第5話 家族の偶像

「急ぎの仕事があるので、少し席を外しても構いませんか?」

「ああ。こちらが勝手に来たのだから俺のことは気にしないでくれ」


 アリシアにとって感情のままに行動する時期は『母親になると決めた日』に終わり、年月を経て千々に乱れる感情を制御する方法も身につけた。

 ヒューバートの言葉に甘えて作業机に着いたアリシアは使い慣れた道具を取り出し、次に少し奮発して仕入れた生地に手を伸ばす。


(この生地は高い、いつもの三倍……失敗は赤字、赤字)


 集中するために深呼吸をし、先日引いた線に合わせて鋏をあてる。


 ショキショキ……ショキショキ……


 今では慣れ親しんだ音を聞いているとアリシアの中のごちゃごちゃした感情が整い、思ったより緊張していた自分に気づいて苦笑した。


(最後にお会いしたのは初夜の床ですもの、緊張して当たり前よね)


 ジョキンッ


 自分の思考からそのときを思い出したアリシアの手元が狂い、大きく聞こえた鋏の音にアリシアは慌てて布を確認して安堵する。

 鋏は無事に反対側の端に到達していた。


 この状況で彼の存在を無視しようというのは土台無理な話だと悟ったアリシアは高価な生地を横に置き、息子に頼まれたハンカチの刺繍の続きをすることにした。


 最愛である息子の名前を、彼の好きな青い色の糸を丁寧に重ねて文字にしていく。

 ヒューバートとアリシアが床を共にしたのは一夜だけで、パーシヴァルはその夜に宿った子どもだった。

 何年も子どもができずに悩む夫婦のことを考えれば奇跡のようだ感じていた。しかし、アリシアにとって奇跡であり歓びでもある存在のパーシヴァルだが、保守的なこの街では忌避されている。


(もう噂になっているのね)


 窓の外を見れば顔を知っている程度の女性数人が店の方をチラチラ見ていた。その目に見える軽蔑の感情にアリシアはため息を吐く。


 この街に来て以来、アリシアはずっと誰かに監視されている気分だった。彼らの価値観に会わない行動をしたら瞬く間に囲まれて糾弾されそうな、不快であり、異端を排除しようとする彼らに恐怖心さえ感じていた。

 隣人のジーンはこの街の出身ではあるが、二年ほど前まで王都で働いていたためこの街から出たことのない他の人に比べると見識は広い。

 ただそんな彼女であっても「余所から来たのだから仕方がない」と言うことがある。それを聞くたびにアリシアは哀しくなり、この街は自分たちのいる場所ではないような気がするのだった。


(パーシヴァルも初等学院に行く年齢になるし……頃合いかもしれないわね)


 そう思いながら、アリシアは窓の外を観察しているヒューバートに目を移す。幾つになっても変化のキッカケを起こすのはこの、いまは元夫のこの男性だと思うと、アリシアは何だか可笑しかった。


 ***


「ただいま」


 扉につけた来客を報せるカウベルの音と、少年特有の高めの声。扉が閉まる音より先に、反射的に立ち上がっていたアリシアの体に細い腕が巻き付いた。


「お帰りなさい」


 いつものように飛びついてきた息子を抱き返しながら、視界の端で驚いた顔をしているヒューバートに気づく。自分と同じ黒髪をした少年に驚いているのだろうか。そんな彼にアリシアは苦笑する。

 パーシヴァルは目の色だけはアリシアに似たが、他はヒューバートをそのまま幼くしたような少年だった。


(変な感じだわ)


 結婚した夜、ヒューバートはアリシアに触れるときに許可を取った。貴族の礼節を学び、貴族の男性が許可なく女性に触れないことを知識では知っていたが、改めて触れるための許可を取られて恥ずかしかったし、同時にアリシアは寂しいとも感じていた。


 ヒューバートは出会いから結婚式の夜まで、貴族男性としての姿勢を崩さなかった。


 パーシヴァルはアリシアに触れるときに許可など取らない。

 『大好き』という気持ちを全身で表すように飛び込んでくる。それはパーシヴァルがアリシアの子で、アリシアがパーシヴァルの母、二人は『家族』だからだ。


(夫婦として過ごしていれば、私たちは家族になれたのかしら)


 許可など必要とせず触れ合える関係に。

 貴族として、夫としての義務感ではなく、少しは興味で自分に触れてくれただろうか。


(今さらだわ)


 アリシアは自分の腕の中にいる、幸せそうに自分に甘える最愛の存在に集中する。

 彼の父親とはいえ、パーシヴァルに集中せずヒューバートのことを考えていたことへの謝罪を込めて、少年の体を抱きしめる腕に力を込めた。


 ***


 目の前の光景に、ヒューバートは夢を見ているような気分だった。


 店に飛び込んできた少年の黒髪は赤く光り、レイナード家の黒髪をしていることは直ぐに分かった。いや、そんなものがなくても少年が自分の子どもだと直ぐに分かったとヒューバートは思う。

 それほどまでに少年は色だけでなく、形も自分によく似ていた。二十年前の自分に、時を超えて再会した気分だった。


「パーシヴァル」


 抱擁を解いたアリシアが屈みこんで少年と目を合わせる。そのアリシアの翠色の瞳はとても優しく、甘く。彼がアリシアにとって『最愛』であることが直ぐに分かった。


「あなたに会わせたい人がいるの」

「分かってるよ……入口にあんな人たちがいるんだもん」


 少年の笑い混じりの言葉に、アリシアが困ったような表情を浮かべる。そして観念したように目を伏せると、腕の中の少年の向きを変えてヒューバートと向き合わせた。

 少年の目に映るのは強張った自分の姿。緊張の喉を鳴らしたとき、少年の目がパッと大きくなる。


「うわあ……僕にそっくり」


 少年に会ったら、とヒューバートはつい先ほどまで考えていた。「初めまして」と言うべきか、それも何だか変だとか。そんなごちゃごちゃした思いを目の前の少年が吹き飛ばしてくれた。


「本当、だな……でも目の色は違う」


 少年の瞳はアリシアと同じ翠色だった。


(アリシアが産んでくれた、俺の子ども)


 自分の特徴とアリシアの特徴が共存する少年の姿にヒューバートは目の奥が痛くなったが、男のプライドで奥歯を強く噛み、かろうじて耐えた。

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