満ちていく悪意

 * * *


 リネッタが聖堂へ行くと決めたのは、クウィルの謹慎が解ける前日だった。

 クウィルが聖女としてのリネッタの装いを見るのはこれが初めてだ。胸の下あたりで絞られて、そこから自然に落ちる真っ白なドレス。なんの飾りもないその装いはまるで寝衣のようでぎょっとする。


「その格好で行かれるのですか!?」

「聖堂の門をくぐるときはこうでなければ、聖剣の機嫌を損ねるのです」


 まるで気難しい子どものような言われようである。

 剣の機嫌とはと思いながら、クウィルはリネッタに腕を差し出した。仲睦なかむつまじい婚約者に見えるために始めた演出も、ようやく身に馴染なじんできた。


 中心街に近づくにつれ、刺さる視線が増える。

 いつものことだと思おうとしたが、今日に限っては、視線に非難が混じっているように思える。


 先日の魔獣騒ぎが良くない方向に作用したのかもしれない。どこからどう見ても聖女という格好のリネッタを歩かせるべきではなかった。

 帰りは馬車にして正解だったなと思いながら、クウィルは少し足を速めた。リネッタがついてこれる程度の速さに調整をしながら聖堂へと急ぐ。リネッタは押し黙って、クウィルの腕に乗せた指先に力を込めた。


 聖堂につくと、門番に鋭い目で睨まれる。門番はリネッタを急かせて聖堂へと入っていった。


 ――なんだ、いったい。


 王都では、この婚約は好意的に受け止められているはずだった。しかし、今日感じるのは間違いなく悪意だ。

 聖堂に背を向け、詰所に向けて歩き出す。すると、クウィルのそでを引く手があった。

 黒狼騒ぎの中で助けた、あの少年だった。


「良かった。無事だったんだな」

 

 ちょうどアデーレと同じ年頃の少年はこくりとうなずくと、クウィルの袖を引いたまま歩き出す。その背中に、何か焦りのようなものが見えた。

 少年に連れられ路地裏に入る。周りに人がいないことを確かめると、少年はポケットから、しわの寄った紙の束を取り出した。


「これが、町中にあって」


 まだ声変わり前の高い声が、かすかに震えている。


 紙束を広げる。全て同じ文言。走り書きのような荒れた筆跡だ。


『聖女はベツィラフトの血に汚された』


 少年は気遣わしげにクウィルを見上げてくる。紙の束は軽く二十枚を超えている。


がして回ってくれたのか」

「少ししか、集められなくて」


 クウィルは思わず、少年の頭をくしゃっと掻き回した。


「ありがとう。でも、これからは気にしなくていい。剥がして回って、きみが責められたりするのは避けたい」


 少年が大きくうなずくのを確かめて、その背中を軽く押してやる。

 クウィルは紙束を強引にポケットに突っ込み、駆け足で詰所に向かった。


 * * *


 詰所にたどり着くと、第二隊の部下たちにぎょっとした顔で迎えられた。


「隊長! 今はまずいですよ。お屋敷にいらしたほうが」

「ということは、すでに張り紙の件は皆知るところか」

「はい。魔獣騒ぎのすぐ後から貼られだしました」


 報告を聞きながら、団長室へ向かう。

 室内ではザシャとギイスが難しい顔を突き合わせていた。が、クウィルが入るなり、その顔を消す。


「なんだぁ? 謹慎中の部下の幻が見えるが」

「オレにも見えますよ。疲れてるんですかねぇ」


 ふたりの雑なとぼけ方に笑う余裕もなく、クウィルは紙束をテーブルに置いた。


「こちらに被害はありませんか?」


 真っ先に確かめたかったことだ。クウィルが何者であるかは、王都では誰もが知っている。こんな中傷が出るなら、騎士団に何かあってもおかしくない。それこそ、石でも投げ込まれるかもしれない。

