彼女の信じる英雄

 * * *


 断続的な地鳴りが続く。

 聖堂からはまだ遠い。けれど、ひどく胸が騒ぐ。何かが、近づいてきている。


 聖剣は砕け、暗赤色の石は外れ落ちた。石は時間をかけてさらさらと崩れ、小さな赤い砂山を作った。


 役目を終えた聖剣の残骸を前に、リネッタはクウィルの目覚めを待っていた。


「そろそろ起きてくださらないと足がしびれます」


 頭を太ももに乗せたのは失敗だったなと、無理やりに笑って。

 左手は、快。だからその左手同士を繋いで待つ。

 大切なのは想うことだと、彼の生母が教えてくれた。その言葉に従い、ひたすらにクウィルを想う。湧きあがる不安は何度も叩き潰す。


「大丈夫です。わたしが戻れると言えば、戻れます」


 頼りない聖女の呪文は震える。それでも唱える。

 クウィルの胸にまだ誓約錠がある。リネッタが彼を選んだ証。それを捨てずにいてくれたのなら、聖女として彼に渡せる言葉がある。

 

「亡国の王ぐらい、軽くあしらえて当然なのです」


 すると、繋いでいた手がきゅっと握り返された。


「……は、い」


 うわ言のような返事をして、クウィルのまぶたがひくりと動いた。琥珀石の瞳に光が戻る。

 途端、クウィルが激しくむせ返った。慌てて彼の身体を転がし、背中をさする。


「セリ……ス……嬢」

「はい。ここに」


 荒い息遣いの間で紡がれる呼びかけに答えると、クウィルの目は鋭さを持ってリネッタを捉えた。前線を見据える黒騎士の目だ。


「王都の状況は……いえ、すみません。私が自分で」

「把握しております」


 クウィルが目を見開く。リネッタは構わず、今持っている報せを伝える。


「交戦開始より半刻を超えました。魔獣は北門に集中していましたが徐々に範囲を広げています。市街への侵入は少なく、白騎士の一隊で対処できる量です」


 簡潔に伝えると、クウィルはばつが悪そうに目を逸らした。


「先に貴女のお加減を聞くべきでした。炎を届けてくださったのに」

「クウィル様なら、目覚めたらそうおっしゃると思いました。わたしはオルガ様のお力添えで、今までになく健やかです」


 リネッタが胸を張って答えると、クウィルは一瞬呆気にとられた顔した。それから、眉尻を下げて可笑しそうに微笑んだ。


 彼ならば真っ先に現況を確かめるだろうと思っていた。そういう人だと。

 定刻の知らせはマリウスから受け取った。この部屋に通じる廊下は今、彼ら白騎士が守ってくれている。

 

 クウィルがぎこちなく立ち上がり、腰の剣を確かめる。

 そこへ、荒々しいノックの音が響いた。続く声はマリウスのものだ。


「リネッタ様、聖堂前に民が押し掛けています。どうかご避難ください」


 聖堂の外に集まる人々の声が、わずかながらもここまで届くようになった。王都に魔獣が姿を見せれば、当然人々が目指すのは聖女の元だ。

 まして、あえて悪女を装ってみせた後のリネッタだ。糾弾する声が上がるのも当然だろう。


 座ったままのリネッタに、クウィルが手を差し伸べてきた。


「王城へお送りします」

「いいえ。わたしはここに残ります」

「……セリエス嬢」


 今リネッタが王城へ向かえば、民衆からの責めが王家にまで波及する。

 リネッタに現王を守る気は欠片も無い。アイクラントの犠牲にされたという思いは、胸中に強く濁り渦巻いている。

 けれど、王太子とユリアーナのこととなれば話は別だ。

 いつか必ず聖女の枷を外す。そうリネッタに告げた次代の王と王妃を守る。

 戦場に選ぶなら、真白の檻にすべてを隠してきたこの聖堂がいい。


 クウィルの視線が、何かに気づいたようにリネッタの全身をたどった。

 聖女の装いは、いくつもこの部屋のクローゼットにしまってある。クウィルの目覚めを待つ間に、できる限りの身支度は整えた。

 最後の聖女としておのれの戦いに行くために。


 差し伸べられたままのクウィルの手を強く握って立ち上がる。

 するとそのまま腕を引かれて、リネッタの身体はぼふりと彼の腕の中におさまった。かと思えば、両腕で強く抱きしめられる。とくとくと打つ彼の鼓動が、すぐ側で聞こえる。

 

「貴女と話したいことが、たくさんあります」

「はい」

「必ず無事で」

「クウィル様も」


 互いの身体が離れる。ここで別れるのかと思えば、クウィルはリネッタの手を掴まえたまま歩き出した。


「残る意思は尊重します。が、この部屋に貴女を残しておくのは嫌です」


 どこか拗ねたような口調でそう言って、クウィルが扉を開けた。

 廊下で待機していたマリウスが、一瞬の驚きと、それから安堵を浮かべる。


「ラングバート卿。このまま出るのか」


 リネッタの手を引くクウィルの手が、固く緊張をはらんだ。彼の中にある葛藤が伝わってくる。遠い昔のように思えるが、私闘騒ぎからそれほど日は経っていないのだ。


 リネッタはクウィルの手をくいっと引っ張った。琥珀の目をまっすぐ見上げ、微笑みとともにうなずく。自分は大丈夫だと。

 クウィルの目が一度閉じ、決意を宿して開いた。リネッタの腰に彼の手が添えられ、マリウスの方へと歩みを促される。


「……クラッセン卿。セリエス嬢を頼みます」


 任されたマリウスはぱっと目を輝かせた。

 だが、すぐにその顔を引き締めて、騎士礼の姿勢をとる。


「武運を」


 リネッタは慌ててマリウスの隣に並び、彼の騎士礼を真似る。

 すると、クウィルが今までにない柔らかさで笑った。そして胸のポケットから、断ち切れた誓約錠を取り出す。石が外れ革紐一本きりになってしまった錠を手に、彼はリネッタの左手をすくい上げた。


「手帳の最後の望みは、まだ貴女のお心にありますか」


 一瞬、呼吸を忘れた。

 夢のような言葉に喉の奥がきゅっと締まる。けれど涙を耐え、何度もうなずいた。


 一度切れてしまった誓約錠を、クウィルの大きな手が強引に結ぶ。こういった作業は苦手なようで、革紐は大胆な結び目を作り、リネッタの左手首にきつく結ばれた。二度と離れない。そんな強さで。


「必ず戻ります」

「大丈夫です。クウィル様。あなたは……わたしが選んだ、婚約者なのですから」


 互いのうなずきは強く。琥珀石の瞳は一度、窓の外、陽の傾き始めた空を見上げ。

 そして。

 リネッタの英雄は戦場へと走り出した。

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