8、騎士団の桜

 きっと、帝国騎士団の歯車が狂い始めたきっかけは、六年前のあの日からだ。

 まだ歳が二桁にもなっていないからか、たった二つばかり年上のサフィー兄ちゃんですら遥かに大人に見えていたあの頃。


「そこまで!!」


 稽古場でアル姉ちゃんの声と共に、上がった息を落ち着ける。


「今日のは悪くなかったぞ、アイン」


 俺の竹刀が弾かれ、サフィー兄ちゃんの竹刀が腹を突いた。

 いつ見ても、その太刀筋が分からない。一回の踏み込み、突き出しも一回。なのに剣先が分かれたみたいに三度の衝撃が走る。


「はぁはぁ……嘘だよ……はぁはぁ……十戦中三本しか取れなかったし」

「二つも年上の俺が相手にしてるんだ、十分だ」


 集中力から開放されて破れそうな心臓を落ち着かせるために倒れ込む俺に対して、兄ちゃんは軽く呼吸を整えている程度だ。

 流石は十歳にして、他の騎士たちを抑えて一番隊隊長に選ばれている天才剣士。


「サフィールからそれだけ取れれば上等だ。現にサフィールよりも一回りも年上の他の隊士のほとんど一本も取れておらん」


 姉ちゃんは俺達の試合を観戦していた隊士達を一睨みで背筋を伸ばさせる。


「流石は俺の副官だ」

「えへへ……アル姉ちゃん、ありがとう」


 さっきまでの『鬼』と呼ばれている副長としての一面もかっこよくて好きだけど、兄ちゃんとの稽古の後に俺の頭を優しく撫でてくれるときの優しく微笑む姉ちゃんの方が大好きだった。


「サフィールも、うかうかしていれば騎士団最強の座も危ういぞ」

「勝ったの俺の方なんだけど、厳しくないですか」

「お前は可愛げがないからな」

「そーですか」


 兄ちゃんが不貞腐れる。そんな様子を見ているといつも、真っ先にあの人がやってくる。


「もう、アルったら。サフィーだって頑張ってるのに可哀そうじゃない。サフィーもアインもお疲れ様。お水持ってきてるわよ」


 その人は、とても騎士らしい見た目じゃなかった。

 いや、これはけなしているんじゃなくて、野蛮な騎士という獣の群れに舞い降りたひとひらの花弁の様な人だ。と兄ちゃんはいつも褒めていた。


「俺が優しくしなくても、セラが甘やかしてしまうからな」

「甘やかしてないわよ。あ、サフィー、汗だくじゃない、汗拭いてあげるからこっちおいで」

「じ、自分で出来ますから」


 猫みたいに逃げようとした兄ちゃんはあっさりセラ姉に捕まって頭をわしわしされている。満更そうでもない。

 セラ姉は、帝国騎士団総長にして三番隊隊長。騎士団のナンバー3。

 兄ちゃんは何処で覚えたのかも分からない語彙で度々褒め称えていたけど、俺の言葉では長い山吹色の髪が良く似合う線の細い、それこそ花に例えられるような人だったなとしか言えない。

