだけで、スワップを毎日取られてしまう。


「やっぱり、ドル円は損切すべきですよね」


「うん。でも、135円って節目だよね。一度、利益確定の売りが入るような気がするんだよね」


 イロハとカリンがドル円論議を繰り広げる。


 そんな中、花子が割って入る。


「明日の水曜の深夜にはFOMCで政策金利が決まるじゃろ。ここまで損が広がっておるのじゃ。それを見てからでも遅くはなかろう」


 イロハとカリンは顔を見合わせる。


 二人は、うん、とうなずいた。




 花子の言葉は、正しかった。


 水曜日の深夜、正確には日本時間では16日の木曜日の午前3時なのだが、FOMCの政策金利で、市場予想を上回る、0.75ベーシックポイントの利上げが発表された。


 さすがに午前3時まではイロハが起きていられなかったが、朝のチャートを見て驚いた。


(下がってきている?)


 135円をつけたドル円は、133円60銭まで下落している。


 そのまま登校したが、休み時間にはスマホを見てしまう。


(うう、下がってくれたと思ったのに、戻しちゃってる。ダマシってやつなのかな?)


 そうしている間に放課後になった。




「花子の言うとおり、少しは下げたけど、134円40銭までもどしちゃっているね」


 カリンがチャートを見ながら言う。


「でも、一時よりは下がっているし、このあたりで損切ろうか?」


「はい、そうですね。損失は大きいですが、仕方ないです」


 イロハとカリンが話しているが、


「まあ、二人とも待つのじゃ」


 花子が割って入る。


「せっかく落ちてきたのに、あわてると損じゃぞ。たしかに、少し戻してはいるが、戻りが鈍いのも事実じゃ。いま、買いと売りで交差している状況じゃから、まだまだ下値の余地はあろう」


 なぜか、花子は落ち着いている。


「これが猛者ってやつなのかな? うーん、でも~」


 カリンは髪を手でくしゃくしゃっとした。


 悩み続けながらチャートを見続ける。


 そろそろ帰ろうかとした17時すぎ、


「うん!?」


 突如、チャートに動きがあった。


「なに、これ!」


 ドル円は急下降をはじめた。


 一気に、133円台に入り、その133円も割り込みそうだ。


 イロハもカリンも、チャートに釘付けになった。


 花子だけは、うんうん、とうなずいている。


「しかし、注意が必要じゃ。下方向に行き過ぎると、今度は買戻しもあるからの。ニューヨーク時間は、二人とも起きておれんじゃろ?」


 イロハもカリンも、うーんと唸った。


「どうすればいいかな?」


 カリンが聞く。


「でも、リスクはあまりとれませんね。ここまで下がったことを、よしとしましょうか」


「でも、勢い強いよね」


 みんなは、チャートを見つめる。


「損切の指値をしましょうか。刺さったら、うれしいですし」


「えへへ、損切なのに、うれしいのかよ」


 言われて、イロハは照れくさくなった。


「でも、指値置いて、刺さったら、うれしいじゃないですか!」


 カリンは、アハハ、と笑った。


「うん、いいよ。どこに置こうか?」


 三人は、検討に検討を重ねた。


 もちろん、どこぞの首相のようではなく、きちんと決断するための検討だ。


「132円ちょうどにしようか?」


「カリン先輩、でも、ロスカットっていうのがあるじゃないですか。132円割れたら、一気に、もう一押し、下に行くと思います」


「よし、それじゃあ、ここ!」


 131円80銭に置くことにした。


「結構、野心的ってやつだよね」


「でも、刺さったら、うれしいですよ」




 その夜は、為替のことが頭から離れなかった。


 夢にまで見た。


 金曜日の午前7時、いつも通り目覚ましで目が覚める。


 枕元に置いてあるスマホをつける。


 すぐに、ドル円の現在の価格が表示される。


「なんだ、ドル円、132円30銭かぁ」


 ふう、とため息をする。


「あれ?」


 どうも、表示がおかしい。


「どうして、保有しているlotがなくなっているんだろう? 資産が減ってる? もしかして!」


 ドル円のチャートを表示させる。


 夜中に、131円80銭下回っている!


 予想通り、132円を下回ったところで、ロスカットを巻き込んだ売りが入ったようだった。




 放課後、急いで投資部に行く。


「イロハ! 花子!」


「カリン先輩!」


「うむ、よかったのぅ」


 三人は、ニコッと笑った。


 損失は確定されてしまった。


 しかし、うれしい損切だった。

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