第一章②

 いーろーはーにーほーへーとー。いーろーはーにーほーへーとー。

 団子屋のしように座り、小声でいろはうたを繰りかえす。

(よし。だいぶ幼子の短い舌に慣れてきたぞ)

 ほっと一安心し、菊乃はほくほくとした気分で団子をほおばった。それを脇に腰かけたおちよがほほえましげに見つめる。

 ふたりが手にしている麦湯と団子は、騒動を見ていた団子屋の主人がおごってくれたものだ。ありがたい。ひとくち食べてみて、自分がずいぶん空腹であることに気づいた。

(死人なのに腹が減るとは意地汚い)

 恥ずかしく思いながらも、どうにももぐもぐ動く口が止まらない。

 あたたかな陽気だ。季節は初夏といったところか、団子屋の前を行きすぎる人々の装いも軽やかだ。だが、善太郎のことを思いだすと、菊乃の心は冬のごとくてついた。

(善太郎め。あんな姿を見るぐらいなら、黄泉よみがえりなどするのではなかった)

 もちろん、したくてしたものでもないわけだが。

「あの男のこと、情けないと思ったであろう?」

 重苦しい気分で問いかける。だが、おちよは首を横に振った。

「とんでもない。とてもうれしかった」

「みっともなく転げ、ひったくりを逃がし、おちよを助けおこしもせずに去ったのに?」

「でも、助けようとしてくれた。菊乃ちゃんも、あのお侍さんも」

「とーぜんのことだ」

 ふんぞりかえって答えてから、菊乃は「うう」とうめいた。油断すると、すぐ舌足らずになる。

「ううん、当然じゃない。だって、ほかには誰も助けてくれなかったもの」

 そうだったろうか。短い足で走るのに夢中で、周囲にはろくに目をくれていなかった。

「だから、助けてくれようとしただけで嬉しかった。あんなに見事に転んで……懸命に走ってくださったのよ。でなきゃ、あんなに勢いよく転げたりしないでしょう」

 なるほど、そういう見方もできるか。だが、おちよが優しい見方をすればするほど、菊乃は己と善太郎を情けなく思った。この優しい娘の力になれなかったとは恥ずかしい。

「盗まれたものは大切なものだったのではないか?」

「大したものではなかったからいいの。ただ……」

 大きな瞳がにわかに潤む。おちよは慌てて目元をぬぐった。

「ごめんなさい。みっともない姿を見せちゃって」

「なにかあるなら遠慮なく言ってくれ。聞くことしかできぬが……」

「本当に男前ねえ」

 感心するおちよの背後で、団子屋の主人が「あんた、女犬ぼうだろう」と言った。

「誰も助けてくれねえってのもしかたねえ。あんた、ここいらじゃ有名だからな」

 おちよのうつむいた顔が真っ赤に染まる。菊乃は首をかしげた。

「おんな、いぬくぼう?」

 そういえば、さっきのひったくりもそんなことを言っていたような。

 団子屋の主人はちらりとおちよを見てから、菊乃に視線を戻して言った。

「娘っ子は、犬は好きか?」

