第3話 七年後の元夫婦

 ヒューバートが十三歳、アリシアが十一歳のとき、二人は婚約者になった。レイナード侯爵家とコールドウェル子爵家の双方に利益のある政略的な婚約だった。


 ***


 アリシアが生まれたコールドウェル子爵家は爵位こそ子爵だったが、優秀な先祖のおかげで王家から領地を与えられ、それを上手に運用しながら莫大な資産を築いてきた。

 アリシアの父はそんな子爵家の血を継いでいることが信じられないほど、とことん堕落した人間だった。

 領主としての仕事は領官に丸投げして、酒・女・賭けごとと資産を減らし続けた。何もしないくせに人一倍野心もあり、資金援助をエサに高位貴族である伯爵家のご令嬢を娶った。


 アリシアはそうして得た正妻の娘ではなく、子爵邸で働く下女が産んだ私生児だった。

 子爵がアリシアを娘として育てたのは責任感ではなく、養子に出すのも面倒だったからという最低の理由だった。その後、乳母と侍女に育てさせたアリシアが美しい少女だと分かり、金の卵を手に入れと子爵は有頂天だった。


 金や社会的地位、子爵はアリシアの結婚相手を吟味し続け、やがて伯爵家よりもっと上、侯爵家との縁続きを目論んだ。

 すでに狙いはつけていた。

 彼は由緒ある侯爵家の嫡男であるヒューバートとアリシアの婚約を成功させた。


 ***


 ヒューバートが生まれたレイナード侯爵家は、曽祖父の代から領政が上手くいっていなかった。

 冷涼な気候の影響で農作物が育ちにくく、特産ともいえる産業もない。運任せの自転車操業にも限界がきて、ヒューバートの父が侯爵位に就いた頃には先祖代々の資産を食い潰していた。


 ヒューバートの父は楽天家というか、自分をとことん甘やかすタイプの人間で、「父上もどうにかなったのだから僕も大丈夫」という根拠なき理論で借金をし、毎年借金を積み重ね続けた。「大丈夫じゃないかも」と気づいたのは、銀行にこれ以上の融資はできないと言われたときだった。


 資産はない、借金を返す当てもない。そんな状況で突然告げられた自分の婚約者、しかもよい噂のないコールドウェル子爵の娘。


 婚約者の決定を告げられたその日に子爵邸まで連れて来られたヒューバートは、子爵邸の高い塀が日を遮る陰気な道の雰囲気も相まって、身売りをさせられる気分だった。



「ヒューバート・クリフ・レイナードです」


 子爵邸の家令の案内で応接室に行くと、子爵と父侯爵は応接室ですでに酒を飲み始めていた。グラスの中身の減り具合から、遅くなってしまったと思ったが、婚約者となる令嬢の姿はまだなかった。

 父侯爵もそれを不思議に思ったのだろう。令嬢の所在を訊ねる質問に、「準備に時間がかかっておりまして」と子爵は脂ぎった顔に下卑た笑みを浮かべて答えた。


「それよりも侯爵様、おかわりはいかがですか?」


 そう言った子爵夫人は美人ではあったが、父侯爵に向ける愛想のよい笑みとは対照的に、ドブネズミでも見るような目を向けられたことがヒューバートは不思議だった。


 蔑むような視線には慣れていた。


 当時のヒューバートのあだ名は『ハズレ』。高位貴族としての義務はあるくせにお金はない、将来の苦労が手に取るように分かる結婚相手だから『ハズレ』。

 下位貴族の令嬢でも堂々と嘲笑するほど、ヒューバートは蔑まれていた。


(結婚相手にはそもそも期待していない)


 ヒューバートには貴族の嫡男として後継ぎを作る義務を理解しており、義務感で参加した茶会の居心地の悪さと相まって「幸せな結婚」は全く望んでいなかった。

 まだこの場に来ない婚約者の令嬢も、自分を『ハズレ』といって見下してくるのも予想できていた。資金援助している家の娘なのだからと無理難題を吹っ掛けてくる可能性も覚悟していた。


(暴力になら耐えられるし、愛せと言うならば愛する振りもしてみせる)


 貴族令息らしく表面上は穏やかな笑みを浮かべつつも、ヒューバートの体の中では暗い感情が渦を巻いていた。

 父親も、目の前の子爵夫妻を含めた自分を見下す他の貴族も、『ハズレ』と言いながら笑う貴族令嬢たちも、ヒューバートは憎くて堪らなかった。


(絶対に許さない)


 ヒューバートがひっそりと復讐を誓った瞬間、応接室の扉がノックされ、家令が開いた戸口に立つ令嬢にヒューバートは息を飲んだ。


「アリシア・メルト・コールドウェルです。初めまして、侯爵令息様」


 そう言ってペコリと頭を下げる姿は全く貴族らしくなかった。挨拶の順番が父侯爵より自分が先ということも変だった。

 それなのに金色の髪に翠色の瞳をしたアリシアは、ヒューバートの知る令嬢の誰よりも貴族のご令嬢らしかった。彼女の容姿ではなく、彼女の翠色の瞳が、ヒューバートをジッと見て『ヒューバート』という目の前の人間を品定めするようなアリシアの目がとても真剣だったから。


