誓約の証
控えめで耳に柔らかい彼女の声に早くも気後れする。
リネッタがナイフを鏡台に置く。それを確かめてから、クウィルはハンカチーフを慎重に開いた。白い親指の腹に傷ができている。
うっかり手が滑ったなどと思えない傷の深さ。ナイフを彼女が持ち込んだにしろ、ニコラに用意させたにしろ、間違いなく意図的に傷つけようとしたものだ。
クウィルは彼女の傷口にハンカチーフを巻きつけようとした。そこで、はたと気づく。
血が止まっている。
もう一度確かめると、深く裂けていた傷が、端からゆっくりと消えていくのが見て取れた。
「これは……?」
すると、リネッタはこちらの手を遠慮がちに振りほどいた。そして右手で負傷を
面倒だなとため息をこぼして、クウィルは問いかけた。
「どういう状況なのか、お聞きしても差し支えない?」
「確認をしておりました」
「……はい?」
「傷がふさがるかどうか。聖女を務めていた間は、こうして傷をつけてもすぐにふさがりました。では聖堂を離れた今はどうなるのかと。自分で自分の身体のことがわからないままでは、ラングバート家の皆様にご迷惑をおかけしますので」
筋は、通るような。
なるほどと、納得半分ほどで
どういうことだ、と。クウィルは婚約者の顔を
「そんな表情を……お持ちなのですか」
無意識に飛び出してしまった言葉にハッとして、慌てて口を覆った。あまりに礼を欠いた言葉だ。
だが、動揺はおさまらない。目の前にいる婚約者が笑うなどと思わなかったからだ。
聖女は、感情を持たない。
二年の巡礼でアイクラント王国は
喜びも悲しみも手離して、ただそこで息をするだけの人形姫。その
しかし、その人形姫は微笑みのままにうなずいた。
今度は右手の指先をそろえて
「社交に必要な表情は練習してまいりました。記憶を失ったわけではありませんので、経験と
「社交、ですか」
返答に詰まる。
そんなクウィルの
「存じております。クウィル様は伯爵家をお継ぎにならない。だから、社交に出るおつもりはない、ですね?」
「そうです」
爵位は兄のラルスに。将来的には
社交はうなずけない。人を招いて酒を
リネッタの努力を軽んじるようで、申し訳ないとは思う。だが、作り笑いを必要とするような役割を彼女にさせる予定はない。
「ご安心ください。これは、クウィル様との社交に使うためのものです」
「俺との、社交……ですか」
「この先ずっと人形を相手にするのでは、気が
「作り笑いを貼り付ける
「滅入るほどの『気』がありません。
気持ち悪い、と。クウィルは婚約者から目を
王太子の話を承諾したひと月前の自分を殴りたい。感情の無い人形姫が相手ならば自分にも婚約者の役をこなせるだろうなどと、考えが浅すぎた。
だが、事態はすでに進行した。ここで
騎士服の裏にしまっていた薄い木箱を取り出す。
中には
結婚には指輪を。婚約には
誓約錠は婚約の際、男から女に贈る
切れてしまう可能性もある輪だからこそ、装飾に金をかけて愛情やら誠意やらの
誓約錠にも流行がある。
だが、クウィルが選んだのは青の石のみ。自分の瞳、血を思わせる暗赤色を腕に飾られる様子を想像するだけでげんなりする。
幸いリネッタは箱の中を見ても、喜ぶでも気落ちするでもなく、ただ黙って左手をこちらへと差し伸べた。
実に事務的で、話が早くて助かる。
これを巻けば婚約は成立する。どのみち後戻りはできないのだと覚悟を決めて、クウィルは彼女の左手を取った。細い手首に革紐をくるりと巻き、少しゆとりをもたせる位置で銀の
「な、なななななな」
背後から、舌が
振り向くと、傷の手当てのために木箱を手にしたニコラが、眼球がまろび出そうなほど目を開いて立っていた。
「クウィル様! 正気ですか!」
「何がだ?」
「よ、よりによって、こんな安――」
安物を、と。ニコラが言葉
安物であることはクウィルも承知している。装飾品店の店主からは何度も確認された。
「すでに、婚約は決定事項だ。だったら誓約錠は形式だけのこと。大層な品で浪費するのは無駄だろう」
わなわなとニコラが肩を
「お
「充分冷えていると思うが。今日はそんなに暑くもな――」
「いいえ、クウィル様は女性のお気持ちをもっとお考えになるべきです!」
バンと背後で扉が閉まる。強引な閉めだしに
我が婚約者に、気持ちはないだろう、と。
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