15 また風が立つ
「やだぁー。コハクお姉さん居なくなっちゃ、駄目え」
すっかり慣れてしまったベフトゥン家のリビング。
足下には金色の刺繍が施された漆黒のショルダーバックと泣きじゃくるステファニー。
ステファニーちゃんがスカートにしがみついているせいで折角シャナが洗濯してくれたワンピースも濡れてしまった。
この際、濡れた原因が涙なのか鼻水なのかは気にしないでおく。
私はしゃがんでステファニーと目線を合わせると彼女の頭を撫でた。そして、優しく微笑む。
シャナさんが、かつてしてくれた様に。
優しく。優しく。静かに。穏やかに。
「そんなに泣かなくても大丈夫。私はまたフランドレアに帰って来ますよ」
「本当?」
頬がすっかり濡れてしまったステファニーがこちらを見据える。
シャナさんと同じエメラルドグリーンの瞳。
瞳に湛えた光はきっと希望と呼ぶべき物だろう。
「はい。やるべき事を終えたら必ず」
その様子を見ていたシャナさんが口を開く。
「まあ、ステファニーたら。コハクさんはまた帰って来るって言ってるじゃない。またいつか会えるのよ」
シャナさんも少し寂しげであったが、涙は流さず、静かに笑っていた。
「コハクさん。昨日の最後の晩餐はどうだったかしら?」
「普通に『昨日の夕食は美味しかったですか?』と聞いて下さい。とても美味しかったです。特にトリアタマタカナキイノシシとミネダケダケのポワレが」
処刑される前夜の食事みたいな言い方しないで下さい。
次に口を開いたのはシアン君。
「僕決めたんだ。十六歳になったら神立聖魔術学校に行くよ」
今日の彼は、白シャツに短パンというシンプルな服装だった。
しかし、今の彼の瞳には頑固たる自信が見える。
ベフトゥン家の玄関前に集まった三人を順番に見る。
優しくどこか暖かいシャナ。 少し不思議な所があるがいつも元気なステファニー。
そして、毒舌だが根っこは優しいシアン。
三人ともよそ者である私を家族同然に扱ってくれた大切な人達だ。
「さて。出立しようかコハク殿」
そう言ったのは私の背後でずっと待っていてくれたメルラン。
彼はシャナに軽く会釈すると、大通りの方へ足を運んだ。
そして、私もそれに続いた。
*
どうして、この様な状況となったのか。
説明するには三ヶ月前に遡る必要がある。
例の事件の後、私は一週間ほど、ベアトリーチェちゃん行方不明事件の被疑者として、首都から派遣された調査団に尋問を受けることになった。
尋問中は「どの神霊から祝福を授かった
ただでさえ、彼らからしたら私は、立ち入り禁止である深夜の礼拝堂に侵入したよそ者であるのに「ちっこい小動物」呼ばわりされたモフたんが、調査員に猫パンチをかましたり、「どの神霊から祝福を授かった
しかし、縫飾神の加護のおかげだろうか。突然「帰っていいぞ」と言われ、それからは一切の尋問は受けていない。
そして容疑が晴れた翌日。
私は夜シャナに呼ばれた。
向かったのは一階の魔法教室。
そこでシャナは洗面所に隣接した階段に放置されていた本を読んでいた。
本の表紙に描かれていたのは、蝶の羽が生えていた女性。
かつて私は表紙の女性は妖精か何かだと思っていた。
でも今なら分かる。表紙に描かれているのは縫飾神ミネヴァだ。
「いらっしゃい。今日もお疲れ様」
私が来たことに気づいたシャナは椅子に座るように催促する。
ああ、この光景。シャナに適正
「お疲れ様です」
「さて、コハクちゃん。ここに来てから数ヶ月が経ったけど。記憶の方に何か変化はあったかしら?」
「ああ、その事なんですが、私も話したい事がありました」
そうだ。私は記憶喪失という設定だった。
すっかり忘れていた。
記憶喪失以前に、私は異世界人だ。
