真の強さを手にしたもの

 * * *


 王都の大地が揺れる。

 北の空に姿を現した巨大な竜に、誰もが圧倒され、言葉なくその場に崩れ落ちた。

 沈みゆく西日よりも赤い光が二度、空を染めた。あの光がいつ自分たちを焼くのかと、恐怖に身を震わせた。


 なぜと、誰かが問う。

 それは、と誰かが継ぐ。

 そして、いくつもの声が答える。聖女が罪を犯したのだと。

 聖女でありながら世を恨み、雨の中、呪うように言葉を吐いた娘。

 リネッタ・セリエス。

 聖女は狂ったのだ。清廉な心を捨て、哀れなベツィラフトを食い物にし、呪いに落ちたのだ。


 聖堂前の広場に人が集う。

 門を開けろ、聖女を引きずり出せと叫ぶ人の群れが膨れ上がっていく。

 声は聖堂の内にも届き、そのうちに怒号が飛び交い始める。声は真白な聖堂を揺らさんばかりの圧を持って押し寄せる。

 聖堂官らは震えあがり、上階の部屋に立てこもり始めた。部屋の奥からは、聖女を引き渡すべきだという声がもれてくる。


 リネッタはそのすべてを聞いていた。

 驚くほどに心は静かだった。感情を取り戻したはずなのに、怒りも悲しみも湧かなかった。


「リネッタ様。やはり王城に逃げましょう」


 マリウスがリネッタの背を支えるようにして言う。だが、リネッタはそれを固辞した。


「不思議ですね。クラッセン卿」

「何がですか?」

「わたしがこんなにも強くいられることが」


 今自分を支えるものはひとつ。その顔を浮かべれば震えが止まる。

 リネッタのことを知り、隠された全てを知り、その上で再び誓約錠を結んだ騎士。


 ――今すぐ寝台にお連れしたいほど。


 確かに、品がいいとは言い難い台詞だ。


 彼が自分に、おとぎ話の王子様のように気障きざな台詞で語りかけてくれる夢を見たこともある。あんなに直截ちょくさいな言葉のほうが好ましいと思うなんて、と。思わず笑いがこぼれた。


 左手首にきつく巻かれた誓約錠に手を添える。

 なんの飾りもないその革紐ひとつで、背を丸めて縮こまることなく、堂々としていられる。


「強いつもりでした」


 巡礼を終えてからの自分は、こんな運命を受けても凛としているつもりでいた。責めるべきはあの狂王と歴史だと、誰をさいなむこともなく立っているつもりだった。

 虚勢だ。心中では、汚れた娘にへりくだる聖堂官を嗤っていた。すべてを秘して玉座を守る王を呪っていた。感情が無いのをいいことに、自分の弱さに気付かずにいただけだ。


 部屋の窓が外から破られる。硝子が散り、目を血走らせた男たちが入ってくる。


「リネッタ様! お逃げください」

「わたしが逃げなければならない理由などありません」


 音に気付いた白騎士が応戦する。だが、丸腰の民を相手に剣を振ることはできず、物の数に押されていく。


 男の手が左手首を掴んできた。

 力任せなその手をリネッタは振りほどく。


「抵抗する気か! この悪女が!」

「いいえ」


 リネッタは男に右手を差し向けた。

 右手は、不快を抱いたときに。左手は、快と心が騒いだときに。


「この左手は、クウィル様ただおひとりと繋ぐためにあります」




 数人の男がリネッタを引きずり、聖堂から外へと連れていく。強引な力に負けて足が上手く地面を掴めず、最後は抱えられるようにして広場へ出た。

 人の輪ができていた。

 リネッタを見て、群衆がおおおおと雄叫びを上げる。髪も服も人の手に掴まれ、腕や頬を掻かれながら、リネッタは輪の中心へと押し出された。


 悪意に取り囲まれる。

 一方的に聖女と讃えた娘を、今度は悪女とそしる。


 輪の中にひとつ石が投げ込まれれば、もう、悪意を止められる者はない。皆、足元の小石を拾っては投げつける。


 石を構える大人の腕に少年がしがみつく。だが彼の手はすげなく振り払われ、輪を追い出された。少年の手は今日も、ベツィラフトの血を侮辱する紙束を握りつぶす。小さな勇気は人の壁に何度も挑み、けれどそのたびに跳ね返されて泥にまみれる。

 

 悪意は増長する。白騎士は聖女に近寄ることすら叶わない。

 石を浴び、傷を作り、それでもリネッタは真っすぐに立っていた。


 クウィル・ラングバートが剣を手に、風を切り悪意を退けて生きてきたように。

 リネッタ・セリエスは笑みを浮かべる。


 社交のために磨き抜いた、どんな令嬢よりも美しく見える表情を。誰もが息を飲むほどの、聖女を聖女たらしめる微笑みを。

 この微笑みこそが、リネッタの剣だ。

 

