第一章④


 細く、高い笛の音が聞こえる。夜の町を流れ歩くあんの竹笛の音だ。小さな耳がそれを拾い、菊乃はぼんやりと目を開けた。

(ここは……境内か。いつの間にか眠ってしまったようだ)

 家の板壁と板壁の隙間にぽつんと社があるきりの稲荷いなり神社だ。行く当てもなくさまよい歩き、ひと休みのつもりで座りこんだところまでは覚えているのだが──まったく子供の眠気というのはとんでもなく唐突で、重たくて、危ない。

 寄りかかっていたさいせん箱から身を起こしながら、ぶるりと身を震わせる。寒い。そう思うとともに、自分がまだ「生きている」ことを実感し、がくりとした。

 石段を下り、通りをのぞく。すっかり人の往来はなくなっていた。掘割の黒いみなにさしかかる柳の枝先の向こうに、提灯ちようちんらしき明かりがふらふらと泳いでいるぐらいだ。

(夜明けまで境内をお借りしよう。日が昇ったら、どこでもいい、助けてくれそうな寺を見つけよう。お経のひとつもあげてもらえれば、黄泉よみに戻れるかもしれない)

 善太郎のことが頭をよぎり、ぱしっと頰を両手でたたいた。

「善太郎など知るものか。母を、卑しい畜生などとののしるとは」

 金輪際関わるまい。黄泉がえったばかりに、善太郎のぶざまな姿を見るはめになったのは不運だったが、せんに戻れば忘れてしまうだろう。

「知らん、知らん。あんな馬鹿息子など知らーん!」

 うぇうっ、とえつが漏れ、慌てて両手で口をふさいだ。

(気を抜くと、この幼子の体はすぐに泣きだす。気をつけねば)

 それにしても、どうしてまた幼子の姿で黄泉がえったりなどしたのか。

「こちらです、つるまつさま」

 ふいに声がした。すばやく板壁の陰に身を隠し、近づいてくる提灯に目をこらす。

 そばまでやってきたのは七人の男女だ。商人とおぼしき男が三人、芸者姿の女が三人。

 そしてもうひとり。鶴松という名で呼ばれた、ずいぶん顔立ちの整った男。

(僧か? こんな夜更けになにを……いや、本当に僧か?)

 僧だと思ったのは、僧衣のせいだ。さびいろほうに、黒の。僧か? と疑ったのは、ていはつではないからだ。短く刈った髪に、たちのぼる炎を表したような図柄のりこみ。そうりよと断言するには、ずいぶん浮ついて見える。

 それに「鶴松」という名も穏やかでない。生前のことでさだかではないが、たしか綱吉の息女が鶴姫という名であったために、幕府は人々が「鶴」の字や紋を使うことを禁じていたと思うのだが……。

「鶴松さま、あちらの屋根です。軒下を通ると、石が降ってくるのは」

てみましょう」

 鶴松は深みのある声でささやき、もったいぶった手つきで左目を覆いかくした。

(見ると言ったのに、目を隠してどうするのだ)

 目を覆った左手の中指と薬指が、左右に割れる。そこから覗く左の眼球が、異様な動きをする。提灯の明かりの中、ぶるぶるとうごめきだしたかと思うと、がんの内側でぐるりと半回転し、三人の女たちが悲鳴をあげた。

