第九話 希望の波 前編

 人が生きるのはどうしてだろう。ボクは生きるという行為を、死という終わりに向かって進んで行く事だと定義している。いつかやって来る終わりに向かって歩いていく事の意味を、ボクはずっと求め続けてきた。それはきっと人生の始まりに、余りにも鮮明な自分自身の死という『答え』を提示されてしまったからだ。そしてボクは、その答えを否定したかった。

 この世界に生きる人達は、誰もが人生の先にある答えを知らない。だから、終わりに向かって前に進んで行く事ができる。でもボクは、自分の人生に答えを出す事そのものを否定する為に生きている。

 詰まる所、ボクは生きたい訳じゃない。ただ死にたくないだけ。自分の人生を答えに導く気が無いのなら、あらゆる答えを導き出す万能の方程式なんて必要ない。

 ボクはこの世で最も、世界の最果てエルシオンなんて目指すに値しない人間なんだ。


 気が付くと、冷たい寝台で目を覚ます。いつも夢に見るあの景色だ。だが今度は、身体を動かせた。ボクは自分の身体を起こし、手を握ってその感触を確かめる。まるで生きているみたいだ。否、本当は死んですらいないのだろう。

 これがネブカドネザルの目指した二次元世界。この世が全て情報と化し、死から解き放たれた楽園。ボクの前世である身体が最期に見たこの景色は、大地に眠る過去の情報すらも混ざり合ってしまったという証拠だろう。

 文字通り親の顔よりも見てきた光景だが、この建物が何処なのかなんて考えた事もなかった。その答えを得るべく、ボクは寝台を下りて薄暗い部屋の入口へと向かう。扉は無く、外もまた同様に暗い。窓の無い所を見るに、此処はおそらく地下だ。切り出した石灰石で建築された廊下を進んで行くと、上階からの光が差し込む階段が見えてくる。こうして歩いていると、本当に三次元世界と何も変わりないのだから驚きだ。

 階段を上がると、そこには初めて見る顔の祖人種アダムシアの女性が此方へ歩いてきていた。青年から壮年の間ぐらいで、ウルクの古風衣装である白の貫頭衣に、星空の象徴であるラピスラズリの装飾を身体の節々に身に付けている。身なりも小綺麗で、それなりに高い地位の人物だと感じさせた。

「あら……。この辺りでは見ない顔ですね。外の世界からやってきた人ですか?」

「ボクは……。そうですね。きっとその通りです。此処は何処なんですか」

「この場所はバビロニアの首都:ウルクのエアンナ複合神殿地区といって、黄金星の女神:イシュタル神を祀る場所です。私はイシュタル神の神官を務めるシャムハトといいます」シャムハトはボクの手を取り、香草の仄かな匂いが感じられる距離まで顔を近付けてくる。「貴女のお名前、何ていうんです?」

「ボクは……アルカといいます」初対面だが、この人相手には不思議と安心できた。

「アルカさん、もしよかったら私が此処を案内してさしあげますよ。来訪者の世話は、昔から私達神官の仕事ですから」

「それじゃ、お言葉に甘えて……」

 ボクの返事にシャムハトは快く笑い、握った手を引いて丸く伸びていく廊下を歩き出す。手を繋いだままなのは少しむず痒かったが、彼女の好意を無下に扱うのも忍びなく、大人しく従う事にした。

「それにしても驚きました。私の時間が、またこうして動き出すなんて思ってもみませんでしたから。それも、貴女のようなまだ生きている魂が入ってきたからなんでしょうね」

 彼女はやけに軽く、自らが死者である事を明かす。

「やっぱり、シャムハトさんは過去の人間なんですね」

「ええ。こうして目を覚ますのも、随分と久し振りです。自分が生きていた時間よりもずっと長くの時間を、冥界で眠って過ごしてきましたから」

「その……。辛くはなかったんですか。どうしてそんなに平然としていられるんです?」

 シャムハトの振る舞いは、昨日まで続いていた日常の延長線上にいるかのようだ。もしボクが一度死んで生き返ったのであれば、その奇跡に感涙し、死という己の不幸を思い出して慟哭せずにはいられないだろう。

「辛くなんてありませんよ。私達は、ただ舞台を下りただけ。自分の持てる輝きは、生きている間に出し尽くしました。舞台を下りて客席から皆さんの輝きを眺めるのは、それはもう退屈する暇もありませんでしたよ」

 シャムハトの口からもたらされたのは、命への執着ではなく、自分という存在への誇りであった。その眩しさが、今のボクにはまだ理解できない。

「ボク達の事を……。見ているんですか?」疑問は尽きない。死後の世界は、ボクにとって至上命題だ。

「生きている人達を見ている訳ではありませんよ。私達は大地の中にいますから。いうなれば、新しく冥界へとやってきた魂の人生を覗き見るような感じでしょうか。冥界では、私達は一つの塊になるんです。自分の時間を終えた魂達の集合体、それが冥界。そこで私達が新たな役を演じる事はありませんけど、子孫達が紡いでいってくれる物語は確かに私達の中へと蓄積されていく。私の心に新たな喜びが生じる事はなくても、次から次へと無限の形を持った喜びが私の中に入り込んでくる。自分もまたその喜びを誰かの為に積み上げる事ができたのだとしたら、それはとても価値のある事なんだと思うんです」

