第32話 始まりは血汐の中で

 吹き飛ばされ、地面を転がるシオン。

 一体、何が起きたのか。

 状況が理解できていない彼女は、痛みに呻きながら顔を上げる。

 その瞬間、シオンの傍に何かが転がってきた。


「……え?」


 それは、胸に穴が開き、血を流すイリスの姿だった。


「え、あ。あ……? い、イリス……?」


 力なく倒れているイリスの元に、シオンはゆっくりと近づく。

 胸には大きな穴が開き、鮮血がとめどなく溢れ出していた。

 シオンの声に、イリスは答えない。


「あ、あぁ……あああああああああああああああああああ!!」


 それが何を意味するのか。

 ようやく今の状況を理解したシオンは、血に濡れた彼女を抱きしめ、涙を流し、叫んだ。


「はははははははははは!  裏切り者には相応しい末路だなぁ!!」


 彼女の慟哭を聞き、クレスは二人を嘲笑う。


「この、ゴミ野郎が……!! だから殺しておけばよかったのに……!!」


 その卑劣な言動に、激昂したのはカノだった。

 二人を庇うように、彼に対し、攻撃を仕掛ける。


「そう死に急ぐなよ。お前たちも殺してやるから!」


 影の刃と光の槍がぶつかり合い、空気が震え、大地が揺れる。


「イリス……イリス……! お願い……目を覚ましてよぉ……」


 衝撃音が響く中、シオンはイリスの傷口を影で覆い、止血しながら、必死に呼びかける。

 こんな結末、あまりにも酷すぎる。

 このままイリスが死ぬなんて許せるはずがない。

 彼女の未来は、ここから始まるのに。

 まだしていないことがいっぱいあるのに。

 約束を一つも叶えていないのに。


「……やだ。いやだ、いやだいやだいやだぁ! イリス、イリス……!」


 血に濡れながら泣き喚くシオン。

 そんな彼女の頬に、温かな感触が伝わった。


「──シオンは、本当に、泣いてばっかりだね」


「い、イリス……!」


 目を覚ましたイリスが、弱弱しい声で呟く。


「待ってて……! 今すぐ、街に戻って治療を──」


 イリスの手を握り、彼女を待ちにつれて行こうとするシオン。


「……ごめんね。約束、守れなくて」


 そんな彼女に、イリスは微笑んだ。


「な、何言ってんだよ……!! 今ならまだどうにかなる! だからそんなこと言わないでよ……!」


「私ね、シオンに出会ってから、すごく幸せだった。生きててよかったって、もっと生きたいって、心の底から思えたの。人形だった私に、何もなかった私に、夢を……未来を、君がくれたの」


「イリス……イリス……! 何で……まだ間に合うから……。そんなこと、言わないでよぉ……」


「いやだなぁ…‥もっと、シオンと色んなことしたかった……カノちゃんとも、もっと仲良くなりたかった……。二人と、旅を続けたかった……!」


 イリスの頬を、涙が伝う。


「すぐに、助けるから……! お願いだから、もうそんなこと言わないでよ……」


「シオン……どこ……? 冷たくて、暗いよ……」


 必死に呼びかけるシオン。

 しかし、その声は、もうイリスに届いていなかった。

 虚ろになる彼女の目に、シオンの姿は映っていなかった。


「イリス……!? イリス!! オレはいるよ……! ここにいるから!!」


 熱を失っていく彼女の手を懸命に握り続け、必死に彼女の命を繋ぎ止めようとする。


「あぁ……。でも、きっとそばにいてくれてるんだよね。シオンは……優しいから……」


「当然だろ……! ずっとずっとずっと永遠に、イリスの傍にいるから……! だから……だから……!」


「ありがとう、シオン……。……大好き、だよ」


「オレも、イリスのことが大好き……出会った時からずっとずっと大好き……! だから……」


 生きて、とシオンは叫ぼうとした。

 それよりも速く、イリスの手が力なく、彼女の手の中から滑り落ちた。


「イリス……? イリス……イリスイリスイリス……!!」


 泣き叫ぶシオンの声に、彼女は答えない。

 呼吸も鼓動も止まっているのに、赤い液体だけ伽藍洞の胸から流れ続けていた。

 何度名前を呼んでも、彼女が答えることはなかった。

 そして、彼女の絶望を煽るように、彼女の隣に何かが叩きつけられた。


「あ……あぁ……」


 そこにいたのは、胴体が焼け焦げたカノだった。


「カ、ノ……」


「あ、くっあ……」


 苦しそうに喘ぎ、起き上がることも出来ない様子のカノ。

 そんな彼女を見下すよう笑い声が聞こえる。


「あはははははは! この程度か、霊魔種!! こんな弱さじゃ、かつての威光も台無しだな!!」


 ゆっくりと、足音が近づいてくる。

 それは、一か月前に相対したクレスとは到底思えないほどの醜悪さ。

 吐き気を催すほどの悪性。


「さあ。後はお前だけだ、女。この傷の代償は高くつくぞ? 生きてることが苦痛に思うほどの地獄を味合わせてやる!!」


「地獄……?」


 イリスを目の前で殺され、カノも重症を負わされた。

 大事な人を目の前で奪われていく以上の地獄がどこにあるのだろうか。

 愛する人の死以上の苦痛がどこにあるのだろうか。


『君に、「死にたい」という感情の意味を、本当の絶望を刻み込んであげよう』


「絶望……?」


 もしこれが、神の仕組んだことだとしたら。

 大事な人を奪われた復讐に、人間の大事なものを奪っているとしたら。

 シオンは何も理解できない。

 自分がされたことを仕返し、悲劇を繰り返す狂った神も、イリスの優しさを踏みにじる卑劣な人間種も、全てシオンには理解できない。

 イリスの葬具を持ち、ゆっくりと立ち上がる彼女の胸中には、悲しみと絶望と憎悪と怒りが混じり合う。


「──」


 そして、彼女の中の何かが、音を立てて砕け散る。


「っ!?」


 その異変を感じ取ったのは、彼女と繋がっているカノだけだった。

 精霊術でも魔術でも、魔法でもない、異質な何か。

 それを彼女は知らなかった。

 知らないからこそ、シオンから感じるただならぬ気配に、カノは恐怖を感じてしまった。


「──カノ。イリスを連れて、影の中に隠れてて」


「……分かった」


 だから彼女は、冷たく無機質に呟かれたシオンの言葉に、ただ頷くことしかできなかった。

 影の中に潜る二人を見守りながら、彼女は静かにクレスに視線を向ける。


「使いこなせない死人の武器に縋るとは憐れ極まりないな。お前の力の源があの霊魔種なことは分かってるんだよ! お前はもう何も出来ず、俺に殺されるしかねえんだよ!!」


 喚き散らしながら、槍を構え、走り出そうとするクレス。


「──お前は」


 しかし、彼の足が地面を蹴る前に、彼の身体はシオンの元に無理矢理引き寄せられる。


「なっ!?」


 抗うこともできず、無防備なクレスの身体を、シオンは、イリスの槍で思いきり地面に叩きつけた。


「お前だけは……ここで、殺す!!」

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