第29話

 黒兎が仕事を再開してから、更に一年が経とうとした頃。雅樹はまた以前のように客として来てくれ、和やかに話をして帰っていく。


 黒兎の体調も、よっぽどショックなことがなければ、ほぼパニックを起こすことなく過ごすことができていた。ただ、まだ遠くからでも電車の音が聞こえると、身構えてしまう所はあるけれど。


 それと肝心な問題は、まだ雅樹に直接想いを伝えられていないことだ。やはりどうしてもその手の話題は、まだ口にしようとすると手足が震えてしまうので、雅樹も口にしない。そういえばずっと、内田との関係を聞かれたことがなかったな、と今更ながらに気付いて、大事にされていたんだな、と気恥ずかしくて身体がムズムズした。


『俺がこんなに想っていたのに』


 内田の声も、今はだいぶ大人しくなった。黒兎の中で聞こえる彼の声は、自分の心の声だったのだと、今なら分かる。


(うん。そうだな)


 特殊な性指向だと──どうせ幸せになれない、なる権利はないと、思い込んでいたのは紛れもなく黒兎のほうだ。小さくうずくまって泣いている自分自身を、宥めるように心の中で呟いた。


(大丈夫だ。……大丈夫だよ)


 自分のことを、誰かに聞いて欲しかったんだな、と過去の自分を認めることで、自分に優しくなれる気がした。


 先日、雅樹に言われたのだ。また自分のことが疎かになっている、と。それは精神面でもそうで、どうやら癖なのでなかなか治らない。けれど、ちゃんと自分を見て、注意してくれる人がいる。それが嬉しかった。


 突然、スマホが震えた。見てみると雅樹からの通話着信だ。さっき別れたばかりなのに、と思って出ると、いつもの彼の声がする。


「ごめん、さっき伝えるのを忘れていて……綾原くん、三日は空いているかい?」


 三日と言えば明後日だ、なぜまた急に、と思ってスケジュールを確認してみると、ある事に気付いてぶわっと顔が熱くなった。


(しまった! 完全に失念してたけど、明後日は雅樹の誕生日……!)


 五月三日という、ゴールデンウィーク中に誕生日を迎える雅樹は、なかなか多忙でゆっくりお祝いなんてできた試しがないと言う。それなら今年はサプライズでもして、と思っていたのに。


「あっ、ご、ごめんっ。木村さんの誕生日だってすっかり……。でも、昼から空けとく!」


 黒兎の慌てように、雅樹はクスクスと笑っていた。ほんとごめん、と再度謝ると、いいよ、と返ってくる。


「私も仕事で十五時頃からしか空かないんだ。それからで良ければ、ちょっとお出掛けして、食事しないかい?」


 黒兎はこくこくと頷いた。そして、電話じゃそれは伝わらない、と気付き、うんうん、と二つ返事をする。


「じゃあ、迎えに行くよ」


 またね、と通話は切れたけれど、黒兎はスマホを耳に当てたまま、しばらく動けないでいた。


(どうしよう、誕生日にお出掛けして食事って……デートだよな!?)


 うわーっと、今度は頭を抱えた。しかし、またある事に気付いて黒兎の動きが止まる。


 そう言えば、互いに告白して両想い──黒兎は好きとすらまだ言えていないけれど──のはずなのに、雅樹から言われた言葉は支えたい、そばにいたい、だった。


(付き合いたい、じゃないな……)


 そう思ったら、一気に不安になってきた。本当に自分たちは両想いなのか、それとも黒兎が一人で舞い上がっているだけなのか。後者だとしたら、とても恥ずかしい。


(そういえば、ここに来てもまったりするだけで、手を繋ぐことすらしない……)


 さぁっと、血の気が引いた。これって本当に両想いなのか、と。


「うわ、どうしよう……」


 そう思ったら止まらなくなってしまった。それなら明後日には頑張って、自分から改めて告白して、雅樹の気持ちを確かめよう、と心に決める。


 どうか、パニックを起こさずに告白できますように。そう願って、黒兎はその日を乗り切った。

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