80分「思慕の海」

水が叩きつけられる音によって、私の心で暴れ回るざわめきを沈めてくれるようだった。遠くに浮かぶ船を見つけて、手を伸ばした。届くわけがないと分かっているのだが、それでも伸ばさずにはいられなかった。立ち上がって、体が濡れるのを構わずに追い求めた。進んで行くほど、水のせいで歩くのが遅くなる。波によって岸に戻すような力が働くが、足に力を入れて、船を求めた。また1歩と足を踏み出そうとした時、腰の辺りに違和感を感じた。胸まで浸かっていた身体が突然宙に浮いた。下を見れば見覚えのある顔がいて、視線が合う。なぜここにいるのか不思議になって、何も言えないままだったが、


「何してるんだ!家に帰るぞ」


おじさんの震える声に胸が刺されたように感じた。おじさんは動かない私を抱えながら、砂浜に向かって歩いていく。腕には力が入り、苦しいのだが、私の冷たくなった身体は温まっていく。なぜか冷えきっていた心までも温かくなった気がしたのだ。

海から上がると、おじさんは駆け足で見慣れた道を通る。私を俵を担ぐような持ち方から、お姫様抱っこに変えられていたので、揺れが少なくなった。私はこの状況に理解が追いついていなかったため、大人しくしていた。

おじさんの家に着くと、縁側に降ろされた。座って庭を見つめていたら、おばさんがタオルなどを持ってくる。おばさんの温かい手に、フワフワとしているタオルで拭いてくれた。おじさんも渡されたタオルで拭きながら、私と同じ視線になるようにしゃがんだ。手を優しく包みこみながら、


「どうして海に入っていたんだ?」

「船を、追いかけていたの」

「あの距離じゃ届かないことは分かっていた?」

「うん」


首を縦に力無く振った。おじさんは顔が困った顔になっていた。手に力が入り


「…なら、船に乗りたかったのかな?」

「うん」

「どうして船に乗りたかったんだい?」

「海の向こうへ...」


掠れた声しか出ず、そして、言葉を紡ぐことが出来なかった。私は何が言いたかったのか分からなくなって、首を傾けながら、口を閉じてしまった。おじさんは頭を撫でてくれて、おばさんは私の肩にそっと手を置いた。


「ゆっくりで良いから、思ったことを話してごらん。ここには私たちしかいないから、本当のことを言っても良いんだよ。どうして船に乗りたかったんだい?」

「…っ、海の向こう…。海の、向こうへ行った、ら…」


おじさんの許可によって錨が外れたようだ。涙が零れ落ち始め、考えなくても言葉が出てくる。おじさんとおばさんは優しく見守ってくれて、急かさずに待ってくれる。私は手で涙を抑えようとしながら、胸に溜まっていた言葉を吐き出した。


「お、母さんに…、会え、るかなって思ったの...。だって、ニライカナイはね、海の向こう側にあるんでしょ?だからね、だからねっ...」


もう涙が止まらなかった。また悲しみが身体を満たして、溺れたみたいに苦しくなる。おじさんが私を包みこみながら、


「分かった!そうか、お母さんに会いたかったんだな。気づかなくてごめんなぁ。おじさんも海で怒鳴ってしまったのは良くなかったなぁ」

「ううん、大丈夫。心配、してくれてたんでしょ?でもね、でもねっ会いたかったの...」

「そうよね、会いたいわよね」

「うん…、会いたい、会いたいよぉ」


おばさんが抱きしめた時に、お母さんとの思い出が蘇ってきた。泣いて帰ってきた時、嫌なことがあった時に包み込んでくれる温もり。でも、もうあの温もりを感じられないことを実感して、また涙が止まらないのであった。

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