 娘っ子? 菊乃はきょとんとするが、「わたしか!」と気づいて慌てて答える。

「犬といきなり言われても……好きも嫌いもないが」

「へっ、そりゃ奇特なガキだね。俺ぁ、嫌いだよ。犬公方がやっとおっんでくれて、せいせいしてらあ」

 犬公方。そのべつしようを聞いた途端、生前の記憶がじわじわとよみがえってきた。

「公方さまは亡くなられたのか……」

 江戸幕府第五代せいたいしようぐんとくがわつなよしのことだ。

 主人は菊乃が知らないことを不思議に思ったような表情をするが、子供ならばあるいはと思いなおしたようで、「つきばかり前だ」と答えた。

「いやあ、長かったね。三十年近いんじゃねえか? あの犬公方が死ぬ日はもう来ねえんじゃねえかって思ったよ」

「……人は死ぬものだ」

「あんな人の心もわからねえ野郎が人と呼べるもんか。ありゃ、犬にかれた鬼だ」

 たいそうな悪評だ。だが、綱吉がそこまで非難されるのにもまた察しがついた。

 綱吉が矢継ぎ早に出した一連の触れ──総称「しようるいあわれみの令」がゆえんだろう。

 触れが一貫して民に求めたのは、生類、すなわち生きとし生けるものすべてに、思いやりの心「仁」を持つことだった。だが、綱吉の求めた「仁」は、あまりに厳しすぎた。生類の範囲は、馬、犬、猫といった身近な動物から、蚊、ノミなど人に害をなす虫、さらには鳥、獣、魚や貝にまで至り、それらをむやみに傷つけ、殺すことが禁じられた。猟師や漁師のほかは鳥や魚を捕ることがゆるされず、困窮する者もあったという。

 中でも犬の扱いをめぐっては、人々の暮らしに暗い影を落とした。

 当時、江戸では増えすぎた野犬が人を襲うようになっていた。しかし、生類憐みの令は、そうした野犬も含めて犬への「仁」を求めた。犬を傷つけるな、飼い主のいない犬には餌を与えよ、捨て犬は見つけた者が養え、犬をき殺さぬよう大八車には見張りをつけよ、犬同士がけんをしていたら犬が怪我しないよう水をかけて止めよ……。一方で、犬が人を襲っても、犬はとがを受けなかった。大八車で轢けば、轢いた者は故意でなくても投獄される。犬の喧嘩を見て見ぬふりをした者は厳しく𠮟られ、まれたことをゆえんに犬を傷つけた者は島流し、殺した者は市中引きまわしの上にざんしゆ。人々は次第に「お犬さま」を大切にするふりをし、その実、厄介ごとに巻きこまれるのを嫌って、犬を遠巻きにするようになった。

 ところが、それを知った綱吉はさらに触れを重ねた。なぜ犬を避ける、なぜ犬を大事にしない、なぜ、なぜ、なぜ──触れは増えつづけ、処罰はいよいよ厳しさを増し、人々はますます犬を嫌うようになっていった。

 菊乃自身は触れが出されはじめた頃、嫁ぎ先の奥に住まい、ほとんど外に出ることもなかったため、犬は身近な存在ではなかった。だから好きも嫌いもなかったが、それでも犬ばかりを大事にし、人の命を軽んじるかのような一連の触れには釈然としない気持ちを抱いたものだった。

