第一章③

 うどん屋が教えてくれたのは、両国橋を渡った先にあるほんじよあいおいちようの裏長屋だった。

 なかば傾きかけたむねわり長屋を前に、菊乃は放心して立ちつくす。

(こんな寂れた長屋に善太郎が……?)

 部屋のそばにあるかわやからきつい肥の臭いがただよってきて、くらりとなった。あのときは善太郎だと確信したが、こんな貧しい暮らしをしているなどにわかには信じがたい。

 だが、ひるんでいる場合ではない。菊乃は意を決し、すうっと息を吸いこんだ。

「たのもーう!」

 声を張りあげる。返事はなかった。しかたなく入り口の腰高障子を引くと、思いがけず勢いがついた。ガコッという音とともに障子が溝から外れ、ほこりをあげて土間に倒れる。

「いかん、力加減がよくわからんぞ……」

 薄暗い室内では、善太郎があぐらをかいた姿勢のまま凍りついていた。「なっ」と我にかえり、手のひらに載せていた小さなきんちやく袋を慌ててそでのうちにしまう。

「なんだ、なぜ先ほどの娘がここに……それより、なぜ戸を壊した!?」

「ゆるせ、壊すつもりはなかった」

 菊乃は障子をひょいと持ちあげ、溝にはめる。

「なんの用かも、どこで俺の幼名を知ったかも知らんが、さっさと去れ!」

 幼名。やはり善太郎でまちがいないのだ。元服し、どのような名をもらったのかはわからないが、まぎれもなく本人。──なんという、体たらく!

「これはいったいどういうことか。おぬしの父は、おぬしがこのようなところにいることをゆるしはしないはず」

「俺の父がなんだと言うのだ。おのれまさか、まだ俺の母などと言うのではあるまいな」

「母だっ」

 善太郎は土間に下りてきて、菊乃のえり首をつかむと、腰高障子を開けはなって外に放りだした。勢いあまってしりもちをつく菊乃の前に、善太郎が恐ろしい顔でおう立ちする。

「どうしたわけで、そんな馬鹿げたことを言っているかは知らぬが。いいか、俺に母はいない。俺は木のまたから生まれたんだ」

「母はいない? 木の股? なにを言っているのだ、善太郎」

「気に食わないか。なら、これならどうだ。──母は卑しい畜生だ。畜生の子たる俺もまた畜生だ! わかったら消えろ!」

 ぴしゃりと鼻先で障子が閉じられ、菊乃はただあつにとられた。


 裏長屋をあとにした菊乃は、黄昏たそがれが迫る通りを影を引きずって歩いた。

(卑しい畜生とはずいぶんひどい……)

 じわりと涙がにじみ、驚く。頰をぺちっと叩くが、涙は引っこむどころか、よけいに盛りあがって垂れてくる。どうやらるいせんまで子供のものになってしまったらしい。

(母はいないなどと。私とともにすごした日々は思い出にすらなっていないのか)

 まるで菊乃の生きた年月を、まるきりなかったことにされてしまったようだ。

「う……、ひぅ……ぐふっ」

 えつをこらえようと歯を食いしばったら変な声が出た。

 そでぐちで涙をぬぐいながら、菊乃はぐふぐふ泣き泣き、夕暮れの町を歩いた。



 生まれは、江戸城の北、駿するだい。生家は、ろくだか三千石のじきさん旗本、くずかわ家。

 第四代せいたいしようぐん徳川いえつなの時代に、菊乃は葛川家の長女として生まれた。

 父の働きぶりは上の覚えもめでたく、暮らしは豊かだった。葛川家にとっての唯一の悩みは、母が嫁いで八年、いまだちやくがないことだった。

「側室は持ちとうない」は父の口癖だった。それほど母にれこんでいたのだ。そして、「嫡子のためにも側室をとるべきだ」と言う周りの者に、父はいつもこう返した。

「このまま男が生まれなければ、菊乃がわしの跡継ぎだ」

 それが、そもそもの始まり。

 菊乃にほどこされるようになった「嫡子教育」は、父としては口やかましい周囲に対する憂さ晴らしのようなものだったのだろう。だが、母が病をわずらい、他界すると、押しよせる現実から逃れるように、ますます菊乃の教育に力を入れていった。

 幸か不幸か、菊乃にとって男としてふるまうことには違和感がなかった。むしろ、しっくりきた。琴を習うのではなく、師について武芸やしよきようを学ぶ。とくに剣術には優れた才を発揮し、師範も「男でないことが惜しい」と悔しがった。

 十四歳を迎えた年、第五代征夷大将軍に徳川綱吉がつき、徳川家の治世はいよいよ盤石となった。一方、戦乱の世には勇猛さを求められた武士は、剣を握る意義を見失っていった。町では浪人によるつじ斬りやぼうりよくが横行。そうした手合いを見すごすことができず、菊乃は同じ師範に学ぶ兄弟子たちと自警団をつくった。悪を成敗する自警団の評判は、男顔負けの活躍をする男装の姫「男姫」の噂とともに市井に広まっていった。

 そして、菊乃が十七歳となったとき、その騒動は起きた。

 その日も、菊乃は兄弟子たちとともに、自警団として町を練り歩いていた。

 年の近い兄弟子たちが近頃好む話題はといえば、嫁取りについてだ。中には婚姻の決まった者もいて、菊乃に対しても「男姫の嫁入りはいつだ」、「男勝りの菊乃が嫁入りというのは想像がつかん」と親しみのこもったからかいを向けてきた。