 白いはずの眼球に現れたのは、金色に輝く、ふたつのどうこうだった。

「おおっ、これが噂の〈こんじきちようどう〉……」

 男のひとりが感嘆したとき、鶴松が鋭く声をあげた。

「男がひとり、屋根の上からこちらを見ています。なんと悲しげな目つきか……」

 菊乃は鶴松の視線を追って、屋根の上に目をこらした。なにも見えない。ほとんど満月に近い月の光を受け、屋根のふちが白く光るのが見えるばかりだ。

「刑場で死んだ男の霊です。野次馬に石を投げられ、じわじわ苦しめられて死んでいった。痛みと恨みが、あれをこの世にとどめ、悪さをさせているようです」

 はっとする。どうやらこの僧侶、幽霊が見えるらしい。成りゆきを見守ろうと身を乗りだしたとき、女のひとりが言った。

「でも、どうして屋根の上に? 恨みがあるなら刑場に出るんじゃないのかえ」

 鶴松の顔が引きつった。そのとき唇からこぼれた毒づきが聞こえたのは、すぐそばで体を小さくしていた菊乃だけだったろう。

「……面倒くせえな。俺がこうだと言ったら素直に信じろってんだ」

 目を丸くしていると、鶴松が「ああっ」と大げさに声をあげて両手で顔を覆った。

「どうしました、鶴松さま!? お加減でも……」

 鶴松はかぶりを振り、女の手をそっとすくいあげると、詫びるように額に押しあてた。

「いいえ、己が情けないのです。私がもっと力ある僧侶なら、すぐにも納得のいく答えを探れたのでしょう。ですが、わかりかねる。なにかしらの思いあってのことでしょうが、すでに当人すら生前の記憶がおぼろげになっているようで……私ごときの力では」

 女は指先まで真っ赤にして身を震わせた。それもそのはず、色事にうとい菊乃でさえはっきりわかるほど鶴松は色香をふりまいていた。

(まともな僧ではない。しかも女人の手に軽々しく触れるとは、かい僧め)

「わっちこそ、つまらないことを言っちまいましたよ。忘れとくれ、鶴松さま」

 鶴松は女が腰くだけになる微笑を浮かべると、さっと手をはなした。

「私にできることはただひとつ。亡者を極楽浄土に送ることだけ。いかなる因果かこの世にとどまりし亡者よ。たいみつの秘法を授かりし鶴松が、おまえを成仏させてやろう」

 鶴松が胸の前で両手の指を複雑に組んだ。人々は気をまれたように静まりかえる。

「ナウマク・サンマンダ・バザラダン・カン──」

 真言マントラ。菊乃は息を吞む。しかし感動もつかのま、すぐに「空々しい」と顔をしかめた。

 たしかに霊験あらたかな雰囲気はかもしだされている。だが、菊乃はすでにこの僧に疑いを持っている。きっと「かたり」にちがいないと、じりじりと前に出る。

 鶴松が背に手をまわした。つかみとったのは、ごてごてした装飾の、しん国のもののようなもろの長剣だ。それを屋根のほうに向けて掲げる。

忿ふんの形相せしどうみようおうよ、けんのもと、このあわれなる亡者を減罪たらしめよ!」

 気合いの声とともに、斜めに空を裂く。すると不思議なことに、その剣筋に炎の道が走った。男たちが「おおっ」と喚声をあげ、女たちが「あれえ!」と顔を伏せる。

 炎が火の粉を散らして消える。静寂が訪れ、鶴松が長剣を背のさやに戻し、ふっと肩から力を抜いた。金色に輝いていた重瞳はふたたび反転し、もとの黒目に戻る。

「これにておんりようごうぶくしました。極楽浄土へと向かったことでしょう」

「おおっ、では、これで本当にもう恐ろしいことは起きないんでしょうか」

「ええ。ですが、不安でしたら、このつのだいの札を持ち歩くのがよろしいかと」

 ありがたく札を受けとろうとした男から、鶴松がぱっと札を取りあげる。

「一枚、一両。ひと月ごとに買いかえるとして一年分。しめて十二両の浄財を」

「高──っ」

 不満を口にしかけた途端、女たちが「わっち、角大師さん、欲しい」とねだった。男はころっと「困った子たちだねえ」と鼻の下を伸ばし、懐から紙入れを取りだした。

「ねえ、鶴松さま、この角大師さんのお札に、お名前を入れちゃおくれでないかえ?」

「ずるい、わっちの札には、鶴松さまとわっちの名前も書いておくんなまし」

 菊乃が顔を引きつらせたそのときだ。男のひとりがこちらに気づいた。

「おや、こんな夜中にどうしてあんな幼い娘が……」

 鶴松が振りかえって、菊乃をまじまじと見つめ、

「鬼だーっ」

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