「子を咬み殺された親が、犬をこらしめたってだけで、市中引きまわしの上にはりつけだ。そんなんで犬を可愛がれるか。犬公方は俺たちよりも犬のが大事だったのさ」

 主人はつばを飛ばす勢いでののしって、しかし笑顔で前垂れのひもをぐっと引きあげた。

「けど、新しい公方さまはできたお方だ。将軍になられるなり、犬公方の触れをまるっとなくしちまったんだからな。……ところが、だ」

「まだなにかあるのか」

「近頃、奇妙な病が流行はやってるだろう? こりゃ、新しい公方さまのなさりように腹をたてた、犬公方の呪いじゃねえかって話だ」

 奇妙な病。首をかしげると、なんだ知らねえのかとばかりに得意げにあごをなでる。

えるのよ、人間さまが。犬みてえに。人呼んで、犬病だ」

「犬病」

「ああ、なんでも犬をいじめたことのある人間がかかるって話でな。俺はいじめたこたぁないが、お犬さまの悪口はよく言う……だもんで、これよ!」

 主人がぱんっと得意げにたたいた柱には、「犬病退散」と書かれた札が貼られていた。

 ほほう、と興味深く札を見上げる菊乃。主人はげんなりと首を横に振った。

「ただでさえ犬にゃこりごりだってのに、そんな病まで流行ってるとくりゃ、犬って聞くだけでうんざりだ。……ってのによ、そこの女犬公方さまときたら、往来でいきなり」

 がたんっと音がして、床几が揺れた。おちよが勢いよく立ちあがったのだ。

「な、なんでい。なにか文句があるってんなら、今、腹に納めた団子、吐いちまいな」

 おちよは主人を振りかえるなり、くしが飛んでいきそうな勢いで頭を下げた。

「お団子ごちそうさまでした。とってもおいしかったです。……菊乃ちゃんも今日はありがとう。父がこういんの裏手で犬のための養生所を開いてるの。いつでも遊びにきてね」

 涙のにじんだ目を精一杯ほほえませ、おちよは手を振った。つられて手を振りかえし、その姿が雑踏の向こうに消えてから、じろりと主人をにらんだ。

「泣いていた」

「お、俺が悪いってのかよ」

「女犬公方というのは、どう考えたって悪口だ」

「俺が言ったんじゃねえよ。あの娘、ここいらじゃ有名なんだ」

「なぜっ」

 主人は駄々っ子でも相手にするように渋々と両国橋を顎で示した。

「犬公方が死んでからすこしして、そこのかみゆいどこのそばで妙なことをはじめてな」

「妙なこととは」

「怖い顔でせかすんじゃねえや。『犬の里親求む』って書かれたのぼりを立てて、大声で叫んでんだよ。『犬をもらってください。里親になってください』ってな」

「なにをしていたのだ? それは」

「女犬公方の……あの娘の父親は、お囲い付きの犬医者だったそうだ。犬公方がおっ死んで、お囲いも仕舞いになるんでな、そこにいる犬を引きとってくれって話らしいのさ」

「お囲い……というのは、なんだ」

「お犬屋敷さ」

 主人によると、お囲いとは幕府が建てた犬収容所のことで、「お犬屋敷」とも呼ばれているらしい。「犬を大切にしろ」といくら言っても聞かない民にさじを投げ、幕府みずから野犬の面倒を見ることにしたようだ。しかし、それにかかる費用や、犬の餌代は、江戸の町人の負担としたため、人々の犬嫌いはますます激しくなっていったという。

「江戸中から犬が集められ、いっときには十万匹もいたらしいぜ」

 途方もない数だ。耳にしたことがないということは、菊乃の死後行われたのだろう。

「一度集めた犬を、今度は解き放たねばならぬのか。それで、里親は見つかりそうなのか? 十万匹も?」

「へっ、見つかりゃしねえだろうよ。頭数の問題じゃねえぞ、里親に求めるもんがたいそう厳しいって話だ。氏素性を確認し、お犬さまをきちんと飼えるだけの蓄えがあるかまで調べられるってんだからよ」

「それはずいぶんなこだわりようだ。手間もかかろうし、さぞ大変なことだろうな」

「馬鹿にした話さ! 欲しいって奴に、ぽんとくれてやりゃ、それで済む話じゃねえか。もらってくれってぇから、もらってやろうって人間を、はなから疑うみてえに根ほり葉ほり。それで誰が里親になろうと思うって?」

 鼻息荒く語り、主人ははたと我にかえった。

「俺ぁ、こんな子供になにまじめに話してんだ」

 子供ではない、と言いかけて、子供だった、と思いなおすうちに、主人が鼻をなでた。

「今日は景気がわりぃや。店じまいするから、団子ほっぺに詰めこんで帰っちまいな」

 菊乃は団子をほおばって、ごくりと飲みこみ、主人を見上げた。

「もうひとつ。さっき転んだ男のこと、なにか知らぬだろうか」

「さあなあ、犬公方はちょっとでも気に入らねえことがあると、すぐお取りつぶしだ。あの手の浪人はあっちこっちで見るんだ。うすぎたねえなりして、みっともねえったら」

 言いながら、隣で屋台をかまえるうどん屋に「知ってるか?」と声をかけてくれた。

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