 あと、お淑やか。


「あ、そうだ、みんな疲れてるでしょ、お弁当持ってきたから休憩にしましょ?」

「セラね……総長、お気遣いありがとうございます」

「みんなの前だからって恥ずかしがらなくても、普段通りセラ姉さんって呼んでくれていいのよ」

「総長!」


 今更、恥ずかしがることもないのに。

 今も昔も色んな意味で兄ちゃんが勝てない唯一の人だったと思う。

 シン兄なら、サフィー兄ちゃんにも剣で勝てる時もあるけど、穏やかそうな振る舞いからは信じられないくらいに剣の腕も立つ。

 なんたって、団長や副長を差し置いてその功を皇帝陛下に称えられ直々に国宝『翠嵐』を賜った程だ。


「どう? 今日はね、新鮮な鮭が市場で買えたから美味しいでしょ?」

「まあ……美味しいですけど」


 みんなで弁当を囲むとき大体いつもセラ姉の隣の一方には必ずアル姉ちゃんが座る、その反対隣を他の隊士が近づかないようにサフィー兄ちゃんが陣取るのが定位置だ。

 そのクセに兄ちゃんはつっけんどんな態度を取っている。


「兄ちゃんも素直になればいいのに」

「年頃だからな……アインはいつまでも今のままでいてくれよ」


 俺の定位置はアル姉ちゃんの隣、大体、俺の好物を取り分けてくれるし、眠たくなったら膝で寝かせてくれる。


「セラちゃんに掛かれば、天才剣士も手玉だねぇ」

「ギュスタヴのおっちゃん、いつからいたの?」

「ついさっき、机仕事が終わったから合流したのよ」


 おっちゃんは掴みどころがない人だし、今更神出鬼没度合いには驚かない。


「まったく、おじさんもサフィーちゃんやアインちゃんくらい若ければ。『おねぇちゃーん』って甘えられたのに……」

「一回りも下の女を姉呼ばわりする四十路は流石にきついっす」

「アイン確か、まだ留置場は空いていたな」

「冗談よ……セラちゃーん! 副長が虐めるよ!」


 おっちゃんは見苦しいウソ泣きでセラ姉にすり寄ろうとすると、ジャキンと抜剣の音が響く。


「冗談でも、その酒臭い手で姉さんに触れるなよ……」

「サフィー、稽古場で真剣を抜くのはご法度よ」


 セラ姉はサフィー兄ちゃんを静かに嗜めると、今にもおっちゃんの首に振り降ろさんとしていた剣を納める。


「申し訳ございません、総長」

「ちゃんと言うことを聞けて良い子だねサフィー、ギュスタヴさんも悪ふざけはほどほどにお願いしますね」

「ちょっとおふざけが過ぎただけじゃ……」

「お願いしますね」

「はい……ごめんなさい」


 セラ姉に叱られた二人はシュンとしてしまった。どうしてだろう、反省して縮こまっているのは同じなのに片方にはちっとも不憫に見えない。


「サフィー、きつく叱ってごめんね、もう怒ってないからこっちにおいで」

「大丈夫です、総長。巡回に行ってくるので。お先に失礼します、ごちそうさまでした」


 そう言い残して、兄ちゃんは少し寂しそうなセラ姉に振り返ることなく、ほんの少し、セラ姉の弁当を残して行ってしまった。

 本当に兄ちゃんは素直じゃない。

 

 いつものことだった。そう、何でもない、いつもの屯所での一場面。 腹も満たされ温かな陽気にあてられた微睡みの中、縁側から見える散り始めた桜が嫌に印象に残ったそんな春の日だった。



「満足したか、セラ」

「ええ、ありがとう。私のわがままに付き合わせて」



 俺はそんな会話に、小さな違和感を見ないふりして、瞼を閉じた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「先日、セラ・フォーマルハウト総長から騎士団を脱したいと申し出があった」