本来私に『在り方』など存在しない。
しかし、ベフトゥン一家は私に『在り方』をくれた。
「ほぼ、記憶に変化はありませんが、果たすべき目的はできました」
「目的?」
ベフトゥン家の一員としての『在り方』。
とても、大切で、温かい物。
でも、もう手放さなくてはいけない。
私自身の未来の為に。
「実は私病気なんです」
「あら? そうには見えないけど」
「そうですよね。しかし、何事もなく暮らせるのは、祝福の力です。私が授かった祝福は、偽りの健康。本来ならベッドの上から降りることも叶わぬ状態な筈です」
シャナは重々しく頷いた。
「だから、私は完全に病気を治すために旅に出ようと思います。あの、本当に急な話ですみま……」
「別に良いのよ」
「え?」
そしていつも通り暖かく笑った。
「それが貴方の呪いなら向き合うべきよ。他人が口出しする事じゃないわ。さて、旅費はどうするの? もし、貴方が私の魔法教室で働いてくれるなら、給料は出すけど? 」
「本当ですか」
「えぇ。ちなみに、旅の目的地はどこなの?」
一応旅の目的地は決まっている。
あくまで仮の物であるが。
例の事件の後フランドレアの図書館で、様々な文献を調べた。
その結果目的地の候補として挙がったのがワタヅミ島だ。
冥府神エレシュリが守護する孤島であり、都市。
資料によれば信託で選ばれた人間が、代々エレシュリとして都市を治めているらしい。巫女や現人神に近い気がする。
「ワタヅミ島です」
「ああ。確かに、あそこなら優れた医者が多いわね。死の神霊が治める都市だってのに不思議。目的地がワタヅミ島ならログレシアを経由するといいわ」
「シャナさんの母校があるログレシアですか? 」
「そうよ。まあ、どちらかというと、ログレシア自体が学園その物だけど」
「どうしてですか? 」
「ログレシアからワタヅミ島に直通の船が出るの。ついでに、質の良い魔法道具も買えるし」
ガイドブックで見たときはワタヅミ島へ行くルートが複数の都市を経由する方法しか乗っていなかった。もし、シャナの言葉が本当であるならば経由するべき都市はログレシアのみとなる。
「本当ですか。ガイドブックには載っていなかったので知りませんでした」
シャナが苦笑いする。
「ガイドブックには載って無いでしょうね。あそこは、排他的というか、人間関係が複雑だから。特に
シャナがそんな場所で勉学に励んでいた事に驚きである。
「あら、そんなに不安そうな顔しないで。あそこはシヴァ王国で一番魔法に関する知識が集まった場所よ。実際行ってみれば、興味深い体験ができるはずよ」
私はそんなに不安そうな顔をしていたのか。
「あ、えーと。私はだっ大丈夫です。丁度、魔法道具を揃えたいと思っていましたし、シャナさんの母校ならきっと素敵な場所です」
こちらの返答を聞いたシャナさんはクスクス笑うと先ほど読んでいた本の挿絵の中からガラスの瓶を取りだした。
瓶の中には金色の光の粒が詰まっている。
そして、シャナさんはそれを私に渡した。
「これは、何ですか? 」
「ああこれはね。人間の記憶を忘れないように保存する道具よ。分かりやすく言えばアルバムね」
「記憶……シャナさんの物ですか? 」
「そうよ。そこに入っているのは、私の幼少期の記憶。ログレシアに行く船の中で暇つぶし代わりに見てもいいし、捨ててもいいわ。もう要らない物だから」
「要らない物ですか? 」
シャナさんは頷く。
「コハクさんは、ティナに会ったのよね?」
「そうです」
「そして、彼女はティナとしてでは無くミネヴァとして顕現したかしら?」
私は数秒間の間硬直した。
そして、質問に答えるべく思考を巡らす。
シャナさんはティナさんがミネヴァだという事実を知っている。
どういう事だ?
