琥珀色の騎士は聖女の左手に愛を誓う

笹井風琉

プロローグ

聖女の婚約

 聖女に見初められた男は、果報者かほうものと呼べるだろうか。


『ラングバート伯爵家次男クウィルを、今代聖女リネッタ・セリエスの婚約者に指名する』

 たった一文の記されたその紙が、全ての始まりだった。


 クウィル・ラングバートは、手渡された紙に視線を忙しく走らせ、胸の内で動揺と戦っていた。真正面に座した王太子レオナルトの微笑が憎らしい。レオナルトのこの顔が、覆せない決定だと物語っている。


「私は、いつから王族の仲間入りを果たしたのでしょうか」

「さて、ラングバート伯爵家が次男を手離したという話は聞かないな」

「殿下。刺しますよ」

「まぁ待て。納得のいく説明はする」


 レオナルトは執務机に積まれた紙の山の天辺に手を乗せた。


「これは何だと思う?」

「裁可待ちの書類ではないのですか」

「アイクラントの民の声だ」


 上の一枚をめくって、レオナルトがクウィルの眼前に掲げた。

 書かれているのは、どこぞの領主を経由して上奏じょうそうされた、国民からの抗議である。現アイクラント王は広く民の想いを聞きたいと、月に一度こうして声を集めている。

 さて、その内容はといえば。聖女、リネッタ・セリエスの婚姻に関するものである。


 聖女は十六歳で星に選ばれ、聖剣とともにアイクラント王国の四つの神殿を巡る旅に出る。ひとつの神殿につき半年、浄化の祈りを捧げる。二年間の浄化の旅をおさめると、魔獣の荒い気性が鎮められ、アイクラント国内での狂化魔獣による被害がぐっと少なくなる。


 二年間の役目を終えた聖女は、継承権二位以下の王族、あるいはその縁者に嫁ぐ栄誉を与えられることになっている。


 ところが、今目の前にレオナルトが見せるこの紙山だ。

 いかに伝統といえ、十八歳の聖女を今の王家に嫁がせるのはいかがなものか。そういったことが書いてある。

 王家に信が無いということは断じてない。現王は歴々の王のなかでも高い支持を得ているはずだ。

 逆に、聖女に信が無いということもない。聖女はアイクラント王国において、ときに王家よりも尊ばれる。

 ではこれはどういうことかと、クウィルは首を傾げた。


 レオナルトは右手の指三本を立て、端から順にくいっと折った。


「継承権二位。俺の可愛い弟はまだ八歳だ」

「もちろん、存じております」


 レオナルトの弟、フェリクス。可愛いという評価はこの兄の贔屓ひいきでも誇張でもなく、真実可愛い。蜂蜜を少し焦がしたような髪をあごのあたりでぱつんと切り揃えたあの姿は、もう妖精の血が流れているに違いないとクウィルも思う。歳のわりにしっかりとしていて、さすが王家の教育は行き届いていると評判だ。


「三位。ブロックマイヤー公は既婚、三十五歳。四位、アイヒベルク公は……あれ、幾つだ? じいさん、そろそろ四十近いのか?」

「御年三十八です。じいさんとお呼びするには早すぎるかと。殿下、お話が見えません。そもそもフェリクス殿下を候補から外される必要がないのでは」


 上位貴族の婚姻に、年齢などあってないようなものだ。既婚のブロックマイヤー公爵はさておき。アイヒベルク公爵との差二十歳……はよくあることと言うには苦しいか。しかし、八歳のフェリクス殿下ならば十歳差。天使のような愛らしい殿下だ。成長していく姿を隣で穏やかに見守る日々。クウィルには、悪くない暮らしに思えるのだが。


「旧派全盛の頃とは違う。あまりに差がついた相手というのが、まぁ、今どき流行らない」


 アイクラント建国以前より貴族として仕えた家を、旧派という。


 家柄と血統を重んじる旧派が勢いを無くし、実力主義の新派が政治中枢を握って久しい。新派とて家格を軽んじはしないが、それよりも、精神的に良き婚姻をという風潮が強くなりつつある。


「相性を重んじた結果として年齢差が出てしまうのは、むしろ深愛として歓迎されると聞きおよびますが」

「そこに本人の意思があればな? 聖女の場合は違う。王家の一方的な決定だ。自ら選んだわけでもないのに十だの二十だの離れた相手に嫁がされるというのが、世間受けが悪い」


 根拠はわかった。だが、なるほどとはならない。

 フェリクスで問題になるなら、クウィルだって問題になる。二十五になったばかりのクウィルである。七歳差も十歳差も周りから見ればたいして変わらない。

 こちらの疑問を見透かすように、レオナルトが笑った。


「適任者がいないなら、いっそ、本人に選ばせてはどうかとなってな」

「はぁ」

「聖女本人に、縁を結びたい相手がいないか尋ねてみた」

「はぁ」

「で、彼女が選んだのがクウィル、おまえだったというわけだ」

「……ぅうん?」


 レオナルトの提示した根拠は、最終段でクウィルの理解の外へと羽ばたいていった。

 浄化の巡礼には、白の騎士団から精鋭が選ばれ同行する。白騎士は貴族の警護や式典で活躍する華やかな騎士である。

 クウィルが所属するのは黒の騎士団。聖女が代替わりして浄化を終えるまで、魔獣を抑える最前線に立つ。また浄化の後も、聖女の加護をすり抜けた魔獣を討伐する。

 黒騎士のクウィルは、聖女に会ったことが無い。


「人違いではありませんか?」

「俺もそう思って、騎士団の修練場でこっそり確認させた。琥珀こはく石の瞳に黒髪。他にいない」

「私の瞳は琥珀石ではありませんが」


 琥珀石は確かに多様な色を持つ石だが、一般的には黄色から橙色だろう。

 だが、クウィルの瞳は暗赤色あんせきしょく。高価な琥珀は確かに赤が強いが、この虹彩こうさい禍々まがまがしいほどに赤すぎて琥珀と呼べない。柘榴ざくろ石と言われたほうが納得できる。


「それを琥珀だと彼女は言い張る。顔も確認したぞ? 手違いが無いよう、おまえのことはラングバート家のことも含めてきちっと説明している」

「それでも、セリエス嬢はかまわないと?」


 レオナルトはうなずいて、切り札でも出すように真剣な顔をした。


「なぁ、クウィル。これで縁談から解放されるぞ?」


 その瞬間、良い風が吹いた。

 クウィルの心中に、だ。

 売れ残りの二十五歳に山と積まれる釣書つりがきを、片端からちらりとのぞいては破棄する罪悪感。夜会に出ては品定めのねっとりとした視線に耐え、好奇心の透けた笑顔に応じ、会話に邪魔されて食べ損ねた肉を思って腹を鳴らすひもじさ。とんでもなく上等な酒を味わうどころか酔いもできず、その夜夢の中で樽ごと浴びる満たされなさ。


 縁談から、夜会から、解放される。


 後から思えばあまりに軽率で、相手に対して不誠実きわまりない思考だ。

 けれど、このときクウィルはあっさりと流された。どうせ王命では簡単に断れないというのも、背中を押した。


「受けるな?」

「拝命します」


 まるで騎士の任命を受けたかのようなクウィルの返答。この結果を見越していたかのように、レオナルトがにんまりと目を細めた。


 こうしてクウィル・ラングバートは、自由の身となった元聖女、リネッタ・セリエスを婚約者として迎え入れることになった。

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