 それは、その日の夕刻に行われた隊長会議でのことだった。

 副長の開口一番に、その場にいた団長と参謀、そしてセラ姉以外の全員に戦慄が走った。


 騎士団法度

 一つ、『団ヲ脱スルヲ不許団を抜けることを許さず


 それを知らない者がこの場にいるはずもない。

「相違ないな? セラ」

「ええ」


 淡々と話す副長とセラ姉に俺は動揺を隠せないでいたが、この中で一番狼狽えていたのは、サフィー兄ちゃんだった。


「副長……待ってください」


 サフィー兄ちゃんは立ち上がり縋るように声を上げた。

 いつでも仏頂面で毅然とした佇まいの兄ちゃんの声が、誰が聞いても分かるほどに震えている。


「サフィール。発言は許可していない」

「セラ姉さん……なんで!? 何かの間違いだよね? ねぇ!?」

「サフィー」

「何とか言ってよ! 姉さん!」


 周りの目も見えなくなったように、声を荒げ疑問を投げかける声には耳を塞ぎたくなった。


「サフィール! 発言を控えろ!」


 それまで何かを噛み殺すような表情で忍んでいた団長の怒号が一瞬の静寂を生んだ。

 それは、とても残酷なことだった。

 聞き間違いとか、冗談とか、そんなものではなく、セラ姉は『騎士団を脱ける』と団長らに申し立てた事実を突きつけた。


「兄ちゃん……」


 サフィー兄ちゃんは愕然として、膝から崩れ落ちる。

 叫びたいだろうに、ただ唇を噛んで、零れる涙をこらえる様に項垂れる姿には目を覆いたくなった。


「再三に渡る団長並びに副団長、参謀各員の思い直しの提案を受けて尚、その意思を翻すことがなかった」


 あぁ、これは、会議の場での審議や採決じゃない。

 決定事項の通達なんだ。


「よって、騎士団法度に則り、セラ・フォーマルハウト総長を騎士道不覚悟とし、切腹を申し渡した」

「……っ!」


 ぐずぐずになった顔を上げた兄ちゃんは、セラ姉から視線を外そうとしなかった。

 セラ姉はただ黙って、いつもの稽古で頑張った兄ちゃんを褒めるのと同じ穏やかな微笑を送った。


「本来なら昨日中に会議で通達し一晩牢で勾留の後、厳粛に切腹を執り行う予定であったが、総長の最期の願いを聞き入れ、私自ら監視の元、一日の自由を与えた」


 一体、セラ姉は今日と言う日を、どんな気持ちで過ごしていたのだろうか、自分の人生最後の日を、どのように過ごしたかったんだろう。

 俺達は、きっと明日もセラ姉がいてくれると信じていたのに。


「今晩、零時に切腹を執り行う。隊長各員は必ず出席せよ。本日の隊長会議は以上だ」


 そう言い残し、アル姉ちゃんは厳格な面持ちで会議室を出ていく。

 最初からこのことを知っていたであろう団長と参謀が続いていき、取り残されていた隊長達やあまりにも急なことに副長に付き従って出ていくはずだった俺も動けないでいた。

 しばらくしても、誰一人として口を開くことなく重たい空気の中、最年長のゲンさんがようやく出て行くと、一人一人、まばらな足取りで自室へと帰って行った。たった一人、サフィー兄ちゃんを残して。


「兄ちゃん……ここにいても仕方ないよ」


 俺も当然ショックを受けている。けど、間違いなく一番悲嘆に暮れているのは兄ちゃんだ。


「アイン……少し放っておいてくれないか」


 他の隊長たちはセラ姉に一番懐いていた兄ちゃんに気を使ったのだろう。本当に実の姉のように慕っていた彼女が、道場の頃からずっと一緒だったセラ姉が粛清を受ける事実を、たった九つだった兄ちゃんがどうやって受け止めればいいんだって話だ。

 もし、俺が逆の立場だったら。

 もし、アル姉ちゃんが粛清を受けなくちゃならないとなったら、俺はどうすればいいんだ。


「アル姉ちゃんのとこに行こう。最期に話だけでも出来るようにお願いしに行こうよ」

「今更、何を話せって言うんだよ! あの時、姉ちゃんがどんな思いで、俺達と弁当食べてたのか知りもせずに、俺は……俺は……!」


 多分、初めて、本当に初めて声を荒げた兄ちゃんの姿に、その剣幕に俺は思わず泣きだしそうになった。

 それでも。


「それでも! このまま、セラ姉とお別れでいいの? もっと話したいことあるはずでしょ! もっと一緒にいたいでしょ!? 絶対に俺が、アル姉ちゃんを説得するから、最期に話だけでもしてよ!」


 ただ、俺は、俺ならきっと、最期に少しでも大切な人とは一緒にいたいと願うはずだと。

 その時は、間違いなく思っていた。


「俺……姉さんとの最後の思い出をあのままにしたくない……!」


 どこまでも真面目な人だ。

 自分がへそを曲げてしまったことを、ずっと気に病んでいた。


「任せて!」


 俺はその時、初めて兄ちゃんと自分を重ねてしまっていた。

 たった一つの決定的な違いに気が付かないまま。


「刻限の三十分前までだ」


 副長はセラ姉の自室の前にいた。


「え?」

「なんだお前ら、その意外そうな顔は。俺もそこまで鬼ではない。だが、俺は部屋の前で控えている。おかしな真似をすれば、サフィール、お前もまだ子供とは言え容赦はせん。それだけは覚えておけ」