そして質問の意図が分からない。
いや、これに関して、あれこれ思考を巡らす必要は無い。
答えはシャナからもらった瓶の中に詰まっている。
「えーと、そうです」
ミネヴァは市場で出会った時は一般の人間の中に紛れていたが、彼女自身はミネヴァだとは名乗っていない。
私の質問に対して曖昧に答えただけだ。
「なら、やはりそれは要らないわね。ティナは、もう、この世界の何処にも居ないから」
*
数階建て構造の白塗りの船。船体の表面には巨大な長方形の窓が大量に付いている。もし、私が産まれた世界にこの様な物があったならば豪華客船と呼ばれるだろう。
見た目だけでも壮大な客船だが、なにより圧巻なのは船体が姿を現したのは海上ではなく空中である事。
即ち私の視界には空飛ぶ巨大船が写っている。
「なんですか、あれ。あの巨体を浮かせる浮力はどこから……」
「コハク殿は、『子供の夢を壊すから黙っていなさい』とよく言われないかね? 」
「キュイ。キュイ」
私の率直なコメントに対して、メルランの辛辣なコメントが飛ぶ。
そして、それに同意するモフたんの声。
フランドレアの東側に位置する巨大な港。
そこには、空飛ぶ貨物船が出入りしていた。
周りの家々には大量の植木鉢。
かつては空っぽだったそれらも今では花で埋め尽くされている。
実は空飛ぶ船自体は、フランドレアに居る間、何度も目撃していた。
しかし、実際に間近で見たのは初めてだ。
「あらまあ、コハクちゃんじゃない」
「ひっさしぶり」
「もう、居なくなっちゃうの?」
突然背後から、年配の女性の声。
振り返るとそこには礼拝堂で出会った屈強なマダム三人が居た。
「はい。えーと、例の件は大変ご迷惑をおかけしました」
「あーら。気にしなくていいのよ」
「それにしても、これからログレシアに行くの? あそこ良くない噂ばかり聞くから心配だわ」
「何か不安な事があるなら筋トレよ。筋肉は裏切らないから」
三人には大変世話になった。
調査団から尋問を受けている間、事情を察してくれた三人は私を庇う証言をしてくれていたのだ。いくら感謝の言葉を述べても足りない。
「わあ、あの人だよ。ポケットに小さなモフモフがいるもん」
「
次に響いて来たのは子供が叫ぶ声。
声がした方向を見ると複数の子供がこちらに手を振っていた。
「私の事を知っているのですか? 」
マダムのうちの一人が私の反応に驚いたように口を丸くする。
「知らないの? 子供達の間では、貴方がフランドレアを救った英雄だって噂を流れているのよ」
「えぇぇぇ。何ですか。そのデマ!?」
デマにも程がある。
私はただ行方不明の少女を探す手伝いをしただけだ。
現に私の今の実力ではファウストには、歯が立たなかった。
強い風が吹く。
風が背丈ほどある私の髪を揺らす。
そして、心なしかその風の音が一人の少女の笑い声に聞こえた。
ベアトリーチェ。祝福の果てに受けた呪いにも勇敢に挑んだ少女。
彼女の魂は今でも、シアンをどこかで見守っているのだろうか。
到着した客船から、乗組員が乗船するように催促する声が聞こえた。
もう、皆に別れを告げる時間は残っていないようだ。
――ベアトリーチェちゃん。私は、今から、貴方が育った都市へ向かいます。もしかしたら、私もログレシアが抱えた闇に直面するかもしれません。それでもきっと、私は貴方の様に、果敢に運命に立ち向かうでしょう。
*
「中まですごいですね。これが魔法ですか」
豪華客船は客室まで豪華だった。
メルランに案内された客室へ向かう廊下は一般的なアパートの廊下の様に、ドアが立ち並んでいたが、中に入った時は開いた口が塞がらなかった。なんと吹き抜けの二階建て構造になっていたのだ。
どう考えても魔法で客室内の空間を広げているとしか考えられない。
壁には本が並び、テーブルの上には恐らく魔法薬の調合に使うのであろう瓶やら天秤が並べられている。普通こんな物が並べられていたら急に船が揺れた際に落ちて破損しないか心配になるが、この客船の中は全く傾きもしないし、揺れもしない。
ベッドの側にあった窓を開ける。
そこには、少しずつ離れてゆくフランドレアの景色があった。
「本当に美しいです」
思わず口から言葉が漏れる。
勿論フランドレアの町並みへの感想でもある。
しかし、今は少し違った。
町の中心部にそびえる女神像。
そこから大量の光の粒が溢れて、シャボン玉の様に宙を舞っていたのだ。そして、それらは良く見ると蝶の形をしていた。
女神像の表情は優しく穏やかだ。
シャナさんと、ミネヴァ……いや、ティナさんと良く似ている。
「行ってきます。ミネヴァ様」
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