第28話

「綾原くん、大丈夫?」


 黒兎はハッと目を覚ますと、雅樹が心配そうに顔を覗き込んでいた。起き上がるとそこは、雅樹の自宅のリビングだ。黒兎はソファーに寝ていたらしい。


 事故から一年。ようやく外を歩けるようになり、以前ほど悪夢などにうなされることは少なくなった。なので仕事を再開しようと思っていると、雅樹に伝えるためにリビングで待っていたのだ。


「うなされていたから。また嫌な夢でも見ているんじゃないかと……」

「……いや……覚えてないから、多分大丈夫なんじゃないかな」


 黒兎は姿勢を正した。話があるからここで待ってたと言うと、雅樹は頷いて隣に座る。


「ここのところ、俺も落ち着いてきたし、そろそろ仕事を再開しようかと思ってる」

「……うん」

「だから、家に帰るよ」


 雅樹は、黒兎の自宅マンションもずっと管理してくれていた。ここまでサポートされて感謝しきりだし、少しずつ金銭的援助をしてくれた分は返していきたい、そう言うと、彼はそんなの良いのに、と笑う。


「良くない。俺はあんたに甘えっぱなしだから」


 ずっと、と黒兎は心の中で呟く。辛い時は、いつも雅樹の笑顔を思い浮かべては、乗り越えてきたのだ。心の余裕からくる笑顔だと思っていたけれど、案外それは見せかけていただけかもしれない、と再会してから気付いたりもした。


 雅樹は、そうか、それもそうだよね、とどこか寂しそうに呟く。その表情にきゅん、としながらも、甘えてはいけない、と自分を奮い立たせた。


「じゃあ、私の話も聞いてくれるかな?」

「……うん」

「この手の話はまだタブーかもしれない」


 気分が悪くなるようならまた出直すよ、と前置きして、雅樹は身体をこちらに向けた。形のいい唇の、口角が僅かに上がっていて、その瞳はこれ以上ないくらい優しかった。


「やっぱり、私はきみを諦めきれない。好きな人の代わりでもいい、そばにいさせてくれないかい?」

「……」


 黒兎は深呼吸する。


 内田の声は聞こえない。


 唇を開いて声を出そうとした瞬間、出てきたのは言葉ではなく、涙だった。


「……っ」


 ボロボロと溢れる涙を、黒兎は袖で拭う。けれどそれは止まることなく、黒兎の服を濡らしていった。しまいには嗚咽が漏れ出し、情けなくも声を上げて泣いてしまう。


「あんたは……本当に酷い男だ……」

「綾原くん? ごめん、嫌なら聞かなかったことに……」


 雅樹は慌てて、また話をなかったことにしようとしている。恐らく黒兎が、フラッシュバックでパニックになりかけていると思ったのだろう。


 どうして、ここで好きな人の代わりでいいなんて言うのだろう? どうしてまた話をなかったことにしようとするのだろう? 黒兎の好きな人は、もうずっと、雅樹しかいないのに。


「俺が! 素直にここにいた意味、考えたことあるのか?」


 黒兎はとめどなく溢れる涙を、左腕で、右腕で、また左腕で、と拭きながら、滲む視界で雅樹を見る。


「……それはどういう……」


 雅樹の声が戸惑いと期待が滲んだものに変わった。黒兎はお腹に力を込め、震える声と身体を抑える。


「俺は……っ、もうずっと、……ずっと……!」

『お前のせいで俺は死んだんだ!』


 さっきは聞こえなかった内田の声が聞こえた。どうしてこのタイミングで、と黒兎は頭を抱える。


「うるさい! お前は自業自得だ、黙ってろ!」


 耳障りな内田の声に、黒兎は思わず叫んだ。そしてその勢いで、言えるところまで言ってみる。


 声を、振り絞る。


「俺は……っ、…………ずっと……っ」


 ──言えなかった。口は開くけれど声が出ない。空気が喉を通っているはずなのに、声帯を震わせて音を出すことができなかった。


 だからその代わり、雅樹の胸に飛び込み、彼をギュッと抱きしめる。


「綾原くん……」


 雅樹も抱きしめ返してくれた。


 好きだ。


 心の中でそう言う。ずっと、ずっと、黒兎は雅樹だけだった。好きな人の代わりにされたりもしたけれど、そんな酷い男でも、自分が愚かだと分かっていても、やっぱり雅樹がいいのだ。雅樹しかダメなのだ。


「これは、自惚れていいやつなのかな?」


 雅樹の声が震えていた。一生懸命伝えてくれてありがとう、と肝心な言葉は言っていないにも関わらず、理解してくれた。それが嬉しくて、たまらなく愛おしくなって、黒兎は抱きしめた腕に力を込める。


「……そうか。綾原くんはずっと私のことを……」


 ごめん、と謝られた。黒兎は無言で頭を横に振る。


「いや、……ごめん、本当にごめん……っ」


 雅樹の声が揺れた。きっと彼は色々と後悔しているのだろう。高校生の時に黒兎に言った言葉、失恋を相談したこと、そして、自分を慰めるために黒兎を利用したこと。


 それきり雅樹は黙ってしまった。しかし聞こえる吐息はまだ震えていて、泣いているのかもしれない、と黒兎は慰めるように背中を叩く。


 そして、二人は気が済むまでそのまま抱きしめ合った。


 雅樹の体温は温かくて、初めて彼にちゃんと、触れられたような気がした。

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