第一章 革紐の誓約

血を流す婚約者

 ラングバート家のタウンハウスに顔を出したのはいつぶりのことか。


 王都の外れという立地の悪さと、クウィル自身の居心地の問題で滅多めったに帰らない。騎士宿舎に割り当てられた部屋ひとつで満足に暮らしているのに、広々とした居室は落ち着かない。

 最後に夜会絡みで呼ばれたのが秋の終わりだったように思う。塀の向こうに揺れるマロニエが薄桃の花をつけている。いつの間にか春だ。


 クウィルが屋敷に入るなり、耳にカンッと痛い怒鳴り声が飛んできた。


「もう! どうしてこんなにお戻りが遅いのですか!」


 エントランスホールすぐの階段の上からニコラが吠える。

 屋敷にいるものは家令からガーデナーまで等しく家族。そういうラングバート家の伝統で、ハウスメイドながらクウィルにとって姉のようなニコラだ。


「何か問題が? 夕食に間に合うように戻ったじゃないか」

「何か、じゃ無いんですよ! こんな大事な日に、何だってクウィル様は騎士団に顔をお出しになるんです?」

「騎士だから、だが」


 アイクラント王国の黒騎士として、一隊を任される身のクウィルだ。日々の務めを果たしてなぜ責められるのか理解に苦しむ。

 しかし、ニコラはクウィルの返答がどうにも気に入らないらしい。もぉぉと右こぶしを上下させた。


「今日はお休みで構わないはずでしたでしょう?」

「構わない、は、休めではないだろう」

「それは遠回しの休めなんですって。クウィル様、ご自身の婚約者様をお迎えする日ですよ? とっくにお着きなのですよ!」


 ニコラは階段を駆け降りると、クウィルの背後に回り込んだ。そして顔を赤くしながら背中を押し始める。そんなことをしても体格差がありすぎて、クウィルの身体はぴくりとも動かないのだが。


「いいから! お早く! 聖女様はもうお部屋でお待ちなのですっ」

「部屋って、まさか私の?」

「何考えてらっしゃるんですか、聖女様のですよ! 神殿からこちらに住まいを移されるってお話、旦那様からのお手紙が届いてますでしょう!」


 そうだったか、とクウィルは記憶を解きほぐす。しかし、即座そくざに諦めた。山積みの手紙のどれかがそのしらせだったのだろう。魔術書の下敷きになったかもしれない。しおりに使ったような気もする。なんにしても、すでに進行した事態だ。今さらクウィルが抗議してもどうにもならない。


 早く早くとき立てられて、仕方なく階段を上る。そもそもニコラの話が長いせいで足止めを食ったのだというのは、思うだけで口にはしない。とにかく今日のクウィルがやるべきは、顔を合わせ、夕食をともにし、これからよろしくとひと声かけること。これでおおよその役割は果たせるはずだ。


 くだんの聖女は階段を上がって最奥、クウィルの寝室の隣に通されたらしい。よりによって隣室かと思わなくもない。が、クウィルは明日からまた騎士宿舎に閉じこもるので、これも大きな問題にはなるまい。


「聖女様、ニコラです。クウィル様が到着なさいましたよぉ」


 声掛けに、室内からガタンという物音が聞こえた。

 クウィルは腰に下げた剣に手をかけた。ぎょっとした顔のニコラを下がらせて、扉を押し開く。


 室内には、婚約の打診からひと月足らずでよくぞここまで整えたという家具や調度ちょうど品。った意匠いしょうの鏡が目を引く。天蓋てんがい付きのベッドがしっかり間に合っているところに、ラングバート家の本気がこもっている。クウィルの結婚を半ば諦めていた母だけに、この機を逃したくないのだろう。


 鏡台の前に座る女の、シルバーブロンドの長い髪が揺れた。高級な糸を束にしたように光の帯を波打たせ、彼女はクウィルへと振り向いた。

 陽光ようこうを知らぬほど白い肌に、深い海の青を思わせる瞳。ふっくらとした唇。


 美人。それも、たいそうな美人。


 クウィルは婚約者をそう判定した。噂はあくまでも噂、聖女なのだから過剰にもてはやされることもあるだろうと思っていたが。この容姿なら聖女でなくとも美人と社交界で評判になりそうだ。


「きゃぁぁぁ!」


 甲高いニコラの悲鳴がクウィルのすぐ後ろで上がる。


「す、すぐに! すぐに手当ていたしますから!」


 バタバタと駆けていくが、あれでニコラは優秀なメイドである。まだ年若くとも、聖女の身の回りをニコラが任されると聞いてクウィルは安堵したものだ。任せっきりでも大丈夫、という意味で。


 そんなニコラが落ち着きなく部屋を出ていくのも無理はない。クウィルにも、目の前の婚約者が何をしているのか全く理解できない。


 真っ白な両腕を肘まであらわにして、右手には小さなナイフを持って。

 左手の親指から流れ落ちた血が、腕をつたって赤い線を引いている。ナイフを持ったままの右手首を左ひじの下に当てているのは、血が床に落ちないようにという配慮だろう。


 そんな光景を前にクウィルの頭に浮かんだのは、自傷じしょう


 望まぬ縁談に耐えられずに、ということか。だが、そもそもこの縁談を持ち込んだのは彼女自身だと王太子は言った。

 いざ来てみれば未来の義両親、あるいは部屋が気に入らず?

 あるいは、立地。タウンハウスは王都の商業区からは遠く、緑は多いが華やかとは言いがたい。

 あるいは、メイドが気に入らないか。ニコラは優秀だが、落ち着きなく見える面があるのは確かだ。


 まとまりの無い思考のまま、おのれの婚約者に近づく。

 ハンカチーフを取り出して彼女の肘から手首へと血を拭い、出どころである左手を軽く包んだ。


「リネッタ・セリエス嬢でよろしいですか」

「はい。間違いございません」


 なんということだ。声まで聖女か。

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