第21話

 黒兎がサロンを再開したのは、四月になってからだった。

 その間に内田は起訴されたが、初犯ということもあり、執行猶予付きの判決が下りる。反省している姿勢を見せているとのことで、しばらくは何もできない、してこないだろうという弁護士の言葉に、ホッとひと息ついた。


 ありがたくも、サロンは常連さんのほとんどがまた通い続けてくれることになり、いずみと雅樹には、人望と腕のおかげだと褒められる。


「でも綾原くん、ちょっと予定を入れすぎじゃないかい?」


 雅樹の施術の時間。以前のようにラフな服装に着替えた雅樹が、パーテーションの向こうからそんな事を言って入ってきた。


 雅樹がそう言うのも無理はない。仕事再開と同時に、以前と変わらない人数をこなしているのだ。身体が慣れるまで徐々に、と彼は言いたいのだろうが、整膚師一本で生計を立てている黒兎にとっては、早く元の生活に戻したい。


 いずみのおかげで、入院費と金銭的な生活保障は保険金で何とかなったが、比較的施術師の負担が少ないとはいえ、いつまでできるか分からないのだ。ましてや、一生独り身で生きていくならなおさら、将来のために動けるうちは動いておきたい。


「大丈夫ですよ。以前より増やしてるって訳じゃないですし」


 にっこり笑って答えると、雅樹はなぜか少し顎を引いた。何か変なことを言ったかな、と思いつつベッドに雅樹を促すと、彼は何も言わず素直に仰向けになる。


「とはいえ、今はお昼時だろう? 食事はきちんと摂っているのかい?」

「それを言うなら木村さんもでしょう。施術が終わったら、食事と、水分多めに摂って下さいね」


 すると、雅樹は眉間に皺を寄せて起き上がった。黒兎はできるだけ動揺を悟られないように、感情を最奥に押し込める。


「……どうしました?」


 雅樹が言いたいことは何となく察しはついた。雅樹は友人として、砕けた口調で話しかけているのに、黒兎が頑なに客と整膚師の関係を崩さないからだ。


「……確かに、高校生の時に私が言った言葉は、酷いと思って反省しているよ」


 けれど、きみは反省の余地すらくれない、と強い視線で雅樹は黒兎を見る。


 黒兎は微笑んだ。


「良いんですよ、気にしてませんから」

「だったらなぜ、こうも頑なに敬語なんだ」


 特別メニューの時はタメ口だったじゃないか、と言われ、黒兎はますます心の扉に鍵をかける。


「……今日はそちらがお望みですか? それなら」

「そういう意味じゃない」


 ピシャリと強い口調で遮られ、黒兎は黙った。しばしの沈黙のあと、はぁ、と息を吐くと、苦笑する。


「俺は大丈夫ですよ。さすがに木村さんのこと、深く知りすぎたなと、こっちも反省していたんです」


 すると雅樹は再びベッドに仰向けになり、施術を促した。言う通りいつものように施術を始めると、天井を見たまま雅樹は呟く。


「……朝食は、何を食べたんだい?」

「え、……菓子パンですけど……」


 またなぜご飯の話なのか、と思いながら素直に答えると、昨日の晩は? と聞かれる。雅樹の質問の意図を察して、黒兎はボソボソと呟いた。


「……昨日は……仕事が終わったらそのままソファーで寝てしまって……」

「昨日の昼食は?」


 黒兎は黙る。食べるタイミングを逃してしまったことを、思い出したのだ。ほら、と雅樹は少し口調を優しくする。


「医者の不養生とは言うけれど、入院している時より顔色が悪いのは、プロとしてどうかな?」

「……」


 黒兎はぐうの音も出ず、そろそろと息を吐き出した。そして、雅樹のことを受け入れないのも、怖いからだと認める。


 一度受け入れてしまったら、もっともっとと歯止めが利かなくなりそうで怖いのだ。こんな自分が、キラキラした世界を創る財閥の社長と、友達なんかやっても良いのだろうか、と。


 何せまともに友達もいたことがないコミュ障だ。取り繕うことだけは一人前にやれるのに、距離感の掴み方が分からないから、どうしたらいいのか分からない。


「綾原くん、今日の仕事は何時まで?」


 また食事に行こう、今度は友達同士、二人で、と言われ、嬉しい反面、友達という言葉にちくりと胸が痛む。


「……今日は、遅くて……二十二時くらいになるかと……」


 またボソボソと黒兎は言うと、雅樹はまたこちらをとがめるように見た。


「……それなら、食べ物を持ってここに来よう」


 いいね、と念を押すように言われ、黒兎は消え入りそうな声で、うん、と頷く。


 満足そうに微笑んだ雅樹は、施術の心地良さからか、ホッと息を吐いて目を閉じた。

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