 クウィルの問いに、ギイスが答えた。


「被害って言えば被害だな。第二隊長が謹慎中で人手が足りん」

「それは、討伐件数の問題ですか」

「あれから急に数が増えとる。原因はわからんが、王都周辺に集中しつつあるな」


 クウィルは紙束に視線を落とした。

 少年にこれを見せられた時、クウィルの中にはいきどおりのひとつも湧かなかった。あり得ると、そう思ってしまったのだ。


 ベツィラフトの血のせいで、リネッタの加護に悪い影響が出たのではないかと。

 突然リネッタが感情を取り戻したのはなぜか。それこそが、聖女の加護が弱まっている証拠ではないのかとも。


 ギイスがクウィルの背を叩いた。思い切り強く。回復したての傷をまともに叩かれ、クウィルはふんぐとうめきながらその場に膝をついた。


「何をするんですか!」

「辛気臭い面をしとるからだ」


 がっはと笑うギイスは、クウィルが置いた紙束を破り捨てた。床にまき散らしたものだから、ザシャとクウィルがそれを拾う羽目になる。掃除する身にもなってほしい。


「おおかたセリエス伯の差し金と思うがな。リネッタ嬢は聖堂か?」

「はい。一刻おいて迎えに行くことになっています」


 ギイスは破った紙片を拾い上げ、何やら裏側に書きつけた。それをザシャに渡す。


「レオナルト殿下にご足労願え。今日は夜会の警護のことで白騎士団のほうにおられるはずだ。最悪の場合、リネッタ嬢は聖堂を出られん可能性がある」


 先ほどの門番の鋭い視線を思い出す。ギイスの言うことが大げさとは、クウィルにも思えない。

 ザシャが部屋を出るのを見て、ギイスはクウィルの肩に手を置いた。


「クウィル。この婚約をどうしたい?」


 予想だにしない言葉に、クウィルは瞬きを繰り返した。

 ――この婚約を、どうしたいか?


「乗り気じゃなかったことは知っている。破談になって醜聞しゅうぶんをかぶっても、縁談避けになっていいだろうぐらいの気でいた。今もそのつもりなら、良い機会だと思ってな」


 何の反論もない。今になって人から聞かされれば、自分はなんといい加減な心構えで承諾したのだろうと思う。

 どちらに転んでも、縁談から、夜会から、煩わしい貴族の世界から逃げられる。王太子の言に乗って、うなずいた。

 それからの自分はどうだっただろうかと、クウィルは思い返す。安物の誓約錠を買い、初日には出迎えもせず、タウンハウスに戻ることもなければ、リネッタからの手紙には数行の近況をしたためた程度。

 あれ、と気づく。


「……かなり、ひどい婚約者だったのでは」

「今さらすぎる気付きだな、おい」


 それから、模擬戦があって。ベツィラフトの血に自棄やけばかり起こしてきた自分との差に圧倒された。あの時、リネッタという人の強さを知った。

 その強い人が、手帳に綴ってきた弱音も見た。聖女の役割に慣れたという彼女の顔に、諦めを見た。


 そして、花開く瞬間を、クウィルは見た。彼女の涙を見た瞬間、これからやっと、自分たちは出会いを始められる気がした。


 それを、こんな紙切れ一枚に邪魔されるのか。


 クラッセン侯爵の前で、自分は何を思ったか。

 リネッタ・セリエスの婚約者として、自分にはまだ力が足りないと、そう思わなかったか。


「ここで終わりにはできません。私たちはまだ、何も始まっていない」


 肩に置かれたギイスの手が、労うようにうねる。


「堅牢な氷壁も春に溶けるか」


 そこに、扉を叩きながらザシャが入ってくる。相変わらずノックの意味を成さない。

 ザシャの後ろにはレオナルトがいて、クウィルを見るなり笑みを浮かべた。


「聖女の婚約者。そろそろ乗り気になったか?」


 まるでここまでのすべてを見透かしていたかのような言葉が業腹だが、クウィルはうなずきで答えた。


 * * *


 聖堂前広場でリネッタを待つ。

 門番の視線は朝よりずっと鋭い。門前には例の紙がわざわざ貼り付けてある。広場にやってきた人々が、何かをささやいては足早に去っていく。


 針でつつくような悪意には慣れている。

 クウィルは堂々と門前に立ち、白一色の聖堂を見上げた。


 やがて、金属のこすれ合う音がして門が開く。まずレオナルトが、そして、ユリアーナに支えられたリネッタが現れる。

 ひどく憔悴しょうすいした様子に驚いて、クウィルは駆け寄った。


「セリエス嬢」


 呼びかけると、リネッタは小さく右手を上げ、すがるようにクウィルの手を取った。


「これは、いったい……?」


 レオナルトに尋ねるが、無言で返される。聖女が聖堂でおこなうことは秘匿ひとくされている。クウィルには聞く権利が無い。

 ユリアーナがリネッタの背を撫でながら、かすかに声を震わせた。


「早く屋敷に連れて帰ってあげて。今日までは非番なのでしょう? 傍にいてあげてね、お願い」


 その口調にただならぬものを感じて、クウィルはリネッタとともに馬車に乗り込んだ。


 走り出してすぐ、リネッタの指がクウィルの小指に絡まった。

 目を閉じたままの彼女の肩を引き寄せ、もたれかからせる。

 クウィルの手の中で、リネッタの左手がずっと震えていた。

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