「わかりました」


 安堵した様子のサフィー兄ちゃんは頭を下げて、セラ姉の部屋へ入れて貰えた。


「アル姉ちゃん、ありがとう!」

「アインは私と共に部屋の前で見張りだ、聞き耳をたてるなどという野暮なことはするなよ」

「分かってますよ!」


 刻限までおおよそ一時間。

 それが、最後の時間として短いのか長いのか分からない。

 ただ中で二人がどんな話をして何があったのかは、二人にしか知りえない。

 ただ、そんな永遠に続いてほしい一時間のほんの一瞬にアル姉ちゃんとした会話が鮮明に思い出される。


「もし、俺が切腹せねばならないとなったら、お前はどうする?」

「……それ、俺も同じこと考えてました」

「そうか、で、どうする?」

「本当のことは、その時にならないとわからないです。けど……きっと兄ちゃんと同じように、泣きながら最期の最期まで一緒にいたいです」

「そうか……そうか……なら、俺も、そうならないように引き締めないとな。お前まであんな顔をさせるわけにはいかんからな」

「もし、そんなことになったら、めちゃくちゃに泣いて離れてやりませんよ」

「そんなことを胸を張って言うんじゃない」


 俺達はただ静かな廊下から、庭に咲く散り始めた桜を眺めながら、そんな『もしも話』で、言いようの無い胸の鉛を誤魔化していた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「副長、ありがとうございました」

「もういいのか? 時間きっかりだが、もう少しゴネるかと思ったぞ」

「大丈夫です。話は済みましたから」


 そう言って、幾分か落ち着いた様子の兄ちゃんの手には一振りの剣が握られていた。


「それは……」

「『翠嵐』です」


 セラ姉が下賜された国宝『翠嵐』、それを託されたということだろうか?


「……良いのか? サフィール」

「はい、これが総長からの最期の命令です。そして、俺のわがままです」 

「…………サフィール、お前まで変わることはない」

「変わりませんよ。これからも、俺は騎士道を貫きます。そのために通す筋です」


 俺は二人が何を話しているか、分からなかった。

 ただ一つ分かるのは、ほんの一時間前に泣きじゃくっていたサフィール兄ちゃんはもういなくて、俺の目の前にいる兄ちゃんが酷く落ち着いていること。


「俺にやらせてください」


 そこでようやく、思い出した。

 隊長格の切腹なんて今までになかったから、その時まで気が付きもしなかった。

 皇帝の御命で設立された騎士団での切腹の介錯は、陛下による直々の裁きに代わって皇帝の所有物である『翠嵐』で行われるということを。


「兄ちゃ――」

「いいんだ、アイン。二人で決めたことだから」


 部屋を出てからようやくちゃんと見えたその瞳は暗く澱んで見えた。


「これが、姉さんと最期の一瞬まで傍にいられる方法なんだ」


 本当の本当に、最期の最期まで少しでも一緒にいられるように。そのために、兄ちゃんは俺とは違うところに行ってしまう。

 ほんの少し同じに見えた思いは決定的に違っていて、俺には抱けない。


 最愛の人を、自ら手にかけようなど。



「三月二十日、総長兼三番隊隊長セラ・フォーマルハウトはこの度、皇帝陛下より賜った帝国騎士団の任を遂行し続けることを拒み、騎士道並びに御命に背いた事実を認め、自刃にてお詫び致します」

「セラ、最期に言い残すことはないか?」

「遺言はしたためてあるんだけどなぁ……そうだね……三番隊隊長の後任にはアインを指名してます。まだまだ若いけど、みんなで支えてあげてね」


 とても重要な、俺にとって重要なことなのに、自らの死を前にその凛とした佇まいを崩さないセラ姉の姿に息をのんでいた俺は何も反応できなかった。


「総長の後任はアルターに任せています。こっちの方は私より彼女の方が向いているから。そして、私の特務を……」


 セラ姉は隣に立っているサフィー兄ちゃんににこりと微笑む。


「見て貰ったら分かるようにサフィーに任せました。だから……」


 その瞬間だけ、セラ姉の溢れそうな感情が零れた。


「サフィーを困らせないように皆で仲良く、喧嘩しないでね」


 幼い俺達は教えてもらっていなかった、翠嵐を与えられた騎士の団内の粛清の特務。

 今なら、どうしてセラ姉が騎士団を脱退しようという決断に迫られたのか理解できる。

 そして、セラ姉の重責なんて知りもしないでのうのうと剣を振っていた昨日までの自分を消し去りたくなった。


「こんなものかな。じゃあ、お願いねサフィー」

「姉さん……今までありがとう……」


 そして、最後に二人だけでセラ姉と兄ちゃんは何か言葉を交わしていた。

 それは、最期まで添い遂げることを選んだ二人に許された、一瞬。



「愛してるわ。サフィー」

「大好きだよ。姉さん」

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