 人によってはあのような不躾な視線を不快だと感じたかもしれない。

 でも、あの時のヒューバートはあの視線がとても心地よく、彼女をエスコートしようと立ち上がったのは義務感ではなく自らの希望だった。


 ***


 引き出しに封筒を戻すアリシアの後ろ姿を眺めながら、自分に母子証明書を突きつけたアリシアの目を思い出していた。


(あの『目』は変わらないな)


 母子証明書の法的効力を過信せずに、ヒューバートがどんな考えを持ち、どんな行動をするか探る様な目。噂や推測で相手を勝手に判断せずに知ろうとするその目は、婚約した日に初めて見た目と同じだった。


(あれから七年……二十五歳か)


 普段のヒューバートならば相手の年齢はもちろん、相手について情報を集めるだけ集めて対応する。

 この街についてからアリシアについて調査することだってできた。普段のヒューバートで、相手がアリシアでなければそうしていた自信があった。


 いつもの手順を踏む間も惜しんでアリシアの店に来たことを、ヒューバートはここに来て初めて後悔した。


(アリシア・メルト・シーヴァス……シーヴァス、か)


 ヒューバートは指輪のはまっていない左手の薬指から目が離せなかった。


 ***


(息が詰まりそう)


 封筒を戻して再び席に着き、緊張で乾いた喉を紅茶で潤したアリシアは時計を見て、まだ五分もたっていないことにため息が出そうになった。

 視線をヒューバートに向ければ、無表情ではあったが眉間や口許にわずかな緊張が見られた。いい大人が揃って何をしているのかと苦笑する。


(二十七歳……雰囲気が違うのは年齢のせいだけではないわね)


 アリシアの中のヒューバートは二十歳で止まっていたため、最近では思い出しても年下の可愛い男の子のように感じていた。

 それなのに、いま目の前にいるヒューバートは社会的に成功した自身と経験で男としての厚みが増している。アリシアが知っていると思っている男の子と同一人物とは思えない。


(……老けたとか思われていないかしら)


 接客業なので清潔感には気を使っているが着ているワンピースは何度も着たものだし、化粧は簡単にすませてしまったし、家事や仕事の邪魔だからと長い髪は一つに縛っただけ。

 子爵令嬢だった時代に未練は全くないが、子爵令嬢だったときの自分しか知らないヒューバートから見ていまの自分がどう見えるのかが気になった。


 そうなると小さな机で向かい合う現状が気になり、アリシアは少し椅子を引いて後ろに下がって距離をとる。


(まだ近いけれど仕方が無いわよね)


 自分が変だった。

 普段以上に身なりが気になったり、距離に緊張したり、懐かしさに……安心してしまったり。


 完全に政略的な婚約だったがアリシアとヒューバートは特に不仲でもなく、『円満な婚約』を演出するための義務的なお茶会だったが、四阿の中で向かい合って二人で過ごす時間は意外なほど穏やかで他愛のない会話も楽しめた。

 互い会話は得意な方じゃなく沈黙も長かったが、何を話そうか悩んでいるヒューバートの、日の光が当たると赤く輝く黒髪を見ている時間も楽しかった。この黒髪はいまも変わらず、目の前に座るヒューバートの黒髪も窓から入ってくる光で赤く輝いている。


(やっぱりパーシヴァルに似ているわ)


 正確にはパーシヴァルがヒューバートに似ているのだが、『似ている』と感じていた以上に息子が父親に似ている姿を見せつけられて、父子の縁を痛感する。


(パーシヴァルと会ったら……どうなるのかしら)


 こうやって会いに来た以上は、親権を除いても今後は何かしらの繋がりを求められることが想像できたし、すでに父子の縁ができている以上は二人を必要以上に引き離す権利が自分にないことがアリシアには分かっていた。


 それでもアリシアが落ち着いていられたのは、ヒューバートへの信頼もあった。彼が何を望んでも、ヒューバートは自分を息子の母親として遇してくれると信じていた。


(そんなことを感じるなんて……お茶会はそんなにお話していないし、文通の効果かしら)


 ***


「お嬢様、レイナード侯爵令息からお手紙が届いています」

「え?」


 予想外の侍女の言葉にアリシアは二回聞きなおし、三回も言い直させられて苛立っていた侍女から押し付けられるようにしてその手紙を受け取った。


(この前の手紙のお返事かしら)


 学院の入学式の日、アリシアはヒューバートがこれから暮らす寮宛てにお祝いの手紙を送った。

 ヒューバートの負担にならないように、返事を望んでいないことが分かる様な手紙にしたため返事が来るとは思っていなかった。


 震えながら開けた封筒の中の便箋に書かれていたのは、無事に入学式が終わったこと、健康であること、学院の構造。どちらかといえば報告書のような手紙だったが、どこかヒューバートらしいと思えた。


 それから手紙はほぼ毎週届いた。


 【寮で隣の部屋の男が馴れ馴れしくて、実に鬱陶しい】とあったときは、その対策としてアリシアは、新聞の特集にあった『円滑な人間関係の構築方法』という記事を写して送った。

 【学院の食堂の料理は独創的で、週に一回は胃腸の調子が狂う】とあったときは、その対策として庭で育てていた整腸効果のある乾燥ハーブを同封した。

 手紙の中で愚痴めいたことをぼやくヒューバートはお茶会で見ていた彼よりもアリシアには身近に感じられた。

 

 (子どもの両親として、そのくらいの関係を求めても良いのかしら)

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