彼方からの呼び声

 * * *


 クウィルがここまで傷を負ったのは久しぶりのことだ。突然のことだったとはいえ、市街戦の経験が浅いことを痛感する。


 聖女の加護がありながら王都に六体の黒狼が現れ、さらにはオルトスを呼び寄せた。加護の切れ間の十八年間でさえ、王都の城壁を破られたことは無かったのに。

 各地に配置された分隊から目立った報告もない。あれらの魔獣は人目を避けて王都を目指したということになる。


 これが何かの先触れでなければいい。


 タウンハウスの裏庭で、草の上に座りながら考えるには重い話だ。謹慎という名の休暇中ぐらいは気を休めるべきかと、目の前の穏やかな光景に意識を向けた。

 吸い込まれるような青空。小鳥のさえずりが耳をくすぐり、なんとも穏やかな陽気の中。アデーレと花冠を作るリネッタが、クウィルの視線に気づいて微笑む。

 その顔が、これまでの社交用と全く違う。


 切っ掛けはなんだったのだろう。侯爵邸でマリウスが起こした一件の最中さなかだ。


 初めは気のせいだと思った。リネッタがニコラのことを褒めて。その時の笑顔が作り物ではないように見えた。そんなはずはないとクウィルは一度考えを否定した。


 否定したらなぜか寂しくなった。寂しさをまぎらわすように、彼女に触れた。

 そこからクウィルの前で起きた全てが、嵐のようだった。リネッタ自身、自分を持て余して止められないように見えた。


「満開の春の花だった……」


 独り言がころんと飛び出す。詩人じゃあるまいしと気恥ずかしくなり、誰が聞いているわけでもないのに咳払いで誤魔化した。


「兄さま、どうぞ」


 クウィルの頭に花冠が乗せられる。今は庭のマーガレットが最盛期を迎えている。白い花びらが繊細で黄色い花芯が目を引く。あまり花に詳しくないクウィルだが、この花だけはなんとか見分けがつく。アデーレのお気に入りだ。


 タウンハウスで寝泊まりしてわかったことだが、リネッタはアデーレとよくこんな遊びをしている。姉ができて嬉しいと、アデーレは何かにつけてクウィルに言う。じわじわと足元を固めていくような攻め方をされているが、まだ姉ではないし、姉になると決まってもいない。


 アデーレの頭には、やや小ぶりの花冠が乗っている。リネッタが作ったその花冠には、マーガレットの他に青と薄桃の小花を編み込んである。凝った仕上がりにアデーレはご機嫌だ。


「リネッタ様はとてもお上手なの!」

「アデーレ様の作品も素敵ですよ。クウィル様の髪にとても映えます」


 その前に、クウィルに花冠という巨大な不似合いにこそ目を向けて欲しいのだが。照れくささに鼻頭を掻くと、そんなクウィルにリネッタが微笑んだ。

 やはり、そうだ。

 社交用に鍛えた作り笑いとはまるで違うものが、彼女の顔に浮かんでいる。


「セリエス嬢。その……」


 どういうことでしょうかと、尋ねるのもおかしくは無いか。それではまるで、クウィルがリネッタの感情を歓迎していないようには聞こえないか。

 問うべきか、問わざるべきか。結局クウィルは黙り込む。そんなクウィルに不思議そうな顔をして、リネッタは隣に座り込んだ。手帳を取り出してぱらぱらとめくる。


「今日は何を攻略されるんですか」

「ピクニックです」


 ほら、とリネッタが指さした先。バスケットを持ったニコラが屋敷から出てくるのが見える。


 彼女の叶えたい望み。そのうちいくつかは、まるで子どもが両親にねだるようなものだった。


 リネッタの両親は、彼女が五歳の時に亡くなっている。その後セリエス伯爵家に引き取られたが、待っていたのは厳しい教育の日々だった。木登りをする自由でお転婆な子どもだった記憶は、かすかにしか残っていないのだという。

 つらい記憶ほど、後にまでずっと残る。幸せだった日々は、ぼんやりとおぼろげになって、ただ幸せだったという感情しか残らない。うまくいかないものだ。


 ニコラが息を切らし、バスケットをどんと地面に下ろす。そして、アデーレとふたりでクロスを広げた。庭にはもちろんテーブルセットがあるのだが、ピクニックらしさを追求すると邪魔ものになるようだ。

 ニコラが軽食や焼き菓子を並べていく。リネッタがまぶし気に目を細めるので、クウィルは傍らにあった日傘を広げた。


「それではクウィル様が食べられません」

「私は後からでかまいませんから」


 すると、リネッタは、丸いクッキーをつまんで、クウィルの顔に近づけた。


「おひとつ、どうぞ」


 クウィルが空いた左手で受け取ろうとすると、リネッタは首を振った。言わんとすることを理解して、クウィルは目を伏せながら口を開いた。クッキーを歯で挟み、リネッタの手から受け取る。満足げに笑うリネッタは、指に残ったかけらを自分の口に放り込んだ。


 リネッタの右手にはマリウスがつけた傷痕がうっすら残ったまま。ラングバート家に迎え入れた日につけたあの傷は簡単に癒えたのに。

 やはりあの日を境に、彼女は大きく変わった。それでも彼女の務めは変わらない。


「……もうすぐ、聖堂へ行くことになります」


 聖剣が呼ぶ。リネッタにしか聞こえないその声が大きくなると、彼女は聖堂に向かう。

 徐々に空けていくと話していた間隔は、一向に広がる気配が無い。週に二度、彼女は今も聖剣の元へ通い続けている。


「聖堂では、儀式のようなことをなさるのですか?」


 何気なく尋ねると、リネッタの肩がぴくりと跳ねた。


「そう、です。聖剣を鎮めるための、儀式のようなものを」


 聖女の儀式は口外を禁じられているものだ。だから、こんなに足しげく通うリネッタが何をしているのか、具体的なことをクウィルは知らない。これまでは、彼女の顔が何も語らないから気に留めなかった。

 こんなに苦い顔をして聖堂へ向かうのかと、今は知ることができる。


「次に行かれるときは、聖堂までお送りします。行きは歩いて。帰りは馬車で。お勤めの間、私は騎士団に顔を出そうと思いますし」


 リネッタは左手を上げた。そこに、微笑みを足して。

 彼女の手首に揺れる誓約錠が、どうしてか急に頼りなく思えた。

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