 そのたびに、菊乃は苦笑するとともに、深い困惑を覚えた。

 父が後添えを迎えたのは、四年前のことだ。妻を亡くした悲しみもえ、独り身の寂しさがこたえるようになったようだ。後妻との間にはすぐに男児、りゆうすけが生まれた。健やかに育ち、無事に三歳を迎えると、父はとして幕府にそうりようねがいを提出した。竜之介こそが惣領──すなわち葛川家の嫡子だと世間に知らしめたのだ。

 もちろん不満はなかった。さすがに十七にもなって、自分が本当に嫡子になれるとは思っていなかった。

 ただ、すこし困っていた。父に言われるまま男のように生きてきてしまったが、これから先、自分はどんな立ち居ふるまいで歩んでいけばいいのだろう。

 武家に生まれた女の行く末はただひとつ。親が決めた相手──同格の家に嫁入りすること。男姫などと呼ばれる「悪評」はあっても、菊乃は直参旗本の姫だ。持ちこまれる縁談は多い。十七歳ともなれば、いつなんどき家を出されてもおかしくはなかった。

 けれどそれを思うと、どうにも気持ちが沈む。

 嫁いでしまえば、もう男のなりはできない。剣術もたしなむ程度ならゆるされるかもしれないが、悪漢退治などもってのほかだろう。

(私は、どこかおかしいのだろうか)

 べつに男になりたいわけではない。男に生まれていたら楽だったろうにとは思うが、女のこの身に不満があるわけでもない。

 ただ、なにかちがうと思うのだ。

(私はどうやって生きていきたいのだろう)

 そのときだった。悲鳴が聞こえた。ずっと先の掘割端で、わきざしをちらつかせ、娘を抱えあげようとしている男たちがいる。近頃、頭を占める悩みは一瞬で消しとんだ。

「不届き者め」

 菊乃は走りだした。兄弟子たちもともに駆けだす。娘を抱えあげた男がこちらを振りかえった。その顔に見覚えがあろうはずもなく、菊乃は袋竹刀を振りあげ、叫んだ。

「菊乃、参る!」


「あなたに縁談を用意しました」

 それからしばらくして、菊乃に冷たく告げたのは父の後妻、菊乃の義母だった。

 あの日、町娘にらちを働いた男のひとりは、さる大名家の三男だった。幸い、大名家側が「不問に処す」と寛大な心を示したために大ごとになることはなかった。もっとも、町娘を手にかけようとしたあげく、旗本の「姫」に阻害されたなど、大名家としても世間に知られたくなかったのだろうが。むしろ、この一件を問題視したのは葛川家だった。

「夫となるのは、宇佐見家の嫡男、かねつぐ殿。男姫などと呼ばれるあなたを寛大にも受けいれてくれるのです。よくよく仕え、世間に恥じることない、よき妻となりなさい」

 義母の厳しい態度を前に、菊乃は見開いた目を観念して閉じ、両手をついて平伏した。

「承知つかまつりました」

 婚礼は半年後となった。義母の花嫁修業は実に熱心で、ありがたく思うと同時に、自分がどれほど「女」から外れた存在かを痛感させられた。久しぶりにまとった女物のそでに覚える違和感。所作のひとつをとっても「それは男の動きです」と𠮟しつされる。まるで体を縄で縛られたようで、菊乃はどんどん途方に暮れていった。

 なぜだろう。女に生まれながら、どうして女として生きることがこれほど苦しいのか。消しても消しても浮かんでくる思いが爆発したのは、よりにもよって婚姻の夜だった。

 じゆばん姿になり、髪をおろし、布団の上で夫となった男と相対した。

 宇佐見家嫡男、兼嗣。兼嗣にとっても「男姫」との婚姻は本意ではなかったのか、その鬼神のようなこわもてはずっと厳しいままだった。

 覚悟を決めろ、と菊乃は己に命じた。この男の妻として立派につとめを果たすのだ。与えられた命運を生ききってこその真の強さではないか──。

 だが、兼嗣が菊乃の肩に手をかけたその瞬間、猛烈な拒絶感が全身を貫いた。そして、気づいたときには兼嗣を全力で突きとばしていた。

 途方もない失態だった。即刻、離縁されてもしかたのない所業だ。

 当然、兼嗣は烈火のごとく怒った。その後どれほどびようと、兼嗣が菊乃をゆるすことは決してなかった。

 だが、意外なことに離縁を告げることもまたなかった。

 あとで知ったことだ。宇佐見家は祖父の代の道楽がたたって、家計が火の車だった。裕福な葛川家から嫁いできた「男姫」の持参金はまさに頼みの綱で、兼嗣の側から離縁を申し出ることなどあろうはずもなかったのだ。

 以来、夫婦仲は最悪なものとなった。兼嗣はあからさまに菊乃を軽んじた。武家の妻の役目はおくむきの差配。だが、殿にないがしろにされる女主人の言うことを、奉公人が聞くはずもない。「男姫」の初夜のふるまいは陰口のかつこうの的だった。

 子が生まれれば、すこしは立場もよくなっただろう。だが、三年たっても子はできず、さらにその頃から体調を崩しがちになり、奉公人の目はいよいよ厳しいものとなっていった。

 そこに変化が現れたのは、宇佐見家に嫁いで六年目となったある日のこと。

 赤子が、菊乃のもとにやってきた。

 宇佐見家待望の嫡子──善太郎である。

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