 シャムハトは大きな門へとボクを導き、外に広がる庭園を数歩進んだ所で振り返った。そこには、幾つもの神殿を継ぎ接ぎに結合させて、天高く積み上げた複合神殿が蒼穹を背に聳え立っている。

「これはバベル様式という建築方式です。前の時代に築き上げた神殿を基壇に、上へ上へと新たな神殿を積み上げていくんですよ」

「随分と歪な形になっちゃってますけど……。神様を祀る神殿なんでしょう。こんなに不格好で大丈夫なんですか?」

 神殿の壁は、主たる壁から直角に設置された控え壁と呼ばれる構造で無骨に補強されており、景観の秀麗さを度外視して高く積み上げるのを優先しているようにも見える。

「確かに神殿は神をお迎えする為の場所ですが、神が住まうのは天上であって神殿ではありません。だから見栄えは美しくなくてもいい。大切なのは、私達の繁栄が神の目にも届くようにする事です。だから歴代の王は神殿を天に近い位置へと積み上げて、民を代表して信仰の深さを神へと示すのです」

 幾星霜の時を掛けて積み上げていく。自分達の営みと繁栄を、神のいる場所に届かせるまで。その価値観が、現代の鉄学者にも根付く巨大構造物への信仰に繋がっているのかもしれないとボクは思った。

「そうだ。もしよかったら、ウルクの街を見に行きませんか? つい先程ベル大王様が、此度の怪現象の調査から戻ってこられたそうなんです。ベル大王様は先王ルガルバンダ様にも勝って偉大なお方ですから、会っておいて損はありませんよ」

 ベル大王。その言葉に、ボクは思わずベルの姿を想起した。胸の中で絡まるんじゃないかと思う程に跳ねた心臓が、ずくずくと鳴っている。

「そのベル大王って……。ギルガメシュの事ですか」

「うふふ。今じゃ随分と悪名高い王として伝わっているみたいですけど、私達にとってはとても良い王様だったのですよ。若い頃は随分とやんちゃもしていたみたいですけど、をご友人に得てから、あのお方は変わりました」

「エンキドウ……? あいつに友達がいたんですか」自分の知らないベルの一面に、少し胸がチクリとする。

ベル大王様にとって後にも先にも親友と呼べたのは、エンキドウ様只一人でしょうね」

「そんな事ありません! ボクだって、あいつの親友です!」気付けば思わず叫んでいた。はっと顔が熱くなる。

 シャムハトは驚いた顔をしていたが、直ぐに柔らかい花のように微笑む。

「そうですか。貴女があの人の友達になって下さったのですね」彼女は、ボクの言葉を戯言だと捉えなかった。「では、尚更ベル大王様に会っていただかなくては。少し、待っていてください」

 神殿の裏へシャムハトは駆けていくと、少しして二頭の馬に荷車を引かせてやって来る。荷車に乗った彼女は馬に噛ませたハミから伸びる手綱を握り、「此方に乗ってください!」と馬を停めてくれる。

 ボクが荷台に乗ると、馬車はシャムハトの運転で走り始めた。こうして乗り物に乗っていると、電車やボートにのって大騒ぎしていたベルの事を思い出す。この速さなら、ベルも怖がりはしないだろう。

「随分と穏やかな顔になりましたね」横からシャムハトが声を掛けてくれる。

「……そうですか?」

「初めてお会いした時は、運命に絶望した病人のようなお顔をされていましたよ」

「う……。図星かもしれません」なにせ直前まで、文字通り病床にいたのだから。

ベル大王様の話をしてから、急に元気になられた気がします。貴女にとって、ベル大王様は生きる力を与えてくれる存在なのですね」

 隣でそんな事を言われると、気恥ずかしくなる。……この場にベルがいなくてよかった。

 馬車は神殿の周りにあった祭事場らしき地区を抜け、住宅地へとやってくる。粘土を焼いて作った煉瓦で出来た家屋が立ち並び、家と家の間には水路が通されていた。その光景は、どこかオケアノスにも似ている。

「この灌漑水路は、ベル大王様が作り上げたものです。楽園から流れてきたユーフラテス川の水は、ベル大王様がウルクの全域に通わせた灌漑水路によって各家庭へと運ばれ、大麦やネギを育てます。大王様は星見の力で自然の力を自由にし、民の生活を豊かにしてくださっているのです」

 シャムハトの語るギルガメシュは、どうもボクの知るベルと同一人物であるとは思えなかった。まるでベルが、良き王になった後の記憶を全て失ってしまったかのようだ。

「シャムハトさん、一つ聞きたい事があります」

「なんでしょう? 私にお答えできる内容であれば……」

「ギルガメシュは、神々から原初の火ビッグ・バーンを盗んだんですか?」

 世界の記憶アカシック・レコードの一部になっていたシャムハトなら、現代に伝わるギルガメシュの伝説も知っているだろう。彼女は僅かに顔を曇らせる。

「ええ。ギルガメシュ様は最後の巨人にして自然の守護者であったフワワを殺し、原初の火ビッグ・バーンをウルクへと持ち帰りました。あの方がエンキドウ様とご友人になり、人間達の事を大切に考えるようになった頃です」