 誰かが手を止めた。

 聖女の微笑を前に、自分が手にした悪意に視線を落とした。正しいかと自問し、胸を張れるかと、傍にいた家族に目を向けた。

 だがその迷いを怒号が飲み込む。迷う手は誰かに掴まれ、強引に石を持たされる。


 永遠に続くかと思われた。

 そこに。

 止まぬ悪意をすり抜けて、ひとりの少女が聖女をかばい立ちはだかった。


 ゆっくりと投石の雨が止む。十歳の少女は、額から血を流して、屹然きつぜんと群衆を見据えた。


「……アデーレ様」


 アデーレ・ラングバート。クウィルの溺愛する妹は、悪意のうねりを前に、臆することなく口を開いた。


「汚いわ。いつもそう。人は汚いって、わたくし、知っているの」


 生まれた時からずっと兄の姿を見てきた少女は、両腕を広げリネッタの盾になる。

 リネッタはアデーレの小さな身体を守るように抱きよせた。しかし、腕の中のアデーレは身をよじり、顔を上げた。人の輪を見回してあらん限りの声を張り上げる。


「兄さまが怒らないから、リネッタ様が怒らないから。全部まとめてわたくしが怒るわ。わたくしはあなたたちのような汚い大人には絶対にならない!」


 誰も、言葉を発しない。


 水を打ったように静まり返った輪を掻き分けて、少年が進み出る。輪の中心に躍り出た少年は息を切らしながら、アデーレにハンカチーフを差し出した。


 きょとんとした顔のアデーレが、リネッタを見上げてくる。急に十歳の少女に戻ったアデーレに、リネッタは微笑んだ。


「受け取って差し上げてください。小さな騎士様から、アデーレ様への贈り物です」


 目を丸くしたアデーレは、ほんのりと頬を染めて、少年からハンカチーフを受け取った。

 

 広場にガラガラと車輪の音が響く。

 

 馬車に描かれた紋章を見て、誰もが息を飲み道を開けた。

 崩れた人の輪の切れ目に、馬車は停まった。扉を開け出てきた男を見て、その顔を知る幾人かがいぶかしがる。


「……ラルス様?」


 リネッタも同じく動揺を隠せない。

 クウィルの兄ラルスが、図書館管理役の制服ではなく、近衛隊の出で立ちで馬車の傍に控えた。


「殿下」

「ご苦労」


 王太子レオナルトが姿を現す。王太子妃ユリアーナをともない、群衆に目を向けることなく輪の中心へ進む。貴賓を招いた式典の場でのみ身に着けるはずの礼装。その長い裾をひるがえし、次代の王と王妃がリネッタの前に立った。


 レオナルトは、リネッタの腕の中にいるアデーレに驚嘆の眼差しを向けた。十歳とは思えぬほどの鋭さをそなえた双眸が、レオナルトをねめつけている。


「アディ!」


 妹の不敬に気づいたラルスが慌てて駆けつけ、アデーレを抱き上げる。

 レオナルトは声をたてて笑った。


「殿下、妹が申し訳ございません」

「いや。ラングバート家は子女に良い教育をつけていると見える」


 そう言って、ぐしゃぐしゃとアデーレの髪を搔き乱した。アデーレがふくれっ面を見せると、レオナルトはまた笑って、すぐにその笑みを消した。


「責められて然るべきだ。こんな幼い子にわかることが、私たちにはわからないのだから」


 レオナルトがリネッタを前に片膝を突く。その隣にユリアーナが、そして、アデーレを下ろしたラルスが後ろに続く。


「聖女リネッタ・セリエス。過去から今まで、アイクラント王家に名を連ねる者を代表して、ここにお詫び申し上げる。この謝罪は、同じく過去から今まで。すべての聖女に向けるものだ」


 始まりから今日までの全て。

 王家から、最後の聖女として謝罪を受ける。

 リネッタは胸を押さえ、全身に走った喜びとも悲しみともつかない震えを鎮めた。


「もう、よろしいのですか。この荷をおろして……かまいませんか」


 尋ねれば、レオナルトがうなずいた。

 耐えかねたようにユリアーナが立ち上がり、リネッタの両手を取る。


「もっと。もっと早くこうしてあげられたら」

「いいのです。今でなければ得られなかったものが、あるはずですから」


 涙ぐむユリアーナを見て、左手の誓約錠をしっかりと握りしめたリネッタは口元に精一杯の笑みを作った。


 人の輪の向こうに、夕陽に塗られた聖堂が見える。聖女の顔見せにあつらえられたバルコニーで、十六歳の自分が泣いている。子どもみたいに大声を張り上げて。

 その涙も、どうしようもない虚しさも、ぐずぐずとけぶるような痛みも。

 消えることはない。これから先も、きっと。


 群衆に向けて続くレオナルトの口上を聞きながら、夕暮れへと染まり出した北の空を見上げる。

 地鳴りは止まない。まだ、彼の戦いが終わっていない。


 気が付けば、リネッタの足は、北へ向け走り出していた。

 今すぐ、彼に会いたい。

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