 またエンキドウか。さっきから事ある毎に、ギルガメシュという名前の隣へと居座ってくる。

「エンキドウというのは何者なんですか。歴史書にも、その名前は記されていませんでした」

「そうでしょうね。エンキドウ様の名前は、あの方がご自身の手で全て消されてしまいましたから」そう語るシャムハトの瞳は憂いを帯びる。「エンキドウ様は、人間達を牛馬同然に扱うギルガメシュ様を諫める為に、神々が作り出した最後の半神デミゴッドです。ギルガメシュ様はエンキドウ様が生まれた夜に、天より降り注ぐ星と共に黄金の斧が落ちてくる夢を見たといいます。その後二人は数日間に亘って拳を交え、真の友情を築いたのです」

 星と共に降る黄金の斧。正しく、ベルが自分を殺したと言っていた最期の光景と同じである。

「エンキドウは……。どうして自分の名前を消させたんです?」

「神として崇められる様になったご自身を消し、マルドゥック神の信仰を復活させる為でしょう。人々の記憶によれば、若くしてお亡くなりになったエンキドウ様は死後にされたのです。ベル大王様亡き後に、バビロニアを治める伝説の不死王:ネブカドネザルとして。その当時はバビロニアの国中に、ベル大王様がエンキドウ様の死を悼んで建てさせた、エンキドウ様の像が並んでいました。ベル大王様は神であった頃のご自身であるマルドゥック神の像を撤去し、エンキドウ様を新たな守護神として据えたのです。……あの方はそれが耐えられなかったのかもしれません」

 エンキドウとネブカドネザル。彼等は同一人物だった。

「エンキドウは……。もしかして病床で死んだのではありませんか?」

「ええ、そうですよ。ベル大王様が原初の火ビッグ・バーンを手に入れた後、その力に魅入られた黄金星の女神:イシュタル神はベル大王様に言い寄りました。ですがむべもなく断られた女神は怒り狂って星の力を巨大な獣に変え、ウルクを襲わせたのです。エンキドウ様と共にベル大王様の手によって獣は討ち滅ぼされましたが、神に弓を引いた罪でベル大王様は神の審判に掛けられました。ですが神によって全てを与えられたベル大王様には罰は与えられず、代わりにエンキドウ様が死の病を受ける結果になったのです」

 これで全てがはっきりとした。ボクと同じ『未来へと追い付く能力』を使い、歴史の裏で暗躍し続けてきたネブカドネザル。それと同一人物であり、病床で孤独な最期を迎えたエンキドウ。

 エンキドウこそが、ボクの前世であったのだ。彼は病床で死後に訪れる出来事の数々を予知し、その未来を変える為に“独立変数ラプラス”で未来への介入を行った。

 ボクが前世の記憶を持って生まれた秘密も、そこにあるのかもしれない。

「さあ、着きましたよ。エアンナの円形大広場です」

 シャムハトは大通りの脇に馬車を停め、ボクも荷車から下りる。


「あー! アルカちゃんじゃないっすか!」

 元気な声と共に此方へ走ってきたのは、なんとハルフィだった。

「ハルフィ! 無事だったんですか!」

「無事……。なんすかねぇ? 戦ってたらいつの間にかこの変な世界に飛ばされて……。シナン様や皆ともはぐれちゃったっすよ。此処にはバビロニアの人達がいっぱいいて助かったっすけどね」

 事情を理解していないハルフィは、何だかお気楽である。

「これが星の贖罪計画の結果ですよ。過去と現在が混じり合って、ボクらは情報だけの存在になってしまったんです」

「王国を取り戻すって……。過去の世界へと戻るって意味だったんすか。情報だけの存在っていうのはよく分からないっすけど、五感もしっかりあるし、以前と何も変わらないから気付かなかったっす」

 その点はボクも同意見だ。自分が今不老不死になっているだなんて、全く実感が無い。

「あら、アルカさんのお友達ですか?」馬の世話を終えたシャムハトが近付いてくる。

「うへへ……。お友達だなんて……!」友達という言葉に、ハルフィはでれでれと頬を緩めている。

「そうですよ。現世にいた頃の連れです」

「んへぇ! アルカちゃん!」

 引っ付いてくるハルフィを引き剥がそうとするボクを見て、シャムハトは嬉しそうに微笑んだ。

「バビロニアの民と、外の国の人……。こうやって仲良くできる時代がきたんですね」

「アルカちゃんのおかげっす。アルカちゃんとベル様ならきっと、理想の世界を創ってくれる王になるっすよ」

 その時、太鼓の音が円形広場へと鳴り響いた。音に引かれた目線の先に、列を成した祖人種アダムシアの一団が見える。

 先頭を歩いていたのは、王族らしい清潔な貫頭衣に、黄金とラピスラズリの装飾で身を包んだベルの姿だった。

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